胡簶神社〜神功皇后紀 26

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(まったくこの男は)

強い紫外線と海の潮による年月が成したのであろう、深くひび割れた身体中を覆うしわは亀の甲羅を思わせた。
そんな肌を持つ安曇磯良が用意した小舟に乗せられて、神功皇后が連れてこられたのは断崖絶壁に奇跡のように造られた聖地だった。
海底には険しい岩場があり、大きな船では寄せることができない。
海流も複雑で、海を知り尽くしたものだけがたどり着ける聖地だった。

「姫さま、こちらからお登りください。」

磯良に導かれるまま、岬の先に、あるかないか分からない程度の細い参道を登っていく。

「おお、美しいところだな、磯良」
「はい、ここが我ら安曇が祀りし海神の聖地でございます。」

その岬の上は深い杜で覆われていたが、わずかに開けたところから海原が一望できた。
沖には停泊している皇后の御座船とその船団が見える。

「この先、程なくして和珥津へお着きします。
そこで全ての軍船、兵士が集結いたしますれば、いよいよ新羅へ進軍いたしましょう。」

神功皇后はこの老人の背を見つめながら、しみじみ磯良を引き入れて良かったと思っていた。
この航海は想像以上に激しいもので、この対馬に至っても暴風雨にさらされ、幾度も危険な状況が続いた。
そのことごとく、磯良率いる安曇族の者共は舵を取り、岸に船を引き寄せて難を逃れた。

「うむ、この先も頼むぞ、磯良」
「御意」

彼方の沖合では宗像から出航した船団であろう、そのちいさな白い影も見え始めていた。

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【阿須浦】
厳原の湊を出港した神功皇后らは、「阿須浦」(あずうら)に立ち寄ります。
阿須の地名は、「安曇磯良」(あずみのいそら)に由来すると云います。
この近辺の地名は
皇后の笠が飛んだ「笠渕」(かさぶち)
皇后の裳が濡れ、切り捨てた「截裳渕」(きりもぶち)
皇后の軍勢が平石で剣を研いだ「砥石渕」(といしぶち)
と神功皇后にちなんだ地名が多数伝わります。

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磯良は豊玉姫の子とも言われ、普段は海底に棲んでいたそうです。
最初は皇后の招集に対し、顔に貝類が付着して醜いのを恥じて応じなかったが、
やがて皇后に協力し、活躍する話が志賀海神社や志式神社に伝わります。

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阿須浦に立ち寄った時、たまたま見つけた「乙姫神社」。

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小さな神社には豊玉彦の娘、「玉依姫」が祀られていました。

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美津島町の根緒には宗像三神を表す島が3つ浮かんでいます。
一番奥の小さな島が隠れて見えません。。

この先の「綱掛崎」は皇后が雷雨に遭遇し、磯良が船を岸につないだと伝わります。

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【住吉神社/鴨居瀬】
対馬の入り組んだ海岸線にある「鴨居瀬」というところ、そこに「住吉神社」があります。

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海がめちゃくちゃ綺麗です。

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この海は別名「紫瀬戸」と言われています。
豊玉姫が後産の胎盤などをここで洗ったため、藻が紫になったそうです。
冬から早春にかけては、繁殖した海藻と赤紫色をしたサンゴが波に映って紫色に見えるそうです。

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海に面した鳥居はいかにも海の神の神殿といった趣です。

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扁額に住吉の文字。

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こじんまりとした神社です。

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御祭神は記紀に豊玉姫の子と記される「鸕鷀草葺不合尊」と住吉神の「三筒男命」。

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拝殿内に神功皇后の物語を描いた絵馬が飾ってありました。

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【胡簶神社】
対馬には立ち入りを禁忌とする聖地がいくつか存在します。
「胡簶神社」(ころくじんじゃ)もそのひとつです。

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胡簶神社はかつて、3月3日のお祭りの日以外は立ち入ることができない場所でした。
今は「胡簶御子神社」 (ころくみこじんじゃ)の境内横から歩いていくことができます。

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とは言っても、案内板があるわけでもなく、

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ひたすら山道を20分くらい歩きます。

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そしてチェーンがかかった、いかにも立入禁止ですよと言わんばかりの道に入っていきます。

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空が明るく見えてくるころ

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拝殿の横にたどり着きます。
拝殿の横?

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そう、本来はここは海から参拝する神社なのです。

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海に向かって参道が伸びます。

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潮が引いて石畳が現れています。

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強風のためか、しめ縄が片方落ちていました。

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神功皇后の船がこの沖に停泊中、碇を海に落としてしまいます。
それを安曇磯良が海に潜って拾ってくるというエピソードがあります。

また皇后の船は2回目の嵐に遭遇。
船が破損しますが、磯良が大きなアワビを貼り付けて応急処置したという話もあるようです。

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それらの話は、磯良はここに皇后の船を停泊させ、この隠された安曇の聖地にこっそりと、神功皇后を連れてきたことを示しているのではないでしょうか。
断崖の岬に、このような場所が隠れていたと知れば皇后は、驚き、大いに喜ばれたことかと思います。

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さて、拝殿に戻ってきました。

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最後の鳥居には釣竿のような竹がくくりつけられてました。

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御祭神は「表津少童命」「中津少童命」「底津少童命」のワタツミの三神です。

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これは安曇族が祀る神で、志賀海神社などでも祀られています。

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社のある場所以外は深い杜に包まれています。
ただ波の音があるばかり。

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ふいに隅の方に石が積み上げられているのを見つけました。

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しめ縄で囲ってあります。

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なんとなくですが、狛犬のように見えました。

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杜の先からは韓国まで続く海が見渡せました。

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【古津麻神社】
対馬を縦断する382号線の北端から程近いところにある「古津麻神社」(こつまじんじゃ)。

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皇后一行が立ち寄った場所と伝わります。

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御祭神は「瀛津島姫命」「湍津島姫命」「市杵島姫命」の宗像三女神です。

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奥に本殿と思しき小さな祠がありました。

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【鰐浦】
ついに神功皇后の大一団は対馬最北の湊、「鰐浦」(わにうら)にたどり着きます。

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そこにある「本宮神社」(もとみやじんじゃ)は日本書紀に、神功皇后が出港した「和珥津」(わにのつ)として描かれています。

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「和珥津」へは神功皇后率いる本軍はもとより、鐘崎から宗像沖ノ島を経てやってきた別軍など、様々な港から出港した軍が次々集結してきます。

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その総数は3270隻であると「壱岐名勝図誌」に書いてあります。
兵の総数は6万5千人、それはこの海を埋め尽くすほどの数だったに違いありません。

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鰐浦の展望台からは天気の良い日は遠く韓国が見えるということです。

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