磐船神社:八雲ニ散ル花 51

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「田道間守はまだ来ないのか」

イクメ王は苛立っていた。
東征の中心、イクメ王の軍勢は瀬戸内を通って、淀川河口に到着した。
当時は入り江が深く、河内国まで海から船で行けた。
イクメ軍は河内国に上陸したのち、日下に進軍したが、そこから東には山が壁のように南北に連なっていた。

イクメ軍は、その山地を占領したが、そこから先にはなかなか進むことができなかった。
山地の東には、狭穂彦が大軍を率いて、頑強に抵抗したからである。
イクメ王率いる物部軍の兵士達は、生駒山から北方に陣をとるしかなかった。

この時、東征してきた物部軍に対抗した大和も、一枚岩ではなかった。
奈良盆地の東端、の和邇地区に彦道主王の軍がいたが、彼と狭穂彦は、大和の大王の座を巡って争っていた。
東に彦道主軍、南に狭穂彦軍、そして北にイクメ軍が三つ巴の状態で接し、戦は膠着状態に陥っていた。

「今の三輪の姫巫女は確か、狭穂彦の妹、狭穂姫だったな。誰か狭穂姫に連絡が取れるものはおるか。」

イクメは狭穂姫を味方につけ、狭穂彦と和解することが、大和を支配する近道だと考えた。

「はい、私めに心当たりがございます。」

そう答えたのは、先々代の大王オオヒビの娘、御真津姫だった。
彼女は物部東征軍が優勢と見て、イクメ軍に加わっていた。
これにイクメは大いに喜び、大王の次の位を授けている。

「私が三輪の登美家に話をしてみましょう。彼らなら狭穂姫を説得できるはずです。」

イクメは御真津姫にこれを認め託した。
この案が大和の戦局を、大きく変えていくことになった。

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大阪府交野市、生駒山地を抜けた北部の麓に、天孫降臨の地「磐船神社」(いわふねじんじゃ)があります。

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瀬戸内海を進軍してきたイクメ王軍は大阪湾から淀川を北上し、日下へ上陸しました。
そこへ南北に連なる山があり、イクメ王はその山で足止めを食ったことから、「生駒山」と名付けられたと云います。

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生駒山を越えたイクメ軍は、大和の狭穂彦の大軍と対峙し、大和東部の和邇地区を宮とする彦道主王軍とも相まって、長い間膠着状態が続いたそうです。
その際にイクメ軍が陣を敷いた場所が、この磐船神社がある交野市一帯でした。

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磐船神社は、そこに鎮座する奇岩「岩舟」とイクメ王がこの地を通ったことにちなみ、物部氏の祖「饒速日」が岩舟に乗って天から大和に降りたったと神話化され、記紀にも記されました。

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当社の祭神は饒速日ですが、その名は「天照国照彦天火明奇玉饒速日命」(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)と、出雲で名乗った「ホアカリ」と佐賀で名乗った「ニギハヤヒ」をくっつけた長い名前となっています。
彼はいわゆる、渡来人の「徐福」のことでした。
ちなみに徐福は記紀にスサノオとも呼ばれています。

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さて、その岩舟と呼ばれた奇岩が姿を現します。
饒速日はこの「天の磐船」というUFO的乗り物に乗って地上に降り立ったと伝えられています。

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その磐船が拝殿を覆うようにかぶさっています。

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膠着状態が続くイクメ王軍でしたが、やがて転機がもたらされます。
第1次東征で来た熊野系の物部氏関係者が徐々にイクメ王軍に参加してきますが、その中に先々代の大和大王「大日々」(オオヒビ)の娘「御真津姫」(ミマツヒメ)がいたのです。

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イクメ王は大層喜び、彼女に王の次の位を与えたと云います。
「魏書」に大和に到着したイクメ王のことが長官として書かれていますが、次の官を「弥馬升」といい、それがミマツ姫のことであるそうです。

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大和では狭穂彦の妹、狭穂姫が三輪山の姫巫女を務めていました。
イクメ王は大和の支配に、三輪山の姫巫女を味方に付けるのが有利であると考えます。
そして狭穂姫と組むことは、その兄の狭穂彦と休戦することを意味していました。
狭穂姫を味方につけるために、御真津姫に連絡を頼んだのが功を奏します。
御真津姫は三輪山の豪族「登美家」を味方に付け、結果イクメ王は狭穂姫と組むことに成功するのです。

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狭穂彦とも休戦を取り付けたイクメ王軍に、田和山神殿を破壊して駆けつけた田道間守の援軍がやってきます。
これで第2次東征軍は優勢となり、ついにイクメは大和入りを果たすのです。

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ところで、この磐船神社の目玉は拝殿の奥にある「岩窟めぐり」です。
このような穴からスタートし、約30分ほど、命がけのアドベンチャーを行います。
「命がけ」とは決して比喩ではなく、実際にここで、命を落とされた方がいました。
当時42歳の女性です。
以来岩窟めぐりは、一時期閉鎖されていましたが、再開されたそうです。
しかし撮影は禁止、一人だけでの岩窟めぐりも禁止と、様々な制約を設けられたそうです。
僕は時間の都合もあって、岩窟めぐりはしませんでしたが、到達した先には「天の岩戸」があるらしく、興味が湧きます。
山間を流れる川も気持ち良い場所なので、時間があると立ち寄っても良い場所だと思います。

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2件のコメント 追加

  1. ブサイク王 より:

    いつも楽しく拝見させていただいています。

    まだ不幸な事故がおこる前に訪れたことがあります。当時は私も勉強不足で富家伝承も知らず、長脛彦の痕跡を辿って生駒のあたりを訪ねました。
    岩窟めぐりは私も体験しましたが、かなりハードであったと記憶しています。
    岩窟めぐりの先に「登美毘古大神」と文字のある石碑があったのを覚えています。大毘古の聖地でもあったのかもしれません。

    あと生駒市立総合公園の近くの山中に饒速日命墳墓があります。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      こんにちは、コメントありがとうございます。
      僕が訪れた時は、一人での立ち入りは禁止とあって、あきらめて帰りました。
      登美毘古大神の石碑、気になりますね。

      僕も大元出版の本を読み漁ってから、すでに訪れた場所も含めてブログを編集し直しているところです。
      富家の話が全てでもないとは思っていますが、実際に現地に足を伸ばしてみると、なるほど理にかなっていると思うことも多いです。
      とりあえず伝承を道しるべに、歩いてみるのは楽しいですね。

      まだまだ奈良を旅する予定もありますので、饒速日命墳墓も訪ねてみようと思います。
      情報ありがとうございました!

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