勝連城跡

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勝連半島に細長く延びたグスク。
中国との交易などに使われた進貢船(しんこうせん)に似た形状から「進貢船のグスク」とも呼ばれる「勝連城跡」(かつれんぐすくあと)を訪ねてみます。

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平成12年(2000年)に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」に登録されている最古のグスク勝連城は、古より交易が盛んで出土品も多く、今も発掘調査が進められています。

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沖縄本島の中北部・中城湾と金武湾に挟まれた勝連半島の小高い丘の上にある勝連城は、

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その堅固な城壁、防御に徹底した造りから、難攻不落の「鉄壁の城塞」として知られています。

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勝連城は10代にわたり按司(あじ)によって治められてきましたが、10代城主、「阿摩和利」(あまわり)の治世に最盛期を迎え、そして衰退していきます。

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阿麻和利は地の利を活かした螺鈿細工に使用する貝の輸出や中継貿易の拠点として交易を推し進め、莫大な富を築いたと考えられています。

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こうした経済力と軍事力を合わせ持った阿摩和利を最も恐れたのは、時の琉球王国国王「尚泰久」(しょうたいきゅう)でした。
尚泰久王は名将として知られた「護佐丸」(ござまる)を中城城に派遣して防波堤の役割をさせ、そして自らの娘の「百度踏揚」(ももとふみあがり)を阿摩和利に嫁がせ、懐柔させようと試みました。

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勝連城は4つの「曲輪」(くるわ)と呼ばれる区画から出来ています。
一番下の広地を「四の曲輪」と言いますが、そこから「三の曲輪」までは標高差20m。

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そのきつく長い傾斜の階段を、敵は城壁の上からの攻撃を受けながら登らなくてはならないのです。

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三の曲輪に着きました。

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そこからは二の曲輪、一の曲輪が見えています。

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三の曲輪でひときわ目立つ大木。

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ここは「肝高の御嶽/トゥヌムトゥ」(キムタカノウタキ)と呼ばれます。

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この場所は、旧暦二月と三月に「麦」、五月と六月には「稲」の、それぞれ初穂や豊作を祈る「ウマチー」という祭事の際の拝所であるそうです。

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この大木の下にある石は、「神人」(かみんちゅ)と呼ばれる女性祭司らが腰掛けるためのもののようです。

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ところでかつて反逆者のイメージが強かった「阿摩和利」ですが、現在では英雄として沖縄人に慕われています。
それを決定付けたのが、沖縄最古の歌謡集『おもろさうし』で、そこには「肝高の阿摩和利」(きむたかのあまわり)と彼を賛美しています。

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肝高とは志が高い人・英雄を指す賞賛の言葉であり、阿摩和利の人徳を示すものでした。
この肝高の御嶽は、阿摩和利を祀っていると云われています。

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この他、三の曲輪にはすり鉢城の遺構などがありました。

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二の曲輪に上がります。

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そこには立派な舎殿が建っていた跡を示す礎石が並んでいます。

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二の曲輪はほとんど舎殿にスペースを割いていますが、隅の方には聖蹟が残されていました。

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「ウミチムン」と呼ばれる拝所です。

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ウミチムンとは「三個のかまど石」を意味する言葉で、琉球古来の火の神(ヒヌカン)が祀られています。

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また、藪地島(やぶちじま)、浜比嘉島(はまひがじま)、久高島(くだかじま)、津堅島(つけんじま)など、神話を残す周辺の島々を、遙かに拝む場所でもあるそうです。

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「ウシヌジガマ」という洞穴もあります。
このガマ(洞穴)は「身に危険が及んだ時に逃げ込む場所であった」と云われています。

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この洞穴は一の曲輪にある「玉ノミウヂ御嶽」脇の洞穴と繋がっており、阿麻和利は、ここを抜けて現在の読谷村まで逃げ延びたという伝説が残っています。

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さて、残すところ一の曲輪のみですが、三の曲輪からみた時はそんなに高く感じなかったものが、近くに立つと威圧されるほどの高さを感じます。

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長さこそ短いものの、かなりの急勾配。

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息を切らせつつ、ようやく登り切ると、

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そこには360度の絶景が待っていました。

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 一の曲輪の標高は約98m、視界を遮るものもなく、久高島から中城城跡なども見渡すことができます。

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一の曲輪の発掘調査では、海外交易により得られた質の良い品々が出土しました。

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ゆえに一の曲輪には宝物殿のような建物があったと考えられています。

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一の曲輪のほぼ中央に、「玉ノミウヂ御嶽」があります。
ここは勝連を守護する大きな霊石をご神体とする御嶽なのだそうです。

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また、霊石脇にある洞穴が、二の曲輪のウシヌジガマと繋がっていると云われている洞穴です。

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肝高と謳われた阿麻和利。
彼は護佐丸の中城城を滅ぼし、さらには首里攻略を進めました。

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しかし彼の妻「百度踏揚」が勝連城から抜け出し、首里城に危急を知らせたことにより、首里軍は勝連城を攻め、「鉄壁の城塞」もついには陥落してしまうのです。

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四の曲輪に降りてきました。

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そこには、旧暦元旦の初拝みの際に、水の量によって一年の豊作・凶作を占ったという「ウタミシガー」があります。
この泉の水量が豊富にあるときは「サーイ年(不作の年)」、水が少ないときは「ユガフーの年(豊作の年)」と云われています。

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またひときわ目立つ木の下に、「ミートゥガー」(縁結びの泉)があり、男女の逢瀬の場であったという伝説が残されています。

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今ほど恋愛が自由ではなかった時代、若者の仕事である水汲みは、絶好の口実だったのでしょう。
一方、ここで結ばれた男女が別れると、どちらかに不幸が起きると信じられていました。
泉は命の源であり、聖域であることから、神の前で誓い合った愛は、困難があっても添い遂げよというお話です。

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