山形の羽黒山、奈良の熊野大峰山とともに「日本三大修験山」に数えられ、新潟の弥彦山、兵庫の雪彦山とともに「日本三彦山」に数えられる名山、
それが「英彦山」(ひこさん)です。
英彦山は、福岡県田川郡添田町と大分県中津市山国町にまたがる標高1,199mの山です。
その深い山の中に「英彦山神宮」があり、参道の起点とされる場所に、「銅(かね)の鳥居」があります。
鍋島勝茂の寄進と伝わります。
英彦山登山口にある「英彦山神宮奉幣殿」までは長い坂道と階段が続きますが、今は全長849mのスロープカーが完成し、英彦山神宮奉幣殿まで約15分で行くことができます。
が、僕はそのまま奉幣殿近くの無料駐車場まで車で進みました。
登山口にあたる別所駐車場に車を駐めると「花見ヶ岩公園」があります。
その方向へ足を進めると、大きな岩の丘がありました。
石碑の先に青空が広がります。
さらに岩の先端まで進みます。
その先には、
パノラマの風景がありました。
尖った岩の先端から
ぐるりと遠景を望んだ先に、
これから目指す英彦山の山頂が見えました。
英彦山は向かって左側の「北岳」、「中岳」、向かって右側の「南岳」の3つの峰があります。
上宮がある中岳まで登る中央のコースは石段が続くきついコースですが、それでも最もポピュラーで初心者向けのコースとなっています。
一番過酷なコースは鬼杉を目指し、そこから南岳に登るコースで、登頂には5時間ほど有するそうです。
ところで、どう見ても中岳が一番高いように見えるのですが、英彦山の最高点は南岳(1,199m)となっています。
福岡県内では、大分県日田市との境にある釈迦岳(1,231m)に次いで2番目に標高が高い山となります。
花見ヶ岩公園から参道を目指し、いくつか連なる売店を通り過ぎます。
すると立派な石の鳥居が建っています。
扁額には独特な「英彦山」の文字が見えます。
この字体、紀伊の熊野では「カラス文字」と呼ばれていました。
が、英彦山のそれは、さしずめ「タカ文字」といったところとなるのでしょう。
英彦山、及びこの北部九州では「鷹」が、古代の神話を読み解くキーワードとなってきます。
石の鳥居のそばには、道真公を祀る「中島神社」があります。
そしてそこから奉幣殿までは、先が見えないほどの石の階段が続きます。
この階段が至る先はまだ登山の出発点に過ぎません。
ここで体力を消耗してしまうと、後々厳しいので、ここはゆっくり写真でも撮りながら進みます。
この道の両脇には、山伏の坊舎跡など往時をしのぶ史跡がたくさん残っています。
英彦山は山伏の修験道場として、最盛期には数千名の僧兵を擁し、大名に匹敵する兵力を保持していたと云い、「英彦山三千 八百坊」と呼ばれていました。
この山の領主は「豊前佐々木氏」であり、「佐々木小次郎は」この豊前佐々木氏の出身だそうです。
流派「巌流」は英彦山山伏の武芸の流れをくむとする説があると云います。
英彦山は秋月種実と軍事同盟を結んでいたため、天正9年(1581年)、大友義統軍による1ヶ月あまり続く闘争で、多くの坊舎が焼け落ち、多数の死者を出し、勢力を失っていきました。
それにしても、英彦山のこの膨大な石の数に驚きます。
山頂まで続く石の道は、果てしない祈りの営みです。
比叡山にいたという石工たちの手によるものと聞いています。
「招魂社」というものがありました。
勤皇義僧の墓所で、田川護国神社の奥宮として、11柱をお祀りしているそうです。
維新志士の墓地とあり、
奥に石の祠があります。
境内には英彦山義僧11名の墓石が並んでいました。
いよいよ奉幣殿です。
ようやく着きました。
と言っても、もちろんここがスタート地点です。
そこに上がれば、優美な奉幣殿の姿が迫ってきます。
奉幣殿は国指定重要文化財です。
天平12年(740年)年建立とのことですが、現在の奉幣殿は江戸時代に、当時の小倉藩主「細川忠興」公の寄進によって再建されたものと云います。
江戸時代の建築ですが桃山風の建築様式であると云います。
神仏習合の時代には奉幣殿は「大講堂」と呼ばれていました。
境内には池があり、
その水源の方に御神水がありました。
龍神「天之水分神」(アメノミクマリノカミ)とあり、修験行者が入峰時に峰中の保健飲料とお守りに用いたそうです。
今は不老長寿の霊水と伝わります。
英彦山の牛王宝印は、熊野のそれと違って「カラス文字」ではなく3羽の「鷹」が描かれています。
では、ここから英彦山の真髄へと足を踏み入れていきます。