「のう、姫よ、儂はどうにも其方を好いてしもうたようじゃ。朝から晩まで、姫のことばかり考えておる。
出雲は少しばかりここより遠いが、どうじゃ、儂の元に嫁いでくれんか。」
その遠いという距離を、この男は足繁く通ってくる。
勾玉の原料となる、我が国の翡翠を買い付けに来るというこの男は、その度に必ず私に逢いに来た。
私に会うと、彼はいつも「翡翠のように麗しい姫」と褒めそやす。
その男は「八重波津身」といった。
近々、彼の国『出雲』で副王に就任するのだという。
そこで妃をもうけよ、との話が持ち上がったらしい。
彼は、一も二もなく、私を選んでくれたということ。
「うれしい」
私はそう答えた。
翡翠が混じる、この玉砂利の海岸で、夕日に照らされた彼の顔は、今までにないくらい笑っていた。
...
「母上、母上、しっかりなさいませ母上」
目をうっすら開けてみると、そこに愛しい人の顔があった。
いや、ちがう、これは息子のタケミナカタ。
そう、すっかり父親似の、素敵な男に育ったこと。
私は故郷の古志の国、糸魚川へ帰ってきた。
翡翠の砂利浜のように、幸せな日々が延々と続くと思っていたが、ある日突然、あの人は帰らざる人となった。
それが耐えられなくなり、私は故郷へ帰ってきたのだった。
夫は私の他に二人の姫を娶ったが、皆に優しく、子にも良くしてくれた。
私には故郷に続く海のそばに、屋敷を設けてくれた。
なんの不満もなく、変わらず愛しい人だった。
「母上、私が分かりますか、母上」
分かっておる、最愛の人の面影をもつ、息子を見間違えるはずもない。
心配せずとも、私は少しばかり、最も幸せだった時の夢を見ていたに過ぎないのじゃ。
最も幸せだった時の夢、ああ、そうか。
私の寿命も、もう尽きかけておるのじゃな。
優しい息子、ミナカタ、お前は出雲の王になることもできたのに、私に付き添って古志まで来てくれた。
それがどんなに心強かったか。
聞けば、あの人は、異国から来た民に殺されたのだという。
強くなりなさい、息子よ。
あなたには出雲の民と、古志の民が力となってくれよう。
偉大な王と副王を失って、この先、国も荒れるはず。
しかしお前には、あの人の血が濃く流れておる、心配ない。
出雲の新たな未来を背負う、立派な王となりなさい…
...
ああ、ここはまた、私のお気に入りの、あの砂利浜じゃな。
あの人が私のようだと言った、翡翠の石が、足裏に優しい感触を伝えて来る。
たたずむ私の手を、大きく肉厚な手が掴む。
その手は、優しく、しっかりとした力で、浜の先へと誘いていく。
私は顔をあげ、眩しい夕陽に照らされた、その手の先にある顔を見つめた。
そこには、私の大好きな、あの屈託のない笑顔があったのだった。
新潟の糸魚川市にある「天津神社」(あまつじんじゃ)へやって来ました。
天津神社は12代景行天皇の御代の創設とされる古社で、糸魚川市の一の宮となっています。
市民会館の駐車場に車を停めさせていただき、参道を歩いていると、古びた社がありました。
どなたが祀られているのかも不明で、天津神社の境内図からも外れています。
ちょっと不気味だったので、深入りは避けました。
石橋を渡ると気持ちの良い小道が続いています。
横には、池の中に小さな弁天社が祀られています。
池の亀も、のんびり日向ぼっこ。
手水で手口を清め、
先へ進みます。
参道を折れ曲がった先に、広い境内がありました。
その中心に威風堂々鎮座する拝殿。
茅葺の重厚な屋根は、見るものを圧倒させます。
天津神社の祭神は「天津彦々火瓊々杵尊」(アマツヒコヒコホニニギノミコト)、「天児屋根命」(アメノコヤネノミコト)、「太玉命」(フトダマノミコト)。
しかし僕の当社参拝の目的は、その本社ではなく、境内社の「奴奈川神社」(ぬなかわじんじゃ)の方でした。
奴奈川神社は「奴奈川姫命」を主祭神とし、後に八千矛命(大国主)を合祀しています。
記紀は出雲の国譲り神話において、事代主と建御名方を大国主の息子という設定にしましたので、建御名方の母である「沼川姫」は大国主の妻ということになりました。
しかし、沼川姫は、実際は事代主・八重波津身の妻であり、建御名方の父親も事代主だったのです。
越後国糸魚川の支流・姫川流域で産するヒスイの原石は、良質な勾玉の原料として重宝されました。
出雲王国の時代には、玉の首飾りを付けないと豪族とは認められなかったので、各地から求められました。
当時、玉造りが最も盛んだったのが出雲です。
勾玉は、生まれる前の胎児の形で、子孫繁栄を願うサイノカミ信仰で特に縁起のよいものだと考えられていたということです。
出雲の玉作湯神社の祭神は「櫛明理命」で、玉造りの祖とされています。
櫛明玉命は東出雲王家の「向家」(富家)の分家であり、紀元前から三世紀までは、玉造りの中心は出雲王向家であったと、富王家伝承は伝えています。
拝殿の裏に回ると、二つの本殿があります。
拝殿の真後ろにあるのが、天津社の本殿。
ごつい狛犬が社を守っています。
しかし何処と無く、意地悪げな表情。
左に鎮座するのが奴奈川社の本殿です。
この本殿内には、木造りの奴奈川姫神像が安置されているそうです。
非常に古いものらしいですが、それは出雲時代からはるか後の藤原時代のもののようです。
沼川姫は、古志国の沼川郷豪族「ヘツクシヰ」(辺突辰為)の娘でした。
三種の神器の一つに、「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)がありますが、この「瓊」の字は「宝石」を意味し、その宝石が採れる川を「瓊の川」と呼んでいたそうです。
やがて、その瓊川が沼川と字を変えたとのこと。
「渟名川の 底なる玉 求めて得し玉かも 拾ひて得し玉かも あたらしき君が 老ゆらく惜しも」
万葉集3247番のこの歌は、「玉のように大切な君が、老いて通って来なくなった」と嘆く、女性の歌だそうです。
美しい宝石の「瓊」に通じる名をつけられた沼川姫は、その名の通り、美しい姫だったことでしょう。
しかし社名にもある「奴奈川」の字は、残念なことに婢字に当たります。
ここは沼川、もしくは瓊奈川と名を改めて欲しいところです。
奴奈川社の横には、大きな御神木が立っていて、姫を見守るように、大きく枝を伸ばしていました。
さて、もう一つの奴奈川神社に向かう途中、少し寄り道しました。
ヒスイ海岸です。
糸魚川上流の岩盤では、良質な翡翠の原石が、豊富に採れたということです。
糸魚川産翡翠は硬玉(本翡翠)と呼ばれ、微細な結晶が絡み合っているため非常に壊れにくく堅牢な石で、大変加工がしにくいのが特長です。
昭和32年に国の天然記念物に指定され、今では採掘は禁止とされています。
しかし岩盤からの採掘はダメでも、勝手に流れて来る翡翠の小石を拾うことは問題ありません。たぶん。
そう、ここは糸魚川の翡翠の原石が打ち上げられることで有名な海岸なのです。
って言っても、そんなに簡単に、翡翠を拾うなんてこと、できるわけないじゃないですか。
いやいや、海岸に降り立って数分、すぐにこんなに、それっぽい石を見つけましたよ。
でも、油断してはなりません。
これは罠なのです。
翡翠に見える石でも、大半は「ヒスイもどき」なる石なのだそうです。
僕は以前、奈良の箸墓古墳そばにある、某喫茶店で、糸魚川産翡翠の勾玉を作成、購入させていただきました。
当喫茶店のオーナーは採掘禁止になる以前にこの石を譲り受けていたそうで、それを安価に提供されているのだそうです。
この時、糸魚川産翡翠の原石を見せていただいていたのが幸いでした。
翡翠の原石を見つけるコツは、
・白っぽい石であること
・角ばった石であること
・他の石よりも重たいものであること
・表面にキラッと光る結晶が見えること
などだそうです。
糸魚川産の本翡翠は硬玉なのでとても硬く、水や砂で削られても丸くならないのだとか。
碁石のように丸くなってしまったものはヒスイもどきだということです。
僕が拾ったものは、やはり、丸くなったものばかりでした。
その中でも欲張らず、一つだけ持ち帰ることにしました。
ずっしりと重い、そしてちょっと角ばった小石です。
そして手にした感触、あの奈良で磨いた勾玉にそっくりです。
これは間違いありません。
糸魚川の贈り物、そのはずです。たぶん。きっと。
僕の中の沼川姫も、そうだと囁いています。
太陽の下ではよくわかりませんでしたが、ホテルで軽く洗って見て見たら、表面にキラキラ光る結晶も見えました。
写真ではわかりにくいのですが、石の中央あたりに、ほらね、光っているのが見えるでしょ、たぶん。
どことなく勾玉のような形をしているのも、お気に入りです。
糸魚川市田伏にある「奴奈川神社」にやってきました。
延喜式の奴奈川社比定候補の一社です。
当社も広めの境内に、風格ある社殿が建っています。
沼川姫は向家の事代主、八重波津身に迎えられ、妃となりました。
そして出雲国美保の郷にお住みになったと云います。
姫はその地で、御子の建御名方や姫の美保須須美(ミホススミ)を儲けます。
姫の住まう屋敷がある港には、翡翠の玉造り工人や商人たちが住みました。
事代主がおられた頃には、国内はもとより、韓国からも玉類を買い求める者が訪れ、賑わったと云います。
しかしそんな折、出雲を震撼させる大事件が起こります。
8代目主王「大国主・八千戈」と副王「事代主・八重波津身」の失踪です。
二人は数年前に渡来した「穂日」とその息子「夷鳥」によって、数人に取り囲まれ、拉致され、それぞれ別の孤島の洞窟に幽閉され、そして枯死させられました。
主王・副王のご遺体は、腐食し無残な有様だったことでしょう。
夫を失った沼川姫は淋しさがつのり、古里の姫川や黒姫山の景色ばかりが想い出されたようです。
そして姫は、出雲を離れ、越後国糸魚川の実家に帰ることを決意しました。
この時、娘の美保須須美は、出雲の美保関に残り父の霊を祀りなぐさめる道を選びました。
息子、建御名方は、母に付き従い、ともに越後国に移っていきます。
そして沼川姫は、糸魚川の故郷の地で亡くなり、葬られたと云うことです。
夕暮れ押し迫る中、拝殿に電気がついているので上がらせてもらいました。
すると、幸運なことに、神主さんがいらっしゃったので、御朱印をお願いし、少しお話を聞かせていただきました。
御祭神は、「奴奈川比賣命」と、「大日孁命」「 八千矛命」の三柱だそうです。
創建は成務天皇の代に、越後国の国造が奴奈川姫命の末裔である長比売命を娶り、当社を建てたと伝わりますが、実際は不明であると云うことです。
拝所はとても荘厳で、当地の人たちに、姫が慕われてきたことを窺わせるものでした。
今日はたまたま来ていたという神主さんは、正式な神職の方ではなく、頼まれて少し遠いところからやって来ているという方でした。
出雲人を彷彿とさせる、とても人の良さげな方です。
沼川姫についても、「建御名方の母君で、出雲から里帰りして来たということ以外はよく知らないんです」と申し訳なさそうにお断りされていました。
しかし御朱印にある9枚の葉がデザインされた社紋は「榊九葉」といい、朱印を復刻させる上で、随分とデザインに苦心したと誇らしげに語っておられました。
本殿横の境内は緩やかな丘になっています。
本殿のすぐ横にある丘には結界が張られ、
好き放題伸びた草むらの先に鳥居があります。
よく見ると小さな石祠がいくつかあり、
石碑に十二社と掘ってありますので、12の石祠が鎮座しているのだと思います。
延喜式に記載される式内社、奴奈川社は、天津神社であるとする向きが主流のようです。
しかし姫の古墳があるとするならば、この杜ではないだろうか、そんな気配を感じさせられていました。