八本杉:伝・八岐大蛇(4)

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スサノオはおもむろに腰の剣を抜き、酔って寝てしまったヤマタノオロチの首を、次々斬り落としました。
そのつるぎは十握剣(とつかのつるぎ)、または「天羽々斬」(あめのはばきり)と呼ばれた神剣です。
スサノオは首に続いてオロチの体を切り刻みましたが、最後に尾の部分を斬ると、天羽々斬の刃が何か硬いものに当たって欠けてしまいました。
不思議に思ったスサノオは尾の中から、その硬いものを抜き出します。
それはオロチの血に濡れながらも美しく輝く、一振りの剣でした。
剣の上には怪き雲があったので、それは「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)と呼ぶことにしました。
その剣は、今は三種の神器のひとつ「草薙の剣」(くさなぎのつるぎ)と呼ばれています。

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雲南市加茂町三代にある、「尾留大明神旧社地」(おとめだいみょうじんきゅうしゃち)を訪れます。
そこはかの神剣、「天叢雲剣」の発祥地と伝わります。

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八塩折の酒に酔いつぶれたオロチを退治したスサノオは、この御立薮で大蛇の尾を開いて「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)を得ました。
剣は天照大神に献上し、後、三種の神器の一つとして名古屋の熱田神宮に祀られるに至ると云います。

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船通山山頂に「天叢雲剣出顕之地」という記念碑が建っているそうですが、伝説にそうなら、この場所こそがそれに相応しいと思います。

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雲南市木次町にある「斐伊神社」(ひいじんじゃ)です。

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出雲国風土記に「樋社」(ヒノヤシロ)として比定される一社です。

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線路を挟んだ先に、ヤマタノオロチの首を埋めたと云われる「八本杉」があり、元は同一境内にあったとされています。

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当社は古くから、地域住民の氏神として崇められており、

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境内には本殿のほか稲荷神社、火守神社、八幡宮が鎮座しています。

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祭神はスサノオノミコトであり、関東地方に分布する氷川神社のルーツと云われています。

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富家の伝承では、「天叢雲」の名は、大和王朝初代王の名として登場します。

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1回目の渡航で出雲に上陸した徐福は、「ホアカリ」と名乗り、八千戈王(大国主)と宗像家の多岐都姫の娘「高照姫」を后に迎え、「五十猛」(香語山)を儲けます。
2回目に佐賀に上陸した徐福は「ニギハヤヒ」と名乗りますが、そこで宗像家の「市杵島姫」を后に迎えますが、その子「穂屋姫」と「五十猛」が結ばれ、「村雲」が生まれます。
五十猛は丹波で「海家」(海より渡来した一族にちなむ)と名乗っていたので、村雲は大和で「天村雲」王と呼ばれました。
徐福は「ホアカリ」「ニギハヤヒ」の名で呼ばれていましたが、記紀には「スサノオ」と記されるようになりました。
つまり天村雲は、スサノオの血を濃く受け継いでいたのです。

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記紀では政権交代を隠し、万世一系に見せかけるため、第一次・第二次の物部東征時代を、大和王国創立の時期に改変しました。
これにより天村雲王の名は歴史から消され、神武天皇という人物が創作されたのです。
天叢雲剣とされる剣も、天村雲が大和大王に就任した時、お祝いの品として出雲王家から献上された剣だと云うことです。

https://omouhana.com/2017/12/12/葛木坐火雷神社:八雲ニ散ル花%E3%80%8030/

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斐伊神社の境内から線路を越え、しばらく進むと、ヤマタノオロチの頭を埋めたと伝わる「八本杉」があります。

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オロチが再び生き返って人々に危害を与えないよう、八つの頭をこの地に埋め、その上に杉を植えたと伝えられます。

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八岐大蛇伝説は、吉備津彦兄弟の出雲侵攻を神話化したものだと、富家では伝えられています。
鳥取県日野郡日南町にある樂樂福神社の場所に陣屋を構えた吉備津彦兄弟は、斐伊川に沿って出雲人の村々を焼きはらい、奥出雲を目指しました。

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大吉備津彦らは、出雲王家の血も受け継いでいますが、血筋を遡れば、「スサノオ・徐福」の血を引いているので、神話ではスサノオに例えられました。

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それに対し、抵抗する出雲人達はオロチの胴体に例えられ、斐伊川支流の出雲人は八つの首に例えられました。

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この杉の根元にヤマタノオロチの首が埋まっていると言い伝えられますが、それが本当なら、ここに埋まっているのは各出雲族の首長の首なのかもしれません。

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それほどまでに、吉備軍の侵攻は激しさを増していたと伝えられていました。

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