ずっと気になっていた場所へ、ようやくお参りできました。
蝉の聲響く夏の墓参り。
今年も酷暑の季節がやって来ました。
牛に引かれてたどり着いた森、
道真公が埋葬された太宰府天満宮。
類まれなる才を持ち、人々から厚い信頼を得ていた菅原道真は右大臣に任じられますが、左大臣・藤原時平(ふじわらのときひら)の讒言によって大宰府に左遷されました。
公の大宰府での生活は幽閉同然で、衣食もままならず、苦しいものでした。
そして自身の潔白をひたすら天に祈りされながらも延喜3年(903年)2月25日、その生涯を閉じることになったのです。
太宰府天満宮に参拝してみると、各社で流行りの水みくじなるものがここにも置かれていました。
この太宰府天満宮の楼門手前に一つの摂社があります。
「楓社」、菅原道真公の妻・宣来子を祀る社です。
道真は数いる息子・娘らのうち紅姫と隈麿のみを連れて大宰府に移ることを許されたそうです。
しかし愛する妻・宣来子は、九州から遠い東北の地で眠りについたと伝えられていました。
「菅公夫人の墓」と伝わる場所は、東北岩手の一関にありました。
深い山村の一角の丘の上にそれはあります。
「島田宣来子」(しまだののぶきこ)は、嘉祥3年(850年)に道真の師の一人といわれている島田忠臣の娘として生まれます。
道真が文章得業生であった貞観17年(875年)頃に道真に嫁ぎ、嫡男・菅原高視や宇多天皇の女御となった衍子らを生んだとされています。
道真の少年時代を描いた漫画『応天の門』では幼妻として登場(かわいい♪)する彼女ですが、
道真の大宰府左遷後も京都に留まったものとされており、その後の動向や死亡時期については不詳だと云います。
その菅公夫人が当地・一関に娘たちとともに落ち延びたという伝承が残されていました。
当墓の石板に掘られた由緒では、菅公夫人を「紀長谷雄の女」(きのはせおのむすめ)と記してあります。
?、島田宣来子ではないのか??
いえいえ、確かに当地に伝承される菅公夫人は島田宣来子、その人でした。
延喜元年(901年)、道真が左遷された時、彼は親交のあった藤原滋実(ふじわらのしげざね)の死の真相について五男・菅原淳茂(すがわらのあつしげ)に調べるよう命じました。
この時、淳茂は母子と重臣・菅原山城を伴い、一関まで落ち延びたと云います。
一関に、宣来子と長女・二女、それに五男の淳茂が至った時、宣来子は、紀長谷雄の娘「吉祥女」と自らを称したとされています。
延喜6年(906年)、道真の訃報を聞いた宣来子は深い悲しみに暮れ、病に伏し、同6年9月12日42歳の若さでこの世を去りました。
その後、菅公夫人の墓が建てられ、今は吉祥天神(きっしょうてんじん)の名で祀られています。
小高い丘ではありますが、まあまあな坂道の階段を這う這うの体で昇って来ました。
そこにひっそりと小さな社殿が建っています。
社殿と言っても本殿はなく、ただの箱状態です。
屋根の頂部には、ささやかな梅の紋。
中を覗き込むと、1基の石碑と2基の五輪塔が。
墓の上にまるまる社殿を被せたようです。
そういえば、太宰府天満宮も道真公の墓が御神体だとか。
しばしの間、墓前にて宣来子姫のご冥福を祈らせていただきます。
墓は遠く離れても、夫婦の魂は冥土で寄り添っておられますよう。
社殿の横に四角い御影石が置かれています。
それは遠く、夫が眠る太宰府天満宮の方角を示すものでした。
太宰府天満宮39代宮司の「西高辻信良」(にしたかつじのぶよし)氏はこの墓の存在を伝え聞いた後、平成6年に門外不出の梅の木を墓周辺に植樹しました。
その後、北野天満宮などからも梅の木が贈られ、この日、吉祥天神の周辺では実った梅の香りが濃く漂っていました。
さらさらと吹く夏の風が、汗で濡れた体を優しく撫で去ります。
気がつけば時刻も過ぎていましたが、蝉はいっそう激しく聲を高め、別れを惜しむかのように鳴くのでした。