風浪宮〜神功皇后紀 29

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「磯良殿の具合はいかがでしょうか」

武内宿禰は屋敷を世話してもらった水沼の君に問いかけた。

「気丈にされてはおりますが、体の衰弱は著しくございます。」

神功皇后の皇軍は三韓征伐で壱岐からの帰路、嵐に遭った。
兵たちは散り散りになり、高波に命を落とした者もいた。
武内宿禰らは島原沖まで流されしまったが、磯良率いる安曇族の舵取りで難を逃れ、なんとか大川までたどり着くことができた。
そこはかつて山門の田油津姫を征伐した後、佐賀に向けて出港した湊で、宗像三女神を奉祀する水沼君が統治する国だ。
今、武内宿禰と安曇磯良たちは水沼君の屋敷の一つにて養生していた。

この度の激しい航海で、海神の生き神と称えられた安曇磯良もさすがに命を削っていた。
多くの船団を朝鮮半島まで導き、身重の神功皇后を無事筑紫まで凱旋させなければならない。
その重責は慣れた海でも、老体に重く緊張を与え続けた。
そして嵐に遭う。

「そろそろ姫様の元へ向いなされ。
あのお方には神のご加護がついてござれば、無事に筑紫へお着きであろう。
ご出産までもさほど日はありますまい。
そこに武内殿がおらねば、姫様も心細かろう。」

床に伏したままの安曇磯良は、様子を伺いに来た武内宿禰に向けて言う。

「武内よ、姫様は稀有な方なのだ。
あれほど純真で無垢な方は他にはおらん。
あの方は真に神に愛されておる。
お主は生涯をかけて、姫様を守って行かねばならんのだ。」

「しかし姫はきっと磯良殿にも会いたがっております。
一緒に橿日の宮へ帰りましょうぞ。」

武内宿禰は、弱々しくひび割れた老人の手を取った。
が、その手はあまりに力弱かった。

「それは無理というものじゃ、自分の体は自分が一番よう分かっとる。
姫様は我ら一族の行く末を約束してくださった、それだけで儂は満足じゃ。
きっと大和の国々に至り、我が安曇の一族は繁栄することじゃろう。」

そして少しの間の後、付け加える。

「それにお主と世田の間に子が成れば、この筑紫を大いに治めるはずじゃ。」

武内宿禰は心が熱くなった。

「私めも、姫様の御子を無事、皇位にお立てした後は、必ずや筑紫へ戻ってまいります。」

「うむ、しかと頼んだぞ。」

握られた手は、しばらく離れることはなかった。

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【風浪宮】
筑後川が有明海に注ぐ河口、大川市に「風浪宮」(ふうろうぐう)があります。
ここに三韓征伐の帰路、神功皇后が立ち寄ったと伝わっています。

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しかし神功皇后は姪浜方面に着港したようです。
皇后らの軍船団は壱岐を出たところで嵐に遭います。
その時、各船は散り散りになり、それぞれ各地の湊にたどり着いたようです。

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この時、武内宿禰と安曇磯良の乗った船は島原沖に漂着し、有明海を経て大川に至ります。

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この武内宿禰と安曇磯良の話を語り継ぐうちに神功皇后も絡んだ話に膨らんだのではないかと思われます。

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拝殿の横には巨大な、閻魔大王かと思える木像が安置しています。
これこそが安曇磯良の像です。
体には貝や海藻が取り付き、亀が寄り添っています。
そして手には干珠満珠の宝珠を持っています。

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風浪宮は皇后が安曇磯良を斎主として「少童命」(わたつみのみこと)を祀らせたと云います。

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境内にはひときわ大きな楠があります。

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これは「白鷺の楠」と呼ばれています。

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幹周りだけでも8mある樹齢2千年の大楠は、神功皇后が立ち寄った時に白鷺が降り立った木と伝わります。
皇后はそれを少童命の化身と見て、武内宿禰に仮宮を築かせ、磯良に祀らせました。

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少童命とは綿津見命であり、安曇族が奉祀する祖神です。
しかし安曇族の生き神とも云われる安曇磯良がなぜこの地に留まって祭祀を続けたのでしょうか。

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安曇磯良は対馬・壱岐から志賀島の海域を治めていた長です。
しかも風浪宮に残る磯良には付き従う八人の海士(あま)がいましたが、そのうち七人が一緒にここへ残っています。

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志賀島へは戻らなくてよかったのでしょうか。
いや、たぶん戻れなかったのです。

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風浪宮の境内を一旦出た先に幼稚園があり、その敷地内に「磯良塚」というものがあります。

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赤い社は「磯良丸神社」といい、御祭神はもちろん安曇磯良です。
その横に大きな蓋状の石があります。

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「磯良塚」です。
別名「たもと石」と呼ばれ、神功皇后が三韓から帰還の折、袂に入れて持ち帰ったものが年を経て巨大化したと伝えられます。

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しかし明治36年にこの巨石の発掘調査を行いますが、その時、甕(かめ)に埋葬された人骨が出てきたそうです。
恐ろしさのあまり、甕を元に戻し土をかぶせたということです。

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つまりこの巨石は「支石墓」(ドルメン)だったのではないかと考えられ、その主こそ安曇磯良だろうと推測されています。

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この辺りはたぶん、宗像三女神を奉祀していた水沼君の領土だったと思います。

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が同じ海神を祀る伝説の人、安曇磯良の激しい航海を成し遂げ、
そしてついに衰弱するその老体を見て、水沼君はこの聖地を献上したのではないでしょうか。

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そして僅かに残った命を、磯良はここに奉祀したのかもしれません。

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そしてそんな磯良を支えるために、七人の海士はここに残ることを決意し、
一人だけは志賀島へと帰っていて故郷を守っていったのではないでしょうか。

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風浪宮の境内を散策していると、様々な境内社があります。

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月読神社を過ぎたあたりに玉垣で囲まれた杜がありました。

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よく見ると竹林になっています。
竹といえば武内宿禰が各地で植えています。

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禁足の聖地となっているそこは、武内宿禰が安曇磯良の偉大さをたたえ、そこに植えたのかもしれません。

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【大善寺玉垂宮】
久留米大善寺の筑後川に近いところに、「大善寺玉垂宮」(だいぜんじたまたれぐう)があります。

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辺鄙な場所にあるこの神社が意外に人に知られるのは「鬼夜の火祭り」という祭りがあるからでしょう。

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この大善寺玉垂宮は久留米「高良大社」の元宮にあたるそうです。

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現在の御祭神は「高良玉垂命」となっています。

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現在の、と書いたのは、本来の御祭神は違ったらしいからです。

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高良玉垂命は武内宿禰と混同されていますから、主祭神は武内宿禰という説もあるようです。

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境内には大きな御神木がありますが、神功皇后の船を高良玉垂命がこの木につないだと云います。

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この舵取りをしたのが安曇磯良だったでしょうから、高良玉垂命は安曇磯良だったと考えることができます。

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ところが氏子の間には、ここの神様は元は女性の神様だったと伝わっているそうです。

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この辺りは水沼君の領地でしたから、かつては宗像三女神がまつられていたのかもしれません。

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水沼とは、月の霊水が聖なる泉に降り注ぐ真夜中に神と人間を取り持つ巫女のことだそうです。

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安曇族が水沼族から強引にこの聖地を奪った、とは僕には思えません。

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おそらくそこは、先に述べたように水沼君から安曇磯良に捧げられたのだと、思います。

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さて、ここで行われる「鬼夜の火祭り」は壮大な火祭りだといいます。

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しかしその本質は、私たちの罪穢れを引き受けた「鬼=神」に川で禊をしていただくという祓いの儀式だそうです。

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僕らの罪穢れを背負って清めてくれる、心優しい水の神の痕跡が、ここにありました。

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