
京の出雲、「出雲大神宮」(いずもだいじんぐう)にやって来ました。

出雲大神宮は、京都府亀岡市に鎮座する丹波国一宮となっています。

近年はパワースポットとして注目を浴び、「元出雲」や「千年宮」とも呼ばれています。
しかし元々は「出雲神社」と称していた当社、いつの頃からか大神宮を名乗るようになった様子。
はて大神宮とはいったい何?

通常「大神宮」とは伊勢から神を勧請した場合に呼称することが多いようです。
が、当社の場合は特殊で、「出雲大神宮をして『元出雲』と呼ばせるのは、島根の出雲大社がこの出雲大神宮から分霊を勧請した」とする社伝に由来するとのこと。
出雲大社は古くは「杵築大社」を称していたため、江戸時代末までは「出雲の神」と言えば出雲大神宮を指していたと言うのです。

参道に立つ「国幣中社 出雲神社」の社名標は出雲大社の元宮司・千家尊福の筆によるもの。
また三枚目の写真にある「丹波國一之宮 出雲大神宮」の石碑は出雲大社現宮司・千家尊祐の筆であるといいます。
ほうほう、なるほどなるほど。

まあどうでも良いですが、せめてもう少し毅然とした態度をとって欲しいものですよ、かの宮司家には。

そもそも大神宮って呼び名はどうなんでしょうかね、大仰なその呼び名を僕は、どうにも好ましく思えないでいます。

出雲大神宮の社殿はとても風格があり、立派です。
しかし出雲でありながら菊花紋なんですね。大社造というわけでもない。
主祭神は「大国主神」(おおくにぬしのかみ)と「三穂津姫尊」(みほつひめのみこと)。
出雲大神宮では、大国主の別名を「三穂津彦大神」や「御蔭大神」としているようです。

また、「天津彦根命」と「天夷鳥命」を配祀しており、この天津彦根命・天夷鳥命・三穂津姫命の3柱が本来の祭神であるとする説や、元々は三穂津姫尊1柱のみが祀られていたとする説もあるようです。

夷鳥は千家家への配慮か、また天津彦根命ってことは忌部がからんでいるのか。
しかし真の祭神は社奥の神体山が御蔭山なので、大和初代大君・天村雲の息子「天御蔭」(大和宿禰)だったのではないでしょうか。そうであれば菊花紋にも納得がいきます。
天御蔭は海部家の祖であり、東出雲王国・富家の姫「豊水富姫」を妃に迎えています。
元出雲を名乗るのは少々行き過ぎですが、出雲系の古い由緒を持っているということにも一理あるということに。

「出雲」の名の由来もさまざまな説がありますが、「春の芽吹きを『出づ芽』と呼んだ」という富家の説こそ真実である、と僕は確信しています。
この情緒深き繊細な感性こそ、世界にも稀な民族・日本人のDNAに残されてきました。
出雲の元宮は神魂神社であり、美保神社であり、揖夜神社であり、島根の熊野大社であり、出雲井社であり、佐太神社であり、三屋神社であり、長浜神社であり、久奈子神社であり、富神社であり、etc.etc.
まあそんな感じなのです。

それにしても出雲大神宮は境内中、磐座だらけです。

磐座、

磐座、

磐座、、、

磐座とは一体なんぞや、そんな問答を考えてしまうほどに磐座だらけ。

出雲では元来、王家の遺体を埋葬した山中の大岩を磐座と呼ぶようになった、と伝えられます。
それがやがて神の依代を指す言葉となりました。

しかし岩なんてそこら中にいくらでもあるのです。
それら有象無象の岩々と、神の宿る岩を区別するものとは何か。

あまり何でも磐座だ磐座だと叫んでいては、磐座の重みというものが薄れようと言うものです。

いくつかの神社や寺院では、たくさんの神跡を用意して、パワスポデパートのようになっているところも少なくありません。
エンターテイメントとしては楽しめるのですが、真面目な信仰を謳うには逆効果な気がしています。

当社の数多の磐座群も磐座デパートの様相を呈していますが、さすがにここ、神体御蔭山山中の神跡は本物の香りがしました。

樹木と絡むように鎮座する岩の数々。

ここはちょっと神魂神社の宿禰岩を彷彿とさせます。
御蔭山上部に埋め墓の磐座があるとしたら、ここはその拝み墓である可能性があります。
つまりかなり古い出雲系の祭祀があったことを示しているのかもしれません。
元出雲、と呼べずとも遠からず。

これなんか龍の頭みたいです。

奥では磐座の親分がこっちに睨みをきかせていますし。

深部の磐座群で濃厚な神威を感じつつ、再び磐座デパート参道を歩いて下ります。

まあしかし、特徴のある岩々をよく集めたものです。

奉納されたものもあるのかもしれません。

兼好法師著の『徒然草』第236段には、この出雲大神宮が登場しています。

丹波に出雲といふ所あり。大社を移して、めでたく造れり。
しだの某とかやしる所なれば、秋のころ、聖海上人、その他も人あまた誘ひて、
「いざ給へ、出雲拝みに。かいもちひ召させん」
とて具しもて行きたるに、おのおの拝みて、ゆゆしく信起したり。

御前なる獅子・狛犬、背きて、後ろさまに立ちたりければ、上人いみじく感じて、
「あなめでたや。この獅子の立ち様、いとめづらし。深き故あら ん」
と涙ぐみて、
「いかに殿ばら、殊勝の事は御覧じ咎めずや。無下なり」
と言へば、おのおの怪しみて、
「まことに他に異なりけり。都のつとに語らん」
など言ふに、上人、なほゆかしがりて、おとなしく物知りぬべき顔したる神官を呼びて、
「この御社(みやしろ)の獅子の立てられ様、定めて習ひあることに侍らん。ちと承らばや」
と言はれければ、
「その事に候ふ。さがなき童どもの仕りける、奇怪に候ふことなり」
とて、さし寄りて、据ゑ直して往にければ、 上人の感涙いたづらになりにけり。

~
丹波の国に、出雲という所があった。
出雲大社の神霊を分け遷して、社を立派に造っていた。
この土地はしだの某とかいう人が治めている所だったので、秋のころ、聖海上人やそのほか多くの人を誘って、
「さあ、いらっしゃい。出雲神社を拝みに。ぼたもちをご馳走しましょう」
と言って連れて行ったが、皆それぞれに拝んでは、深く信仰心をおこしたのだった。

すると拝殿の前にある獅子と狛犬が、背中を向けあって後ろ向きに立っているではないか。上人はとても感心して、
「ああ、なんと素晴らしいことだ。この獅子の立ち方はとても珍しい、深いわけがあるのだろう」
と涙ぐんで、
「いかに皆さん、この神妙な様子を覧になって、何もお気づきにならないのですか。まったくもってひどいではありませんか」
と言うので、皆それぞれ不思議がって、
「ほうほう、確かに他のものとは違っておりますなあ。これは都へのみやげ話にいたしましょうぞ」
などと言うと、 上人は一層そのわけを知りたがって、年配で物を知ってそうな顔の神官を呼んで、
「この神社の獅子の立て方には、きっといわれがあることでございましょう。ぜひとも承りたいものです」
と話したところ、
「ああそのことでございますか。いやはや、これはいたずらな子供たちの仕業で、まことけしからんことでございます、失敬失敬」

と言って、獅子と狛犬の所に近寄り、もとに置き直して行ってしまったので、 上人の涙は無駄になってしまったのであった。ちゃんちゃん。~

出雲大神宮社殿の裏にも、大きな磐座が鎮座していました。

確かにこれはまた立派な磐座です。

堂々たる質量、神宿る岩としての資質を十分に備えています。

結局のところ、今の世では人が「これぞ神の磐座ぞ」と言えば、それを磐座と呼ぶのでしょうし、それで良いだろうとは思います。
TVで有名スピリチュアリストが「これぞパワスポぞ」と言えば、皆こぞってパワースポットとして人気が出るのでしょう。

その神妙な様子に、ありがたや、ありがたやと乗っかるのもまた良しとは思いますが、時にはじっくりと自分自身の感性を研ぎ澄ませて、自らものの本質を見極めてみるのはいかがでしょうか。

存外いたずらな大人たちの仕業で、下手な感動の涙を流すはめにならずにすむかもしれないというお話です。

一笑、一笑。


いつも丁寧に対応して下さりありがとうございます✨
私はこないだ夫に
磐座検定みたいって(笑)言われちゃいました。(恵曇神社談義してて)
子供のいたずらを大人が高尚なものだと拝む滑稽さもあれば、
逆に、それまで見向きもされず大したものでないと思われてた磐座の下から、糸魚川産の翡翠の勾玉や銅剣が出土されたら、考古学者や考察本は、急にその磐座を意味づけ始め、議論し出すことでしょう。
私も同じです。
須我神社の由緒書きに
初代出雲出王の気づきがなければ
奥宮の巨大3体磐座を見ても、
「う〜徐福か。。」と思ったかも。
たまたま意識があって登ったからこそ、あんなに感動したのかも。
驕りは人間だもの。(相田みつを)
私は口伝に傾倒してから、出雲井社と三歳社を真剣お参りした後、大社をスル~してました。大社はテーマパーク、と友達にも偉そうに言うとりましたわ(笑)
でも最近思い出したんです。
小学生時代の出雲の思い出。
私が塩谷小学生に転校して間もない頃、隣のおばあちゃんとよく話ししてました。おばあちゃんは
「熊野さんが大社さんより古いけんね」とか、「私の孫は北島さんとこで結婚式は挙げさせたとったけど、千家さんとこはいかんよ。」って。古い出雲の人は当時こういうの言ってましたね。これは1970年代の話しです。
でも、おばあちゃんは、大社さんにはなぜか定期的に行って手を合わせ、稲佐の浜からの細い民家がひしめく神様の通り道に花を添えてたのです。おばあちゃん曰く、「だって昔の方々が一生懸命ここを建ててくれたんだけん、出雲を去った人らが悲しむけんね」と。
そう言えば、東王家、西王家も建立の際には資金を調達し、木材を調達したと口伝には書いてありました。
大したことない社
大したことない磐座
結局これって人間の意識次第かも〜🦆と思うようになりました。
そうか、人類なんだかんだみな兄弟だがん。
許さないのも人間だし、許せる器を持てるのも、また人間なんかな。
と、
今では大社さんに手を合わせてますよ。西側からですけどね(笑)
正解がない世界。だからロマンあり面白くやめられないのかもしれませんね。
最後に。
忖度はしておりません。
ただただ、ブログを読んで視野が広がったことを感謝しとるだけですよ☺ 文章を読んで、風景が浮かびあがる体験はそうそうできないです。
それがネットで出来ることのありがたさ。素晴らしい!
特に大彦のとこは何回も読んで大彦記述を探しとります(笑)遠く長野や津軽のことを思うようになりました。いつか行きたいなあ。
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忖度なきお言葉、ありがとうございます😊
そうですね、大社も建てた方々の思いまで考えれば、十分崇敬に値します。まして、かの空中神殿が実在したとなれば。
私は幸運にも、先の大遷宮で大社本殿の内部を拝見する機会をいただきました。
そこにはずっしりとした心の御柱があり、天井には色鮮やかな八雲の図、そして折れて見えない主祭神鎮座の間からは、ただならぬ厳かな氣が流れていました。その時間はとても居心地の良いもので、怨念のようなものなどは一切感じられなかったのを、今もありありと覚えています。
ただ、いつの頃からかは知りませんが、富先生曰く、今の祭神は大国主ではないのだそうです。御神体が入れ替えられています。
大彦は本当に偉大な王であったらしく、各豪族もこぞって姫を差し出し、数多の子孫をこの国に残しておられます。ぜひ、信州・津軽にも足をお運びください。
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王家のお墓。神魂神社横の出雲大神宮にある拝み墓である磐座、天宮山に坐す埋墓の磐座。そして御陵神社に坐す大きな磐座。思わずそこからずっとこの地を見守って下さってありがとうございます、と心のなかで言わずにはいられない感じの。。
シンプルな鳥居をくぐった瞬間から、周りの空気が違ってきて、温度も湿度も凛とした空気を纏い、苔の香りと霧が立ち込めるような感覚にがしたのは。。故人を偲び、手を合わせた古代の方々の色んな思いがその磐座周辺に宿り、人々がそこ。大切に思う意識の集合体が、気となり
こんな神秘的な気を感じたのかなと思います。スピ系みたいであれですけど。
人の意識やその地に対する思い入れによって見方、見え方は変わると私は考えます。2回、3回と訪れると、初めより暖かく迎えて下さってるように思えました。それはその地は変わらずとも、私自身がの意識が変わったからかもしれません。
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出芽のSUETSUGUさん、いつもコメントありがとうございます。
多くの方が、私を古代史研究家と評して下さいますが、そんなたいそうなものではなく、あくまで趣味の範囲で楽しんでいるに過ぎない一般人です。懲り方が少々人よりも過ぎている自覚はある、変人くらいなものですので、私に忖度など決してなさらず、出芽のSUETSUGUさんなりの感じるままに、考察いただけたら良いのではないかと思います。
私の優位な点があるとすれば、日本の広範囲に実際に足を運ぶことで、広範囲に俯瞰できる可能性がある、というところでしょうか。人がなかなか知り得ない、たどり着けない場所にも立つことができたこれまでの幸運に、感謝するも足りないほどです。
大切な友人との貴重な縁が、それを紡いでくれました。それこそ、スピリチュアルな体験であり、聖地にも感じる感覚です。
僕が一般的に言うところのスピリチュアルを忌避するのは、それらが自己主張のために引用され、そこに人の傲慢さを垣間見てしまうからです。ふざけてはいても、畏れる気持ちを忘れてはならないと、自分に言い聞かせています。出芽のSUETSUGUさんが、東王家の墓で感じるものと、似ているかもしれません。
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昔、20代の頃、京都に8年間も住んでたのに、出雲大神宮も貴船神社もスル~し、京北の賀茂神社もスル~していた自分に戻って言ってやりたい。
「もったいない! 年取ってからだと歩きすぎると整骨院に通う日々だよ」と。
現在、絶賛整骨院通い中です。
真名井神社を一気上がりして。。。
膝をやりました(T_T)
出雲大神宮に行くまでには完治させたいです。皆さん、登山される方、なれておられるばかりで、元宮奥宮巡りで、腰と熊の心配ばかりしている私にとっては羨ましい限りです。
でも、行くのです。行きたいから(笑)恥ずかしながら熊が秋は怖くて怖くて。皆さん怖くないのでしょうか。立石神社で磐座様の前で素敵ーと森林浴に浸っていましたが、よく考えたら熊🐻が、去年その時期に出雲で出没したと後で知り、ぞわわわでした。
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こんにちは。
ここを行こうかどうか迷いましたが行くことにしました。新参にわか勉強中のものが生意気な意見かもしれませんが。。。私にはこの出雲大神宮が元出雲と呼ばれ、いまの立ち位置で、大神宮と呼ばれるのにも、どうも何らかの意味があるような気がしてならないのです。
それを確かめに神社誌や丹波丹後の風土記を読んでますが分かりません(笑)
実際には来月行く予定です。
もちろん、五条さんが行かれて感じたことは五条さんの感性であり、その感性は人それぞれですし、きっと調べに調べて足を運ばれた結果、でのことですもんね。ご気分を害されましたら申し訳ありませんm(_ _)m
鍬山神社の由緒によると、かなり古く3世紀中頃より前に、出雲の人たちが肥沃とは言えない湖だった亀岡を鍬や鋤で保津峡を削って開拓したとありました。
亀岡は出雲にとって大切な地であるのは間違いないとして。。
この辺りは五十猛や叢雲の功績もありきではないのでしょうか???
また、天日矛については、
私は結構気の毒な新羅、伽耶?の王子だったのではと認識しています。 播磨の僻地を開拓したことにより、播磨の出雲族にとってもインフラ整備をした彼の功績は一時でもあったと思います。苦労がたたって亡くなったとどこかで読んで、史実だとしたらなんだか気の毒に思えました。
国は百済に制圧され、弟が王を継ぎ、態度が悪く八重垣を守れそうにないということで出雲族から受け入れられず(まあ色々と受け入れて出雲はえらい目にあったというバックボーンはあったにしても)
その後は出雲を侵略というよりも、コツコツと播磨開拓に奔走してたのですよね、水上生活しながら。
そして後に播磨を侵略して出雲族から奪おうとして、なんだかんだ結局フトニ大王と息子たちに追い出されてしまったと、口伝でうら覚えしとります。
その後ヒボコの子孫は出雲族に恨みをもって、田道間守とか。。出雲に対してなんと酷いことを。。これは読んでて辛かったです。
後になって、出雲王家最後らへんの野見宿禰の出雲凱旋道中の毒殺事件についても、怨みの歴史は廻る、特に子孫に濃く受け継がれてしまうと怖くなりました。
しかし。。
そのヒドイことをした子孫の祖神であるヒボコは、(北陸の敦賀、都怒我阿羅斯等と同一神かどうかは置いといて)、彼の出自の伽耶国といえばカヤナルミで高照姫(下照姫か?)とか、神功皇后など、出雲系の姫神と血筋的には関係あるかもしれず、
出雲とはアタカタスからの親戚関係である九州宗像氏の三女の中に、恐らく伽耶の血はあると私は考えています。新羅にしても九州とは地理的にも近すぎますし。そして木俣神こと阿陀加夜奴志多岐喜比売命は、多岐都比売命の娘である下照姫か高照姫(同一神説もある)のことだとの各地の地元神社誌の説が本当のことだとすると。。。宗像三女にも伽耶の血があるとすれば。。
天日矛だって物部海部だって、天孫、地祇。。なんだかどっちよりのどっちは良くてとかもう考えるのもやめました。
こう考えたら私は最近、
人類みな兄弟やん。
出雲族も渡来人もみんな兄弟やん。
ついたり離れたり、それが人間であって神様と呼ばれたお方だって同じやん。。
と思うのです。
大元出版シリーズを読んで間もない頃は、自分のルーツが出雲族と分かってからは特に、徐福が憎い、物部め(●`ε´●)とか思って、物部系の神社や、なんだか物部の香りがしたりする神社はどうもニセモノに、見えたり、天穂日命が書き換えた由緒を見て〇家の栄華に気分を害したりしていました。勝手に出雲族がハイブランドな血脈だと思う選民思想に陥りかけてたと思います。
でも、大和、倭国内乱、地元の手間山の歴史を調べていくうちに私はこう思うようになりました。
真実はわからない。
だから全てが鴨長明の謳う方丈記の世界なのだと。
渡来系や物部、天穂日命だけが他人のものを略奪していたわけではないと思うのです。敵は身内にもいる。生き残り子孫をまもるために。
大和内乱や赤猪岩神社近くの手間山では、孝霊天皇ことフトニ大王だけでなく、他に朝廷側についた出雲族とそうではない出雲族同士が争った形跡もひょっとしたらアルかも知れない。だから、強くなった親戚には注意せよ、との家訓が出雲王家にあるのでしょう。これはフトニのことだけを指すのではないかも。
このようには考えたくはないのだけど、調べれば調べるほど、
賀茂氏を辿ると八咫烏?オオタタネコ?大御食主?賀茂建角身命を祖神とする半分天神系みたいな出雲と、事代主を祖神とする地祇系に分かれてたとの雰囲気を感じ、
京都鴨川の西に出雲路西大橋があり、私は京都に8年間住んでて、なんでこの辺が出雲なのかなんて知る由もありませんでしたが、出雲郷といって地祇系が先に住んでて、(天穂日命が祖神かもしらんけど。。分かりません)
色々な方の考察本やブログ情報を参考にした知識でしかなかったのがもどかしく、一応京都は行ってみました。そして、京都には賀茂氏が後になって進出してきたように感じました。生き残るために大和では朝廷側について、地祇系の賀茂を土蜘蛛として討伐するのに加担していたとする研究者の文献もあり結構悲しくなりました。。これは嘘であって欲しいと思っています。
出雲路幸神社が古くから鴨川西側にあり、そこは触ったら祟るといわれる石神さんがありました。サイノカミ信仰。出雲寺も近くにあったはずですが、後から桓武天皇が祟り恐れて上御陵神社になった経緯がありました。怨霊鬼門封じ、御所を守るための土地にされてしまってるかんじですね。ひっそりとしていい感じではありますが。すみません、京都編は自分は見てませんがもしかしたら五条さんのブログにもあるのかな?
このあたりは初めは出雲の豪族の屋敷跡があったりと随分な集落でしたが、賀茂氏が朝廷のご加護を受けて栄華を極めるのと反対にだんだん元いた出雲の人たちは衰退したらしいです。朝廷から監視されて、浮浪、逃亡とか、山背愛宕郡出雲郷計帳?によると書かれてて逃げ出したくなるような労役とかさせられたり監視されてたのではないでしょうか。過去のこととはいえ、出雲の女性たちがヒドイ目にあってなかったことだけを切に祈っています。そして、地元の手間山に逃げ込んだ出雲の兵士が、吉備や物部勢力からだけでなく、大和からの同族にさえも囲まれ討たれていたというような史実がないことを祈ります。賀茂神社と高野女神社に三角形に囲まれてる意味が前から気になっています。
私は下鴨神社が大好きなのですが、それとは別の視点で見ると、
お金の動きを見れば、勝者がわかるとよくいわれます。上賀茂神社、下鴨神社は朝廷から功績を認められたご褒美。。という意味合いもあったとしたら、境内の出雲井於神社こそが、本来のお社だったのだろうなと私も思いました。
私は最近このように思います。そう、まさに鴨長明の方丈記の世界です。
川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。。。
ちょうど場所も鴨川。鴨川の水の泡を見ながら長明さんは、賀茂氏の栄華とその西側にある出雲郷の衰退を偲んだのかな、と勝手に妄想しました。偶然にも私は学生時代に京都に住んでた頃にこの辺りは待ち合わせ場所として気持ちよく1番京都で好きな場所でした。
いつものように長々書いてしまいました。
奪われた側はいつまでも
その苦しみから解かれることはなく
苦しんでおられるのだと思います。本当にそれは傍からはわからない想像を絶する辛さなのだろうと思います。軽々しく私なんぞが言える資格はないということだけは分かります。
それはきっと、他人にとやかく言われたくない一族の負の歴史があるのだと思います。後世に語り継ぎ一族に忘れて欲しくない、真実。
しかし最近は、その一族のスピンオフのような別の一族のアナザーストーリーもあるのではないかなと思うようになりました。
方丈記のように
人間は哀しいものだなあと思います。一族のうらみと、うらまれる方にも悲惨な歴史があったりしますよね。。人類みな兄弟だと思える、争いのない世界になるには程遠く。。
去年、島根安来の出雲路幸神社に出会って、この神社が私の考え方をこんなふうに変えました。
そこにある、京都の賀茂神社のトグロの三角形の砂盛りと同じ小さいのを見た瞬間に、出雲を源郷とする出雲の人たち。各地に行って苦労した出雲族や渡来人、各地伝承に出てくる神様が過去にどんな行いだったにせよ。。
苦労して開拓した地にたつ神社のことは、後世にいる私は、行い敬う気持ちでいたいとは思っています。思わぬ史実やストーリーがあるやもしれませんしね。
はじめはスサノオノミコト=徐福だし、歴史も浅そうだしと八重垣神社もお参り程度でしたが、あそこの杉もなんだかモノ申す!と言ってるような気がしてきました。須我神社もしかり。こちらの意識次第で見え方も違って来ますよね。菅之八耳さんだ、と気づけば3気のお守りにしても、底しれぬエネルギーを感じてしまいます。そう気づかなければ意識はそこに向かいません。
新海監督の雀の戸締まりにもありました。人間の意識の喜びや歪み、哀しみを自然も吸い取り、それが気となる。廃墟には、かつて自然から拝領した人間の身勝手さに、自然が悪い気を出してメッセージを送っているとも。自然信仰は、
こちらの意識次第で見え方が変わるとのメッセージだと受け取りました。
自然を敬う気持ち。自然にある古代祭祀場で祀られた磐座もあれば、磐座を重たいのに苦労して運んだりして、誰かが故郷を思い移住を余儀なくされる事情から置いて祀ったものもあれば、はたまた、神社の商売からか。
磐座もその磐座自体もあるかもしれませんが、その磐座を思い祈りを捧げる人たちの想いを何千年もかけて気として宿し、放つのかなあと。人が中心という意味ではなくて。自然を大切に思う生き物の気をもらいそうな。。
出雲大神宮、
どんな思いになるのか楽しみです。☺
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弾丸工程初日、11日はは3回目の出雲大神宮でした
何とですね、公式には何とも書いてないんですが、裏山の御影山、なんと禁足地ではないらしく登って上に何かないか確かめることでした。
一度外に出て近くの猿田彦神社から山の方に向かい、山道に入ります
そこから驚きのお金を払って行く磐座の後ろ(笑)を通る山道を登りましたが、上には何もありませんでした
私の記憶が確かなら、岩倉の岩はこの山の中腹にある岩とは種類が違う気がします
さらに、山頂手前の場所には三段ほど整治した場所があり、そこで火を焚いた形跡が見られましたので、昔は規模が小さく、小宮がそこにあったのかもしれません
なんとなく物部の色彩を感じた印象通り、開花系の磯城家の人たちが亀岡に遷都して大丹波をヒボコと一緒に形成した場所の様な気がしますね
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なんと、すごい情報ですね!
そうすると大神宮の磐座が拝み石である可能性は低いということでしょうか。
また、大神宮の磐座はどこからか運び込まれたものということになりますかね。
そう、あそこは出雲というより物部の気配です。
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登ってみた印象ですが、中腹に磐座のような地形がある事にはありましたが、そこから持ってきた岩のような気がします。
山頂の手前には3段ほど整地された地形があり、古い焚き火の様な痕跡も見られましたので、古い時代は神事が行われていたか、戦国時代は山城か狼煙があったのかもしれません。
出雲大神宮は本当は真ん中が空位、左右の本殿に四柱の神が鎮座しています。
昔は籠神社と同じで出雲の領域
後に、ヒコミチヌシノミコが亀岡に遷都した際にはもう一つの母系の尊重で出雲の神を祀る事を継続してのではないかと感じます。
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五条さま
今回の記事では、『徒然草』のご紹介がとても面白かったです。あのような一段があるとは知りませんでしたから、ベンキョーになりました。
それにしても子どものやることは、昔も今もあまり変わらないのですね。鎌倉時代のあの子たち、大人をびっくりさせてやろうと思って、きゃっきゃきゃっきゃ言いながら獅子と狛犬を動かしていたのでしょうかね?
微笑ましくて、フッと笑みがこぼれました。
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僕も子供の頃は神社でよく遊んだものです。
さすがに狛犬を動かしたりはしませんでしたが、本堂に上がり込んで寝そべったり、御神木に登ったりしていました。
日本の神様は子供には寛容ですね😄
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フフ、narisawaホイホイ神社のご紹介有難う御座いますw。
吉田本に出てくる籠神社の宮司との対談は今でも密かにネットにヒットしますね。
籠神社の本来の祭神は出雲の大神
「中央は空位、左がミホツ姫とオオクニヌシ、右は天つヒコネの命と、天のヒナドリの命となっている」
ヒコネとはもしかしたら千家が藤原に奪われたコヤネなのかもしれません
何しろ出雲大神宮に似ていますね。
宇佐氏の本によれば丹後には月神信仰が入っていたとあります。
→京都大江山は莵狹族が最初に拠点を置いたところである。
現在の大江山に月神信仰の痕跡は見られない様ですが、伊去奈子嶽や久次岳の信仰を考えると、かっては大江山に月神信仰があった可能性はある様に思えます。
大神宮にはちゃんとウサギさんも居ますし、神奈備山が八雲山ではなく御影なので、お月様がいる神社ではないかと私は思っています。
磯城登美家にサマナ姫が入っていますので、母系の更に母の尊重で、邪馬台国事件で丹後に戻ってきた海部一族の作った籠神社らしい神様の祀り方に、当神社が近い事は興味深い話だと思います。
また、田原本町の物部守屋の子孫の布都姫神社がミホツ姫を祀る事からも、海部、物部の両方からミホススミが尊重されていることは興味深い事です。
個人的には出雲大神宮は、物部色が強いイメージで捉えていました。
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出雲大神宮、いやよくわからん神社です。
なにかしら有力な一族が建てたのだとは思いますが。
京都も賀茂氏がいたり宇佐氏がいたり、混沌としてますね。守屋の子孫がミホススミを祀っていたとは驚きです。なんとなく物部は出雲を祀らないのではないかと思っていましたので。まあ、血は交わるわけですし、もう僕らの中にはいろんな血が分け難いほど複雑に混じり合っているのですが。
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先生も行かれた村屋坐弥冨都比売神社のことでありますよ〜。
あそこは物部守屋の長男さんの血筋が宮司やってまして、本来は物部守屋の妹さんが布都姫なんですが、どういう訳かミホススミさんになってる変わった神社なんです。
ちなみに諏訪の神長官三代目に養子入りしたのはこの家の弟さんの方です。
物部守屋の母親だかが、スワの名のつく人物で、もしかしたら母系の血筋を頼りに戻ったのかもしれません。
最近、現在の我々が知る守矢氏は、物部氏の様な気がしている原因の一つが布都姫神社です。
守屋の母型の実家がミナカタ系だったのかもしれません。
諏訪においては物部氏は再興され物部性を名乗りました。五管のホオリの禰宜太夫が物部家でした。
そして出雲大神宮の神紋は菊花紋
それで出雲大神宮を、物部色が強い様なイメージを持っていました。
ちょうど真逆でこの二つの神社が面白いなと感じていたのです。
物部氏が出雲を祭り、かたやここでは出雲の神社が物部のイメージを帯びているのです。
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ああ〜!!そうでしたか。
冨都比売=布都姫、そうですね、そうですね。
村屋坐弥冨都比売神社、僕はなんであそこに行ったんでしょうね。確か何かが気になったので、行ったはずなのですが。再考の余地ありですね。
ところで布都姫がなぜミホツ姫になったかの謎はさておき、屋坐弥冨都比売神社の祭神の大物主とは事代主だと思うんですよね。美保神社もミホツ姫と事代主。このミホツ姫、僕もずっと娘・ミホススミのことだと思っていましたが、ひょっとすると沼川姫のことじゃないですかね。父娘を祀るというより、夫婦を祀る方が自然だと思うんです。沼川姫というのもいわゆる愛称のようなもので、本名がミホツ姫、その母の名をとって娘はミホススミと呼んだのではないかと最近は考えています。
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フツヒメ神社に関しては、冨都比売=とみつ姫という解釈もありますね。
私は物部守屋の子供が疎開した先は全て出雲や大彦系に縁がある場所になってるのでは?と考えています
長男→事代主
次男→タテミナカタ
長女もしくは三男→秋田(阿部の領域?)
そうすると草薙の剣の疎開先になった、守屋伝説のある
岐阜の水無神社→?阿部?越知?
うーむw
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そう、すっかりとみつ姫方面で考えていました。
出雲は敗者に寛容ですので、物部にも手を差し伸べたのかもしれませんね。
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出雲の元宮が一体何処なのかどれなのか沢山ありすぎて判りません🦑磐座は墓なのかガラクタなのかただの奇怪な岩なのか沢山ありすぎて神体不明😨ついでに宮司さんの字は…下手かも何歳ですか🐣ぼた餅を持って物見遊山はとても良い考えです。ところで、最後の写真の磐座だけは本物の御神体だと感じました。自然の美しい気配があったので🐥
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元宮がたくさんあるのは、それらが古い出雲王国の王宮跡だからです。出雲大社は大して重要な社ではありません。最後の磐座は確かに神秘的でしたね。磐座の最も古い形は王家の墓です。
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🐥…古い出雲王国の王宮跡🦑なるほど、分かりました。(…?)
大昔の磐座は王家の墓でしたか。墓というと古墳みたいなのだと思ってましたが。死体を壺に入れて地面を掘って埋めてから岩でフタを閉めたんですね。そうでしたか🐣
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古墳時代前の埋葬方法です。
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