高天原の神々が、イザナギ・イザナミの男女二神に天沼矛(アメノヌボコ)を授けて命じる。
「漂う国々ををつくり固めよ」
イザナギとイザナミは「天浮橋」に立ち、どろどろの国土に天沼矛を突き刺し、かきまわした。
その沼矛を引き上げた時、ぽとりぽとりと先から落ちた潮は、少しずつ積もり重なって、やがてひとつの島となった。
この島を「淤能碁呂島」(おのころ島)と云う。
おのころ島に降り立ったイザナギとイザナミは、そこに高天原へと伸びる「天御柱」(あめのみはしら)と平らな岩「八尋殿」(やひろどの)を見つけた。
八尋殿でイザナギはイザナミに提案する。
「私の身体の余っている部分と、あなたの身体の足りないところをを刺し塞いで、国を生み出したいと思いますが、いかがですか?」
それから二神は、それぞれ左右から天御柱を廻り互いに告白をした後、寝所で交わりを行うことにした。
「まぁ、なんて素敵な男神でしょう。」
「ああ、なんと愛しい女神よ。」
最初の出会いで、先に告白したのはイザナミの方であった。
こうして二神は交わって子を成したが、生まれた子は「水蛭子」(ヒルコ)と「淡島」(アワシマ)という。
この子らは儚い存在であったので、二神は葦(あし)の船に乗せて流してしまった。
困った二神は天津神に相談すると、
「女性が先に言葉を言ったのがよくなかった。もう一回やりなおしなさい。」
と天津神は指示した。
そこで、再び二神は天御柱を廻り、今度は先にイザナギが声をかけた。
「ああ、なんと愛しい女神よ。」
「まぁ、なんて素敵な男神でしょう。」
言い終わた後に生んだ子は、初めに淡路島、次に四国、三番目に隠岐、そして九州、壱岐、対馬、佐渡、本州となった。
この八つの島を「大八島国」(オオヤシマノクニ)と云う。
その後もイザナギとイザナミは国生みを続け、大和の列島が完成すると、次は森羅万象のありとあらゆる神々を生んだ。
そして最後に火の神「カグツチ」を生み出したイザナミは、大火傷を負い、命を落としてしまった。
淡路島の南4.6km沖合に浮かぶ「沼島」(ぬしま)を訪ねます。
沼島はイザナギとイザナミが最初に創った島、「おのころ島」の候補地として、最も有力であるとする島です。
そこには、国生み神話に相応しい、素晴らしい舞台が揃っていました。
淡路島南部にある土生港から沼島汽船で沼島に向かいます。
後方に淡路島を望みながら約10分。
あっという間に沼島が見えてきます。
船の便数は一日10便。
日帰りでも十分楽しめる神の島へ到着です。
沼島は面積2.71k㎡、周囲9.53km、 最高地点は117.2mの小さな島です。
港に降りてすぐ、立派な石垣の神社が目に入ります。
「弁財天神社」です。
この立派な石垣は、沼島の石が使用されており、沼島の特徴的な石のほぼ全ての種類を見ることができます。
階段を上ると見えてくるのは、大きな黒松の木。
かつてはこの黒松が沼島全体に茂っており、魚つき林の役割を果たしていたと云います。
弁天さんの名で島民に親しまれている当社。
海上安全、戦の武神、守護神として信仰されています。
100年に一度開帳される沼島の弁天さんは、琵琶を持っていないそうです。
その神像の姿は極めて美しく、左右に8本の腕があり、その御手には弓、刀、斧、羂索(けんさく)、箭、三鈷戟、独鈷杵、輪を執り、一足をあげて波濤の台座に座しているのだそうです。
次のご開帳がいつになるのかわかりませんが、ぜひ見てみたいと思いました。
港の中ほどにある「沼島八幡神社」にやってきました。
手水には沼島のシンボル「上立神岩」を模したと思われる石が立っています。
本殿へは急勾配の御影石の階段を登らなくてはなりませんが、
神門から手前の四二段は男坂、
神門から奥の三三段の女坂と呼ばれます。
登った先にある聖域には、立派な拝殿が建っています。
海の方を見渡せば、
そこにはノスタルジックな沼島の町並みが。
拝殿内にはたくさんの、沼島の生活を窺い知れる絵馬が掛けられ、
天井には逆羅針盤が奉納されています。
祭神は「譽田別尊」(ほむたわけのみこと)。
配祀として「足仲津彦尊」「息長足姫命」の祭神の両親とされる神、
また摂社として、八坂神社、日吉神社、平野神社、住吉神社、恵美酒神社、海積神社などが祀られています。
当社の創建は、永享8年(1436年)沼島水軍の「梶原俊景」が京都石清水八幡宮の分霊を阿万八幡宮を通じて勧請したと伝えられます。
当時、沼島は水軍の拠点であり、その当主が梶原氏だったと云われています。
沼島八幡神社の境内を散策します。
当社の神域は裏山の杜に及ぶそうで、八幡さんの森と呼ばれ親しまれています。
杜は禁足地かと思いきや、階段が続き入っていけるようです。
そこに広がる大樹の世界に驚きました。
この杜は、神社の創建のはるか以前から、氏子によって守り続けられてきた神域であると云います。
今も島民によってとても大切にされて、また時には遊び場として子供たちの成長を育んでいるそうです。
中には幕末のオランダ人「シーボルト」が学会で紹介した「ホルトの木」(ユズリハモドキ)も生い茂り、県の環境安全地域に指定されています。
往古より手つかずの状態で残っている貴重な杜であり、南限・北限の植物が混生し、椿やキノクニスゲ、樹齢約200年のスダジイやタブノキなどが自生する、全国的にも珍しい原生林です。
沼島の神がここに居ることを、肌でビリビリと感じていました。
沼島八幡神社のお隣、「神宮寺」へ立ち寄ります。
当院は真言宗の寺院で、元慶4年(880年)の開基と云われています。
境内には所狭しと石碑や像が並び、
様々なものが寄進・奉納されています。
当院は沼島水軍「梶原氏」の菩提寺でした。
寺宝とされる厨子、紺紙金泥経、曼荼羅などは梶原氏の寄進と伝えられています。
のどかな島の町並みを歩いていきます。
現在の人口は2017年4月末の調べで473人。
江戸時代末期には沼島で漁師をすれば倉が建つと言われ、この小さな島が漁業や海運業で栄えました。
昭和30年(1955年)頃までは人口2,500人ほどを擁していましたが、その後は人口流出が著しく、現在に至ってます。
島内には信号機が存在せず、島民は主に徒歩や自転車で移動します。
途中、倉庫のような建物に神輿が収納されているのを見かけました。
これは、毎年5月3・4日に行われる沼島八幡神社の春祭りで使われるだんじりです。
この祭りは、沼島水軍を彷彿とさせる勇壮な祭りで、祭りが最高潮に達したとき、だんじりが海へ飛び込み、海上安全と豊漁を祈ります。
昔はだんじりや神輿が通る道がなく、ほとんど海の中での走行だったため、旧歴の5月3・4日の大潮の時に行われていたと云うことです。
小さな島、沼島には、この他にもたくさんの史跡があります。
墓地の奥、
小高い階段の上にあるのが「梶原五輪塔」、梶原景時の墓と言い伝えられています。
これは松香石という特殊な石でつくられているそうです。
梶原景時とは鎌倉時代の源頼朝の寵臣であり、義経と対立して頼朝に讒言して死に追いやった人物とも評せられます。
鎌倉幕府では頼朝の寵臣として権勢を振るいますが、頼朝の死後は一族とともに追放され、滅ぼされています。
梶原五輪塔の少し先にあるのが「八角井戸」。
沼島は井戸のことを「川」と呼び、この井戸も別名「王川」と呼ばれています。
沖縄でも井戸のことを川を意味する「ガー」と呼んでいたことを思い出しました。
八角井戸の奥には、室町時代の10代将軍「足利義稙」によって作られたと伝えられる「沼島庭園」がありますが、
昨年の連続台風の被害で、立ち入り禁止になっていました。
沼島にも「自凝神社」(おのころじんじゃ)があるというので、向かってみます。
およそ神社の入り口とは思えない場所が、参道となっています。
ちょっとばかし登るのかな?と思いきや、結構がっつり階段を登らなくてはなりません。
階段が続きます。
さらに道。
道。
道。
天沼矛から滴り落ちた潮でできた「おのころ島」と伝えられる沼島は、上から見ると勾玉の形をしています。
中央構造線の南側に位置し、淡路島とは異なった地層で構成されています。
それらはクルージングで島を一周すると確認することができます。
参道がジャングルの様相を帯びてきた頃、
遠くに人工物を発見しました。
おのころ神社です。
しかし試練はまだ続く。
「瑞玉姫」(みずたまひめ)とは誰ぞや??
階段途中に置かれた石碑に刻まれてたその名は記紀になく、当社を訪れた多くの人が疑問に思っているようです。
が、思わぬところからその名を見つけました。
「美都多麻比売命」(みつたまひめのみこと)の名が、諏訪大社に関連した『続・高部の文化財』の守矢家一子口伝による系図の中で記されています。
それによると美都多麻比売はタケミナカタの孫であり、同じくタケミナカタの子「方倉辺」(かたくらべ)と洩矢家の「千鹿頭」(ちかと)を両親にもつ「児玉彦」(こだまひこ)を夫としています。
また児玉彦との間には子「八櫛」(やくし)を儲けていますが、いずれも長野県諏訪地方の民間伝承(諏訪信仰)の神として受け継がれる、非常にマイナーな神です。
なぜそのような諏訪の地方神が淡路の離島、沼島の奥地に刻まれているのか謎です。
この石碑は近年刻まれたものでしょうから、諏訪の美都多麻比売命ゆかりの者が遥か昔に沼島に渡り、今にその名を伝承してきたということなのでしょう。
このことはひとえに、淡路地方は出雲王家本家の一族ばかりでなく、諏訪に王国を築いたタケミナカタ家の一族とも密接に繋がっていたことを意味しています。
長い階段を登り、拝殿の前までやってきました。
そこには静謐な空間があります。
拝殿での参拝後、奥に回り込むと、なんともハイカラな本殿が鎮座していました。
2階建てのような、ユニークな社殿です。
こんなの初めて見ました。
そしておのころ神社の祭神でもある天地創造の神イザナギ・イザナミの二神の像が神社裏手に建っていました。
僕が登ってきたこの山全体が「おのころさん」と呼ばれる神体山で聖域です。
さらにここから山深く足を踏み入れ、島を半周して、沼島最大の聖地「上立神岩」を目指します。
沼島はとても気になっていたところでした。
実際に行かれてのお話、とても貴重です。
ありがとうございます。
八臂弁財天が座像ではなく足一つ騰がりの姿というのは珍しいですね。
(片足立ち像は北斗七星が地平線に対して直立した姿を模したと聞いています。あ、弁財天ではなく妙見菩薩の話ですが。)
逆羅針盤といい、海に生きる人達の島なのだと実感します。
淡路島の土生港から渡るというのも、個人的にツボでした。
「はぶ」の星といえば地元の伝承では南十字星のことですので。
南十字を指標に南下していた人達がいたのかも、と思いました。
(井戸のことを川というあたりにも、南の人達との共通性を感じますね。)
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沼島良かったですよ。
弁天社・厳島社などの池に浮かぶ社は、物部族の蓬莱信仰からできた形式だそうです。
道教と蓬莱信仰、北斗七星、繋がりますね。
もっとゆっくり調べていけば、まだまだ色んな発見がありそうです!
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うろ覚えでコメントしてしまってました。
我田引水で恐縮ですが補足させてください。
足一騰といえば大分の神武天皇伝承地を思い浮かべるのが普通だと思いますが、北斗七星のことだという話があります。
「神代の昔は足一騰は会富騰と祭られた斗極の姿が、平安の宣命の時代を過ぎて海外貿易の守護神に変わり、鎖国の後は庶民の心のささやかな祈りを捧げる祠となって、今に至っている。(『儺の国の星』)」
「斗極を足一騰星という。同じ名の宮は神武帝前七(前七七六)年にみえる。宇佐の氏族はこの頃からすでに北辰妙見の信仰をいだき、いずれは天の中枢にポラリスがくるものとみていたのである。(『儺の國の星拾遺』)」
ちなみに北斗七星はまた多賀星ともいい、構成する七つの星を三と四に分けてイザナギ・イザナミに見立てた話もありまして。
淡路市〝多賀〟に伊弉諾神宮があるのはそういうことかしら~と思ったりしています。真偽は定かではありませんが。
おっしゃる通り、淡州は興味が尽きない土地ですね。
長々と失礼しました。
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nakagawaさんの見識は、僕とはまた違ったアプローチでいつもとても参考になります。
淡路の伊弉諾神宮の真の祭神については、未だ僕も確定に至っていないのですが、なるほどそういう考え方もアリですね。
まあ、古代史は、結局はっきりとわからないことが多いから、想像を膨らませ、ロマンティクなのですが。
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Ciao Chirico! Un altro posto spettacolare! Adoro la natura di questa piccola isola! Mi piacciono molto le scale nella foresta! Un luogo magico e meraviglioso! Grazie di averlo condiviso! Spero di poterlo visitare di persona!
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Buongiorno, Alesia!
Il viaggio di questa piccola isola “沼島” sarà scritto in tre parti.
È un’isola piena di fascino.
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E’ vero!! Grazie !
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豪雨が心配でしたが、ブログアップがあり、何より安堵致しました!
良かったです。
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仕事が多忙なもので。
無事ですよ!
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“ 無事 ” とはまた…
笑笑
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