武雄神社・武雄の大楠

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佐賀県武雄市に有名な大楠があります。
その霊木をめぐり、太古の歴史に思いを馳せてみます。

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「塚崎の大楠」は武雄市文化会館にほど近いところにあります。

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落雷により上部が折れていますが、幹回り13.6mの巨体は往年の風格を十分に今に伝えます。

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中は空洞になっており、天を仰ぐと、緑の葉が見えました。

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「川古の大楠」は幹回り21m、樹高25mで、全国5番目の大きさを誇るといいます。

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奈良時代に僧「行基」が幹に2.4mの観音像を彫ったとされますが、今は像が剥がれ落ち、隣の観音堂に安置されているそうです。

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神功皇后の御船が山になったと伝わる御船山のふもとに、「武雄神社」があります。
その境内の奥地にある大楠は、とても風格があり、見るものに何かを感じさせる老木です。

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武雄神社の鳥居をくぐる前に、

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向かいの駐車場に目を向けます。

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そこにあるのは「下ノ宮」です。
武内宿禰の子とされる「平群木兎宿禰」(へぐりづくすくね)を祀ります。

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その横には「射手塚」(いてづか)という石が鎮座します。
10月23日に流鏑馬が奉納されていますが、かつては射手が落馬すると割腹して詫びたとあります。
これはその射手を弔った塚だと云うことです。

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武雄神社境内へ足を踏み入れます。

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心字池を横目に、

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侘びた、肥前鳥居と神明鳥居の折衷型の鳥居を抜けると、

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まるで城壁のような石垣を目にします。

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その横にあるのは、見事な「夫婦檜」です。

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境内に佇む2本の夫婦檜(ひのき)は、恋愛成就や各種縁結びを求めて、たくさんの参拝者が訪れています。

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2本のヒノキの根本で結ばれ、また枝も夫婦が手をつないでるかのように繋がれています。

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境内授与所にて販売されている「願掛け宝来鈴」を結びつけて、祈願すると良いそうです。

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また夫婦檜の奥には「荒神社」がありました。

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さて、石垣をぐるりと周り、本殿へと向かいます。

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創建735年と云われる「武雄神社」は白塗りで煌びやかな拝殿です。

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主祭神は「武内宿祢」(たけのうちすくね)をはじめ、武内宿禰の父とされる「武雄心命」(たけおこころのみこと)の他、「仲哀天皇」、「神功皇后」「応神天皇」と神功皇后伝承でおなじみの方々です。

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「武内宿祢」は記紀によると、神功皇后のほか天皇5代に仕え、その寿命は360年とも云われる、無茶苦茶な人物です。

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不老不死とも呼べるその長寿にあやかって「不老水」なる井戸も、ゆかりの地に点在しています。

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しかしそれは簡単な、記紀のカラクリによるものでした。

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つまり武内宿禰とは役職名であり、個人名ではなかったのです。
古来、「宿禰」とは物部王家の重鎮に与えられる称号でした。
ちなみに「臣」とは本来、出雲王家の血筋に与えられる称号だったと云います。

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ではでは、霊木「武雄の大楠」に向かいたいと思いますが、そこに小さな社がありました。

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「塩釜神社」と「城山稲荷神社」です。

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塩釜神社は、俗に「塩釜さん」と云われ、鍋島茂義公の時、宮城県塩釜市の総本社に勧請し奉斎したのであろうと云うことです。
鹽竈の神は謎の多い神だと云います。

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城山は御船山の別名であり、安政5年(1858年)に勧請し「倉稲魂神」「猿田彦命」「大宮女命」の三神に、摂社の「田中大神」「四大神」の二神を加え稲荷五社大明神と称し祀られています。

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御神木の扁額がかかる鳥居をくぐります。

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しっとりとした道を歩きます。

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竹林が見えてくると、その先に、

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御神木が姿を現します。

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この風格、この威厳。
高さ27m、根回り26m、樹齢3000年を超えるという霊木です。

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幹は空洞になっており、

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12畳あると云う根元の空間には、なぜか「天神様」(菅原道真公)が祀られています。
以前はこの穴に入ることもできたようですが、御神木保護のため、現在は一定の範囲を御神域として立ち入りが禁じられています。

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が、むしろ少し離れているくらいが、この霊気を感じるにはちょうど良いかもしれません。

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さて謎の武内宿禰、その家系図を日本書紀、および古事記では次のように記します。

孝元天皇

彦太忍信命(比古布都押之信命)

屋主忍男武雄心命(古事記なし)=山下影姫

武内宿禰 / 甘美内宿禰

武雄心は紀国の姫「山下影姫」を后とし、「武内宿禰」「甘美内宿禰」の兄弟を儲けます。
武内宿禰はその子に、

波多八代宿禰→[波多氏]
許勢小柄宿禰→[巨勢氏]
石川宿禰→[蘇我氏]
平群木菟宿禰→[平群氏]
紀角宿禰→[紀氏]
久米能摩伊刀比売
怒能伊呂比売
葛城襲津彦→[葛城氏]
若子宿禰

と、錚々たる豪族の祖を儲けたことになっています。

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ここ、武雄神社の祭神由緒も、この記紀の伝承に則って記されていました。

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しかし、富家伝承が伝えるところによると、武内宿禰とは、紀国の国造「高倉下」(たかくらじ)の子孫、「武内大田根」(武内彦)が物部王家重鎮の称号「宿禰」を得たことに始まると記しています。
高倉下は出雲での徐福の子、「五十猛」(イソタケ / 香語山王)と出雲族「大屋姫」との間に生まれた子です。

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高倉下の末に「山下影姫」がおり、九州物部イニエ王(崇神天皇)の重鎮「彦布都押」(ひこふつおし)との間に生まれた子が武内大田根です。
若くして才能溢れる大田根は、イニエ王に高く評価されて活躍しますが、イニエ王が早逝すると、王の後を継いだ宇佐の豊玉姫は、息子の豊彦(豊鍬入彦 /
ウガヤフキアエズ)より偉くなるのを恐れ、これを疎みます。

魏への使者として向かった大田根は、期待した官位を何も授かることなく、帰国します。
これは豊玉姫の策略によるもので、先に使者として向かった息子の豊彦や天日槍の子孫「田道間守」には「中朗将」の官位を得させました。

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ショックを受けた大田根は、イニエ王の息子イクメ王に反旗を翻して大和の磯城王朝側に就き、イクメ王と戦います。
が、この戦に破れた大田根は、出雲王家に保護を求め出雲に向かいます。
出雲王家に守られる形になった大田根は、出雲王家の姫を後妻に迎え、出雲王家の称号「臣」を名乗ります。
やがて「武内臣波多」を儲けた大田根は、松江の意宇の森で余生を送り亡くなりました。
遺体は奥出雲の神原遺跡の古墳に葬られたとありますが、それを指揮したのは弟の「甘美内」(うましうち)でした。

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波多は熊本の八代に移住し、武内臣八代を名乗ります。
八代の娘に「久米マイト姫」がおり、日向に移住して「襲津彦」(そつひこ)を産みました。
襲津彦は宮崎西都原の王となり、「日向襲津彦」と呼ばれるようになります。
その襲津彦こそが、神功皇后の伝承でキーマンとなる武内宿禰です。
つまり記紀は、武内大田根から、そのひ孫である日向襲津彦王までを含めて、一人の武内宿禰と呼ばせているのです。

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ここで、武雄神社の祭神について問題が残るわけですが、
主祭神の武内宿禰は、本来「武内大田根」であったが、後に神功皇后との縁により「襲津彦」に置き換えられた思われます。
では父とされる「武雄心」とは誰なのか。
それはおそらく妻を「山下影姫」としていることから物部の重鎮「彦布都押」のことだろうと、僕は推察するのです。

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