三重県松阪市射和町に鎮座の「伊佐和神社」(いざわじんじゃ)を訪ねました。
伊佐和神社は大和国の宇陀(うだ)から山に入り、険しい山越えの道、伊勢本街道(いせほんかいどう)を抜けた櫛田川沿いにあります。
元亀天正の頃(1570~1573年)、射和町は丹生(にゅう)水銀を原料とした「伊勢おしろい」で栄えた町ですが、室町末期、この軽粉素材の水銀中毒により、職人たちの手足がしびれ、若くして亡くなる人が続出したそうです。
この地にはかつて、産土信仰として八王子社(上社)と牛頭天王社(下社)があったそうですが、明治になって上社を射和神社、下社を八重垣神社と改め、
明治41年に八重垣神社に射和神社を合祀して、伊佐和神社としたとあります。
この合祀された射和神社が式内社の伊佐和神社に比定されており、その社名の由来は、日本書紀ある一文、
「神武天皇が大和へ向かう途中、兄磯城、弟磯城の宅へ八咫烏を遣わし伝えた。天神子召汝 怡奘過(いざわ)、怡奘過(天神の子が汝を呼んでおられる。さあさあ)」
にあると云うことです。
しかし「いさわ」の地名のまことの由来は、古い時代に志摩国を治めていた「井沢富彦」(いざわとみひこ)にあると思われます。
井沢富彦は出雲系大和豪族「登美家」(とびけ)の出身で、伊雑宮(いざわのみや)の社家であったと伝えられます。
大和姫が伊勢国の五十鈴川のほとりに内宮を建てるときに支持し協力した人物でもあります。
当社祭神は、様々な小社を合祀してきたこともあって、建速須佐之男命に始まり、菅原道真や柿本人麿に至るまで、混沌としています。
が、そこに井沢富彦の名は見られないのです。井沢富彦が神を祀ったとしても、一体どの神だったのか。大山祇クナト大神だったでしょうか。
境内にある丈夫そうな蔵には、祇園祭の神輿が格納されているそうです。
祇園祭といえば疫病退散の祭りですが、当地では水銀中毒による死者の鎮魂だったとしたら、少し切ない思いです。
神明造の本殿の横に、
本殿と同規模の社がありますが、これは旧本殿のようです。
射和神社は元は、当地より250mほど離れた櫛田川沿いの、射和寺薬師堂付近に鎮座していたとのこと。
つまり上社射和神社は櫛田川沿いから、この後ろの小高い山を聖域としていたと言えます。
そして帰り道、偶然見かけたこの山の名前に、軽い驚きを感じたのでした。
🐥小さな岩に山神の刻印…何故かそれが凶神という文字に見えて仕方がない。
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今が最悪、後は良い事しかないという暗示ですな
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🐥いや、実際に刻印が凶神という文字に見えるだけですわな🐤
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ふむ、じゃあ仕方ない😌
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