国指定史跡『長崎原爆遺跡』の一つ「一本柱鳥居」を訪ねてきました。
一本柱鳥居は浦上街道沿いの高台にぽつんと立っていました。
この鳥居は山王神社の二の鳥居ですが、長崎原爆の爆風で片方の足が吹き飛び、残った1本の足のみで立ち続けています。
鳥居の近くにある写真館さんに、当時のことを伝える貴重な写真が掲示してありました。
太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月9日(木曜日)午前11時02分、8月6日の広島原爆投下に続いて、アメリカ軍による日本の長崎県長崎市に原子爆弾「ファットマン」が投下されました。
これにより、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼または全半壊しました。
当初の投下目標は福岡県小倉市でしたが、当日の小倉上空を漂っていた霞もしくは煙のために目視による投下目標確認に失敗、それにより投下地を第二目標の長崎に変えられたのでした。
この時の小倉上空を漂っていたものは、前日にアメリカ軍が行った八幡市空襲の残煙だとも、広島への原爆投下の情報を聞いた八幡製鉄所の従業員が新型爆弾を警戒してコールタールを燃やして煙幕を張ったものとも言われています。
長崎原爆「ファットマン」はプルトニウム239を使用する原子爆弾で、TNT火薬換算で22,000トン(22キロトン)相当の規模にのぼり、広島に投下されたウラン235の原爆「リトルボーイ」の1.5倍の威力であったそうです。
しかし長崎市は周りが山で囲まれた特徴ある地形であったため、熱線や爆風が山によって遮断され、広島よりも被害は軽減されました。
もしこれが当初の予定通り小倉に落ちていたなら、関門海峡が丸ごと被爆し、現在の北九州市一帯と下関市まで被害は広がり、死傷者は広島よりも多くなっていたのではないかと推測されています。
明治元年(1868年)創立の山王神社は、爆心地から南東約900mの場所の高台にあり、原爆の被害を受けました。
その時の社殿は跡形もなく崩壊し、4つあった鳥居のうち一の鳥居全体と二の鳥居の片方だけが奇跡的に倒壊を免れました。
しかしほぼ原型のまま残っていた一の鳥居も後に交通事故で倒壊。
今は一本足のこの二の鳥居のみが残っています。
よくぞ今日まで立ち続け、そして私たちの復興を見届けてくれました。
触れた石の柱はとても力強く、脈を打っているようで、なぜか感謝の涙が溢れてくるようでした。
鳥居の奥には倒壊した半分も保管されています。
戦争は人類の最も愚かな行いであると、誰もが知っています。
しかしそれを止めることは、誰もできないでいる。
当時我々を愚行に導いたのは、ラジオと同調圧力でした。
偏向報道・検閲・情報統制、それは今も大して変わりありません。
そして今我々は、やはり同じく見えない戦争へと導かれているように感じられてなりません。
もうすでに後戻りできないところまで来てしまいました。
日本に原爆が落とされた後、東京帝国大学は広島と長崎の被爆者を使って、戦後2年以上に渡り、日本国憲法施行後も、あらゆる人体実験を実施してきたそうです。
その内容は、国の大号令で全国の大学などから1300人を超す医師や科学者たちが集められ、放射能によって被爆者の体にどのような症状が出るのかを調査したもので、さまざまな薬物やホルモンを注射し、その反応を調べたもののようでした。
2年以上かけた調査の結果は181冊1万ページに及ぶ報告書にまとめられましたが、日本はその全てを英語に翻訳し、アメリカへと渡しました。
調査はあくまで原爆を落としたアメリカのためであり、日本人や被曝者のために行われているものではなかったのです。
僕は古代史を調べていて、当時は当時の事情があり、その残虐な行いを今の感覚だけで判じるのは間違いであると考えています。
が、このようなことは、対して今も変わらず行われているのだと感じないわけにはいかないのです。
一本柱鳥居の先に浦上街道があります。
その先に再建された「山王神社」が鎮座しています。
参道の横にあるのは「坂本町民原子爆弾殉難之碑 」。
そこには当時を伝える案内板と、
倒壊した鳥居の柱を使った石碑が建てられています。
そして聳える2本の大楠。
この大楠も被爆しながら生き残り、再生した被爆楠でした。
胸高幹周8mと6mの大楠は、樹齢がそれぞれ400年から500年とみられていますが、両木とも原爆の爆風により上部が欠損したため、幹周に比べると樹高が低くなっています。
この大楠は原爆により枝葉は失われ、幹も焼かれ黒焦げ同然となりました。
しかし奇跡的に樹勢を盛り返し、今では豊かな緑を湛えるほどになっています。
右側の大楠の下に石が置かれています。
これはこの木の2度目の治療の時、木の内部から取り出されたものだそうです。
山王神社の大楠はたびたび治療が行われてきたそうですが、幹の中の空洞から表面が焼けた石や瓦礫などが見つかっており、当時の爆風の強大さを物語っています。
満身創痍となりながらもこの両木は生き続け、ものを語らぬ語り部として、我々に所業の愚かさを伝えているのです。
彼の声を聞き取った長崎原爆資料館や学生サークル、市民団体、地元小学校の人たちはこの大楠の種子から育てた「被爆クスノキ二世」を、平和の象徴として国内外に贈る活動を行っていました。
豊かに茂る杜に鎮座する山王神社(日吉神社)にも足を運びます。
祭神は「天照大御神」「豊受比売神」「大山咋神」「大物主神」「伊邪那岐神」「高皇産霊神」。
当社は1638年(寛永15年)、島原の乱の鎮圧のため長崎に赴いた松平信綱が、景色が近江の比叡山に似ていたことから、比叡山の鎮守である山王権現の勧請を思い立ち、長崎代官の末次平蔵と計って創祀されたと伝えられます。
また合祀されている「皇大神宮」は、浦上村のキリシタンへ改宗を促す宗教対策の一環として創祀されたものでした。
当初春秋の祭礼や修築等は官費で行われることとされていましたが、1872年(明治5年)に官費の支弁が停止され、氏子とされたキリシタン達も棄教や改宗を拒否して関与しなかったために神社の維持経営は困難になり、日吉神社の地に遷座して日吉神社を合祀し、今の形になったそうです。
拝殿は開かれていましたので、失礼して中で参拝。
そこには被爆した大楠を描いた、立派な絵が立てかけられていました。
戦争とは何か。戦争はどこから生まれるのか。
戦争とは手段をもって意図的に多くのものを死に至らしめることによって莫大な利益を得るビジネス行為である、と考える人もいるようです。
それは果てしなく愚かしい、人の傲慢の成れの果てです。
それに手を染める人は、およそ人の枠組みからは外れており、もはや人としての死後を得ることも叶わぬことでしょう。
日本の霊界はもちろん、キリストの天界にも、ブッダの浄土にも程遠い所業であるということです。
僕は可能な限り生き残り、この人の傲慢の行き着く果てを見定めることが使命なのではないかと、世界の違和感に気がつく一人として思い至ったのでした。
長崎に行ったら、訪ねようと思います。
こういうところで、きちんと立ち止まって、しっかりと考える時間が必要です。
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CoccoCanさん、コメントありがとうございます!
私も何が正しくて何が間違っているのか分からないのですが、流されて生きていると取り返しがつかなくなるような不安に苛まされています。
おっしゃるように、焦る気持ちを抑えてでも、立ち止まって考える時間が必要なのだと思います。
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