吉備津彦神社:八雲ニ散ル花 吉備王篇 01

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イサセリ・ワカタケの軍勢は、キビ地方全域と美作地方を占領し、その軍勢は各地に分散して住み着くことになった。
イサセリ彦とワカタケ彦は、キビの中央に当たる「キビの中山」に定住した後、名前を変えた。前者は大キビツ彦となり、後者はワカタケキビツ彦と呼ばれるようになった。
その頃、ヤマト地方にモノノベ勢が侵入した。キビツ彦兄弟の父君・フトニ大王は、モノノベ勢を脅威に感じ、キビに移って来た。
その後ヤマト地方では内乱状態が続き、大王と呼べる人はいなかった。その様子は、シナの史書『後漢書』「東夷伝」に次のように書かれている。
桓帝と霊帝の在位期間には、和国は大きく乱れ、代わる代わる互いに攻めて、長年にわたり国主がいなかった。
後漢の桓帝と霊帝の在位期間は、西暦147年から188年に当たる。その年代は、出雲の旧家の伝承と見事に一致している。

- 富士林雅樹 著『出雲王国とヤマト政権』より -

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岡山市北区一宮に鎮座の備前国一宮「吉備津彦神社」(きびつひこじんじゃ)を訪ねました。

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入口に立つ狛犬は備前焼。とても凛々しい御顔立ちです。

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吉備津彦神社は岡山市西部、備前国と備中国の境に立つ吉備の中山(標高175m)の北東麓に鎮座しています。

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背後に聳える吉備の中山は、古来より神体山として信仰されており、北西麓には似た名前の備中国一宮「吉備津神社」が鎮座しています。

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社殿の手前には右に鶴島、左に亀島があり、それぞれに社が建てられています。

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鶴島神社には住吉神と神功皇后が祀られ、

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亀島神社には市杵島姫が祀られています。
亀島に市杵島姫。

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最近亀と豊玉姫の関係が気になっています。
豊系、あるいは越智系の聖域に、龍宮の使いとされる「亀」由来の何某かを度々見かけるからです。

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ところでこの亀島の奥に五色島というのがあって、環状列石の古代祭祀跡があったのですが、失念していました。
まあ、このあと出会う磐座群に比べれば些細なものなので構いません。
また岡山に行く機会があれば、その時訪ねてみます。

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当社主祭神は、吉備津神社ともに当地を治めたとされる大吉備津彦命を祀り、命の関係一族を配祀します。

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社伝では推古天皇の時代に創建されたとされていますが、吉備の中山の裾にあった大吉備津彦命の住居跡に社殿が創建されたのが起源と考えられています。

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吉備津彦神社は、夏至の日の朝日が社殿内の鏡に差し込むよう社殿が建てられていることから、別名「朝日の宮」とも呼ばれています。
朝日とつく地名などは出雲族に関係していることが多いのですが、吉備王家も出雲の親戚ですし、元々吉備国は出雲王国領土でした。

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優美な本殿の周り四隅に

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楽御崎神社(らくおんざきじんじゃ)と尺御崎神社(しゃくおんざきじんじゃ)が各2社ずつ鎮座しており、それぞれ「楽々森彦命」(ささもりひこ)、「楽々与理彦命」(ささよりひこ)、「夜目山主命」(やめやまぬし)、「夜目麿命」(やめまろ)を祀っています。

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この四柱の神は、大吉備津彦命の平定に従ったと伝えられていました。

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祭神の大吉備津彦命は第7代孝霊帝(フトニ大君)の皇子で、記紀には崇神(物部イニエ王)10年の時に帝の命により四道将軍の一人として山陽道に派遣されたと記されています。
この時、従わぬ者を屈服させ、若日子建吉備津彦命と協力して吉備国を平定したとされています。

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これが鬼退治をした桃太郎の話になりました。
しかし古代の東出雲王家「富家」には、これらの英雄伝とは違った真実が伝えられていました。

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5代孝昭帝 (カネシエ )あるいは6代孝安帝(国押人大君)の頃、海部氏は丹波に移住し勢力を拡大しました。
すると彼らは、但馬に勢力を持つ天日矛(アメノヒボコ)の子孫らを邪魔な存在ととらえます。
そして、海部族は丹波方面からヒボコ勢を攻撃し、但馬北部を占領しました。
『海部氏勘注系図』によると、その頃の海部族の当主は「建田勢」であり、『旧事本紀』「天孫本紀』で彼は「神服の連、海部の直、丹後の国造、但馬の国造たちの祖」と書かれています。
つまり、但馬のヒボコ勢を攻撃したのは、建田勢であったものと推定されます。

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但馬を追われたヒボコ勢は、そのまま播磨(はりま/兵庫県南西部)に侵攻しますが、そこは東出雲王国領でした。
播磨を占領された東出雲王国は豪族に銅鐸を配るのをやめ、銅剣を新たに配り始めました。
大和では大彦が伊賀国に去った後、フトニ(7代孝霊帝)が大王の位に就いていました。
彼は、東出雲王国が大和政権との同盟をやめ、国のシンボルを銅剣に変えたことを不快に感じていたようです。

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フトニ大王は播磨地方をヒボコ勢から奪還するよう、息子のイサセリ彦とワカタケ彦兄弟に命じます。
彼らは大軍を率いて播磨を攻めました。
ヒボコ勢はこれに押し負け、海部族に占拠された旧領の但馬にも戻れず、多くはまだ住民が少なかった淡路島に逃げた、と伝えられています。
また、ヒボコ勢の残りの一部は、船で淀川を逆上り、琵琶湖東岸の坂田に移住し、また他の一部の人々は吉備国に逃げたと云います。

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ヒボコ勢を追い払い播磨国を占領したイサセリ彦とワカタケ彦らは、こともあろうにそのまま出雲王国領の吉備地方まで侵攻しました。
奈良の大和王朝は、もともと天日方奇日方ら出雲族と海部族の天村雲によって築かれた王国であったので、磯城・大和王家を親戚と考えていた出雲王家は、大きな衝撃を受けました。
予想もしない攻撃を受けたために、出雲族は防戦の準備が遅れてしまったのです。

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イサセリ彦・ワカタケ彦の勢力は圧倒的で、出雲王国軍はその勢いに押され、吉備の中山まで占領されました。
出雲王国は、吉備を捨て、出雲の国境を防備することに決めました。
イサセリ・ワカタケの軍勢は、吉備地方全域と美作地方を占領し、その軍勢は各地に分散して住み着くことになります。
この時、イサセリ彦は「大吉備津彦」、ワカタケ彦は「若健吉備津彦」と名を変え、吉備の中山に定住しました。
その居住跡が今の「吉備津神社」と「吉備津彦神社」だと云うことです。

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イサセリ彦・ワカタケ彦が吉備に定住した頃、大和に第一次東征軍の物部族が侵攻してきました。
フトニ大王はこれを脅威に感じ、息子を頼って吉備国に移ってきました。
大君を失った大和国は内乱状態が続き、いわゆる大和大乱の時代を迎えます。
シナの史書『後漢書』「東夷伝」には次のように書かれています。
「桓帝と霊帝の在位期間には、和国は大きく乱れ、代わる代わる互いに攻めて、長年にわたり国主がいなかった」と。
後漢の桓帝と霊帝の在位期間は、西暦147年から188年に当たり、その年代は、出雲の旧家の伝承と見事に一致しているのでした。

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イサセリ彦・ワカタケ彦は吉備国を制圧した後、北上して出雲と伯耆国まで攻め入りました。
なぜ彼らは親戚関係でもある出雲王国を、それほどまで執拗に攻めたのか。
それは彼らが鉄を求めたからだと伝えられます。

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吉備津彦神社の境内の隅に「温羅神社」が末社として鎮座しています。
ここには、吉備津彦が倒した獰猛な鬼・巨人として「温羅」(うら)が祀られています。
なぜ主祭神の宿敵が同じ敷地内に丁重に祀られているのか。

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富士林雅樹氏は、鬼の名前を温羅にした理由の一つは新羅由来のヒボコ勢を表すため、そしてもう一つの理由は、裏日本の出雲王家を指すためであったと説いてあります。

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しかし鬼としようとも、その偉大な王家を蔑ろにすることは、当地の人たちにはできなかったのでしょう。
それで末社という形だけでも残そうと、温羅神社が建てられたのだと思われます。

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鬼退治を成し遂げ、凱旋した英雄・桃太郎。
しかし彼は他方から見れば多くの者を手にかけた侵略者であったとなります。

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歴史は勝者のものであり、その延長に今の僕らの世界はあります。今の僕らの世界を否定できない以上、今ある歴史を肯定せざるを得ないのも確かなことです。
しかし忘れてはならないもの、失ってはならない歴史もあるのです。
『偲フ花』がそうした失われつつある歴史を紡ぐ、語りになることが僕の願いの一つでもあります。

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吉備津彦神社と吉備津神社の裏山に、多数の磐座群があるのだそうです。
そこへ足を踏み入れて、僕はさらにまた、ある一族に思いを馳せることになるのです。

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と、その前に桃太郎といえばきび団子。
冷たい甘酒と一緒に、滋養をつけておくのでした。

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14件のコメント 追加

  1. narisawa110 より:

    あるえ〜大元出版新情報カミングアウトでございますか?

    出雲王家本によれば、ヒボコ族は物部氏に唆されて播磨侵攻が単独開戦になり、尾張などの巻き返しで敗れ、糸島と淡路島に逃げたとあります

    そして富士林先生の本には

    大和宿禰の子供は、笠水彦、笠津彦だが、モロに地名を表している
    笠はウケと読み、丹後風土記に加佐の由来が出ている。
    加佐の群は、もと笠の群の字を用い、ウケノコオリと読んだ
    つまり大和宿禰か、笠水彦の時代に尾張海部の政権の分家が丹波に来たと考えられる。
    舞鶴市の弥加宣(みかげ)神社には海御陰が祀られる

    と、たまたま昨日読み返していた私が混乱していますww

    さらに、豊岡盆地と、笠が丁度、トヨウケになるななどと独自論を考えていた所でございます

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      いえいえ、あけぼのから続く共通認識だとおもいますよ。
      確かに丹波方面から但馬北部を攻めた海部族は、大和の尾張族が北上した一族のようです。それが地名由来の名前に出ています。
      しかし播磨を占拠したヒボコ勢に攻撃をしかけたのはフトニの息子たちイサセリとワカタケだったと伝えられていると本に書かれています。まあ大君家ですから、尾張も一部ついてきていたかもしれませんが、どちらかといえば大勢は大彦について行ったと思われます。

      豊岡盆地、なるほど確かに。
      僕は今、豊田・豊川・豊橋、岡崎神社の岡崎などの地名が集中する愛知方面が気になっています。その東に由比正雪に関わる場所があるんですが、来てるんじゃないかなぁ豊、それと越智。
      浜松をぐっと北上すると豊根村・天龍村を経て阿智村があるんですよね。阿智って越智じゃないのかなぁって。阿智村のそばに筑紫神社があるんですよ。阿智村が越智村ならば、阿知女作法も越智かなぁって思っていますわくわく。

      いいね

      1. narisawa110 より:

        ついに出雲伝承本でも謎であったオモイカネに来ましたですか。

        オモイカネは長野県南部、恵那山辺りから、少なくとも駒ヶ根市の手前、中川村までは、秩父の様にオモイカネが入ります。

        後年に散々いじられまくったと思われる天神系譜(神統譜)ですが、オモイカネはコヤネの別名ともされています。

        さらに天神系譜の神魂命の系図、以前、ヤサカトメの系図をご紹介致しましたが、そこにはタクハタチヂヒメの所に、コヤネの后と出ています。

        辰韓は秦国系の韓の国で、後漢の万里の長城の賦役がきつくて逃げ出した人たちの国であると三国志記韓伝に出ています。

        そんなこんなでコヤネのことを考えているうちに、ヒボコがもしかしたらスサノオの親戚だったりするのかなーと最近思ったりしたわけです。
        なんかビビッとインスピレーション降りてきてほしい分野です。

        天神系譜のうち、オモイカネの系図は以下の通り

        八意思兼(この時点で八意=八井耳?)→天表春命→阿豆佐美命→加美弥須命→伊豆氏命(出石?)→阿智別命→阿智山祇命→「味見命(秩父国造)と、味津彦命(阿智祝)」と出ています。

        偉い人の分家のワケ別が入るのが気になりますね。

        天神系譜、天御中主の系譜には稗田阿礼が出てくるので色々デタラメな感じで、中主とは、フツヌシと同じで、中臣の主の様な気がしています。

        伝説のあけぼの本は、97ページでいきなり播磨侵攻が描かれ、103ページで海部の丹後後方からのタジマ責めになっていたので、巻き返しでの話と思っていました。
        ちょっと私変なバイオスかかってましたかね。

        今日はまた前後から読み込んで復習ですね。

        いいね: 1人

        1. CHIRICO より:

          この先の天候次第ですが、近々阿智村には行ってみたいと思っています。
          僕はオモイカネは越智のような気がしています。重要古代氏族でありながら歴史からほとんど姿を消してしまった越智族、それは豊家と一蓮托生だったからなのかもしれません。
          しかし竹葉瀬君と共に福井に移った越智族が白山信仰の源だとしたら、その麓に白川族の郷があるのはとても意味深いものとなります。帝の代替わりに際し即位の秘技を取り行ったという白川家と、アメノウズメ(豊姫)を舞わせ、再びアマテラスを地上に呼び戻したオモイカネの姿が重なってくるのです。

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      2. narisawa110 より:

        ヒボコの播磨侵攻ですが、出雲王国とヤマト政権と、富士林先生の最新版の本で、表現がまったく異なってることに気づきましたww

        斉木編集長の本には物部氏の誘いに騙されて単独開戦になってしまい、負けてしまったと神床家のお爺さんが出てきますが、富士林先生の最新刊は海部に攻め込まれて始まったとあります

        な、なんだって〜ww

        いいね: 1人

        1. CHIRICO より:

          そうなんですよね、あけぼのとヤマト政権の相違点はドキッとしちゃいますよね。ほぼ大筋が合っているだけに。
          大いに考えなさい、ってことなのかな。

          いいね

      3. narisawa110 より:

        ちょっと調べてみました
        東漢氏の祖神説のオモイカネです。
        抜粋
        倭漢(東漢)(やまとのあや)氏の祖は応神大王の時代(3〜4世紀初頭?)に百済(安羅国)から渡来した阿智使主(あちのおみ)の後裔で、檜隈(ひのくま)に住み着いた技術者集団の名称と言われる。
        使主は後世の臣(おみ)で、檜隈は明日香村の西部になる丘陵地帯で、北を高松塚古墳・文武天皇陵、南をキトラ古墳にするあたりの地区になる。
         単一部族ではなく、血縁もばらばらで、移住者たちが祖先の伝承をもとにまとまっていった多部族の集合体だったらしい。
         阿智使主を祀るのが於美阿志(おみあし)神社で、東漢氏が氏寺として建てた檜隈寺の跡地にある。於美阿志の名称の由来は不明だが、「使主阿智」が訛化した音に文字を当てたものではないかと思われる

        上宮法王の事件から天武即位までの間に東漢氏は、息長派と、蘇我派に分かれていて、西漢氏は、読みが確か、かわちの何某と、思いっきり石川家を思わせる名前です。

        諏訪の監視のために長野に来たという伝承もあり、もしかしたら記紀服属でミナカタのフリをする様になった物部守屋の次男を監視する為という話なら筋が通る様な気がします。

        どちらの政権に貢献のあったヤマトノアヤ氏なのかで評価が反転する難しいテーマと思われます

        信濃の阿智は、恵那山を守りますが、これが越知なら戸隠や白山になってるはずなんです。

        飯田市に九頭竜みたいな名前、あったかどうか思い出せませんが、宇佐のアチメであれば朝鮮系の神事なので、私はこっちの様な気がしています。

        いいね: 1人

        1. CHIRICO より:

          人麿も元は綾部姓で東漢氏の分家でした。彼の母親は小野氏の勧めで、天鈿女命の子孫を称する稗田系の語り部の仕事を受けました。
          大元本では天鈿女は豊姫のこととされ、東漢氏が阿智の後裔であるなら越智とつながるような気がします。
          ただ、僕的には、越智は出雲の分家ではなかろうかと推察するところです。北海道から南下したクナト族のうち、出雲に留まらずそのまま南下した一族がいたのではなかろうかと。

          飯田市に九頭竜はないかもしれませんが、天竜川がありますね。
          諏訪湖から流れる川は片方は上川なのに、もうひとつは天竜川、たいそうな名前です。
          それでいて天龍村はずいぶん下流のほうにあります。
          これは天竜川下流から遡って諏訪入りした一族がいたのではないでしょうかね。
          そこに阿智村があって、筑紫神社もありました。
          あ、narisawaさんのお好きな風三郎神社も立ち寄ってきました。とても清々しくて良い神社です。
          悪天候と時間の問題で奥宮は参拝しませんでしたが、いつかnarisawaさんにサポートしてもらえることを夢見ています😄
          越智族=オロチ族、天龍=海龍、そんなイメージが湧くのですが。

          いいね

  2. CoccoCan より:

    きびだんご、美味しそうです!!
    桃、一瞬もものお饅頭かと思いましたw お守りですかね。品があって愛らしいです。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      ももは陶器製のおみくじになっています。
      裏側の穴に、おみくじが入っているんです。
      ちなみに僕は大吉でした✨
      きび団子は素朴な味で美味しかったですよ♪

      いいね: 1人

  3. Nekonekoneko より:

    備前焼の狛犬がとても美しいですね🐥社全体の造りも優美で全く遜色ない。この神社を造ったのは誰なのかは知らないが、とりあえず温羅神社は随分しっかりとした小綺麗な造りですね。目を惹かれます。なんか御朱印の絵を見てると温羅さんは外国の人なのかと考えてしまう。眉が猛々しく目が大きくて鼻がしっかりしている。細くない。細くないですその顔🦑

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      なんだか全てがビシッとした神社でしたよ。
      吉備津彦は出雲族をたくさん殺したので複雑ですが、良い神社でした。

      いいね: 1人

      1. Nekonekoneko より:

        殺された温羅さんの眉が1番ビシッとしとる🐥

        いいね: 1人

        1. CHIRICO より:

          たしかに😁

          いいね: 1人

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