三屋神社:八雲ニ散ル花 18

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出雲空港に降り立つと、スサノオとヤマタノオロチのモニュメントらしきものがありました。
しかし作るのが大変だったのか、頭は一つのみです。

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しかしこれをみると、斎の木に巻きつけられた、藁の蛇によく似ています。

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さて、島根県雲南市三刀屋にある「三屋神社」(みとやじんじゃ)を訪れてみました。

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参道の脇にある原っぱには、「二千年ハス」なるものがありました。

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あいにくこの状態でしたが、花が咲く頃は見事だと云います。

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ここへは西出雲王国、「神門臣家」の本拠地を探してやってきました。
東出雲王国、「富家」の本拠地は意宇川周辺の熊野大社、神魂神社を中心とした一帯だったようです。

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ここは、出雲国風土記に「御門屋社」(みとやのやしろ)と記される古社です。
その昔、大国主命の御殿が在った場所と伝えられています。

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御祭神は大己貴命。
延喜二年再建の棟札が現存していると云います。

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出雲国風土記には、「所造天下大神の御門がここにある。だから、三刀矢(みとや)と云う。 神亀三年(726年)に字を三屋と改めた。」というようなことが記されています。
また「神門と名づけるわけは、神門臣伊加曾然(かんどのおみいかそね)の時に神門を負担した。だから、神門という。)とも記されているそうです。

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この「神門」とは、様々な見解があるようですが、鳥居のことではないかという説が強いそうです。
つまり神門臣家は杵築大社の鳥居を寄贈したのでその名がついたと云うのです。

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これは大きな間違いです。
神門臣家は杵築大社が造られる以前から神門臣家でした。

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延喜二年(902年)の棟札には「奉再建一宮大明神社殿一宇」とあり、裏書には「誠忝(まことにもったいなくも)当社者(は)素戔鳴尊之御子大己貴命天下惣廟(そうびょう)神明也」と明記されているそうです。
素戔鳴尊之御子は間違った、余計な情報ですが、ここは「大国主の惣廟であった」と云うことです。

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杵築大社、つまり出雲大社の創建は、穂日家の果安氏が要職を失業する懸念から、神社の神主になろうと思い立ったのがきっかけでした。
果安氏はまず、西出雲王家の神門臣家に出向き、八千戈王の神霊を祀りたいと申し入れます。
出雲大社は当初、宍道湖の西岸に建てられる予定でしたが、神門臣家の勧めで八千戈王の遺体を埋葬した竜山の磐座を遥拝する今の場所に建設することが決定されたと云います。

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東出雲王家の向家は領地の一部を売って出雲大社の境内地と神職達の屋敷の敷地・家屋を購入する資金にしました。
神門臣家は領地内の材木を切り出し、運び、大工などの人件費を負担し、出雲大社を建てました。
大社社殿は神門臣家の所有となり、本殿の鍵は神門臣家出身の上官「別火家」が所有していました。
国造家・果安らはほどんど出資しなかったということです。

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富家の伝承を伝える斎木雲州氏によると、三屋神社は出雲大社の元宮であったと云うことなので、出雲大社は三屋神社から分霊されたのかもしれません。
神紋は「二重龍鱗に剣花菱」であり、出雲大社にも同じ神紋が使われました。
今ではまるで国造家の神紋のように扱われていますが、本来は神門臣家の神紋だったと云うことです。

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これらを踏まえてくると、三屋神社が鎮座するこの場所は、古くは、西出雲王家の王宮跡である可能性があります。

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斎木雲州氏は更に、神門臣家の王宮は時々移ったと記しています。

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その場所は「古志の郷」(神門町)であったり、「塩冶の郷」(やむや)だったりしたそうです。

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8代の王と副王を同時に失った出雲族ですが、その後も王と副王を輩出し、17代の「遠津山崎帯」(とおつやまさきたらし)の時まで王国は続きます。

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山崎帯王は神門臣家の出身でした。
彼の時代に二度目の九州物部族の襲来があり、出雲王国は終焉を迎えます。

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本殿は見事な大社造りです。
出雲の大社造りは当時の王家の住まいを、そのまま形に残しているそうです。
つまり大社造りは、出雲大社よりも古くからあった王宮である神魂造り、三屋造りと本来呼ぶべきなのかもしれません。

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決して広くはない境内には、本殿を囲むように、小さな祠や、

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意味ありげな石があったりします。

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東出雲王家の口伝伝承者が今、少しづつ歴史を紐解き始めましたが、西出雲王家の伝承者は固く口を閉ざしたままです。
ひょっとすると、口伝は途絶えているのかもしれません。
それだけに西出雲王家の歴史に関しては、まだ謎が多く残っています。

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果たして、山奥の交通に不便なところにある三屋神社が王宮であり得たか疑問を抱きましたが、車を少し走らせるとそこには斐伊川一の大支流「三刀屋川」が流れ込んでおり、かつては船の交流が重要だったことを考えると、それもあり得ると考え落ち着きました。

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