春日大社 前編:八雲ニ散ル花 71

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奈良で最も有名な神社のひとつである「春日大社」、
その姿はとても優美で、広大な境内に囲まれた社殿は古から続く聖地としての風格を感じさせます。

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春日大社といえば「鹿」。

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鹿は神鹿として保護され、境内一帯に多く生息しています。

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春日公園、春日大社に来たなら、鹿せんべいを買いたくなります。

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春日大社の社伝によると、称徳天皇のとき(768年)、鹿島神宮の「武甕槌命」(たけみかづちのみこと)を春日大社の祭神に勧請しました。
その時、武甕槌命は白鹿に乗って御蓋山(みかさやま / 三笠山・春日山)にやってきたので、鹿を神鹿として大切に保護したと云います。

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また国譲神話の時、武甕槌命のところに「天迦久神」(あめのかぐのかみ)がやってきて、「大国主命に、出雲国を譲るよう説得しなさい」と天照大神の伝言を伝えました。
この天迦久神は鹿の神霊だったので、鹿島神宮の神使は鹿となったそうです。

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春日大社の背後にある御蓋山は平城京の水源にあたり、山中に雷神・水神の鳴雷社が祀られているそうです。
御蓋山は神域として、承和八年より狩猟・伐木が禁止され、入山が禁止されています。

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春日大社の一之鳥居は「日本三大木造鳥居」のひとつとされています。

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他は「厳島神社」と「氣比神宮」の大鳥居となるのですが、その二つに比べると正直なところ、やや見劣りがします。

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春日大社は、全国に約1000社ある春日神社の総本社で、「中臣氏」(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設された神社となっています。

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社伝では、「藤原永手」が鹿島の「武甕槌命」香取の「経津主命」と、枚岡神社に祀られていた「天児屋根命」「比売神」を併せ、四殿の社殿を造営したのをもって創祀としています。

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参道に入ると、一気に重い、しっとりとした空気に包まれます。
そこに並ぶ石灯籠の数は約2000基ほどあるといい、これらは様々な人々が祈り願い、献灯したものです。

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藤原氏の祖「鎌足」は、以前、中臣家を名のっていました。
中臣家は天小屋根を祖神とする辰韓からの渡来人だと考えられているそうです。
それで藤原家を韓国渡来人の子孫と誤解する人がいるそうですが、それは間違いのようです。

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鎌足は中臣御食子の養子になりましたが、中臣家は宮中祭祀の家柄なので、天皇家に近づくために利用したと考えられています。
藤原家は、逆のぼれば大和王朝初代大王「天村雲」の孫「神八井耳」の子孫だと云うことで、支那秦国の渡来人「海部家」と「出雲王家」の血を引いています。
藤原鎌足は、当初「鎌子」と呼ばれていましたが、大化5年の「石川臣山田麿」粛清の後、鎌足に変えました。
天智8年に、天智大王から「藤原」の姓を給わりますが、この藤原姓は、鎌足の子孫だけが使うことを許され、他の中臣家は使うことができませんでした。

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中大兄皇子が即位し、天智大王となった時、長らく黙々と兄に協力してきた大海人皇子が、皇太弟となりました。
皇太弟は「白村江の戦い」の敗北から、わが国の政治には、唐の律令制度のような改革が必要だと考えました。
それを兄の天智大王に話しますが、相手にされなかったと云います。

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藤原鎌足が56才で他界した頃、宮廷では、つぎの大王は大海人皇子だと考えられていました。
しかし、天智大王は息子の「大友皇子」を跡継ぎにしたいと思い始めていたのです。
ある時、天智大王は体の不調を理由に床に伏し、弟君大海人を呼び寄せました。
大海人は見舞いに行こうと門を出た時、家臣の山辺安麻呂が「武官の動きが怪しいから、用心してください」と囁きました。
意図を感じ取った大海人は、ただちに毛髪を剃り、僧衣を身につけて出家しました。
それを見送った高官は、「トラに翼をつけて檻から放ったようなものだ」と言ったそうです。

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その2ヶ月後、事件が起きます。
671年(天智10年)12月3日、天智大王は馬に乗り、藤原鎌足の三回忌の仏事に出かけました。
その途上、木幡山の細道で遭難し、ふたたび帰京することはなかったのです。
家臣は永く山林を探しましたが、だだ大王が履かれていた沓だけが残されていたと云います。
これはつまり、天智大王は、野に放たれた翼を持ったトラに殺されたのだろう、と云うことです。

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長い参道をずっと歩いていきます。

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手水舎も鹿のデザインが施されています。

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手水舎の手前に「祓戸神社」がありました。

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本殿参拝の前に、ここで穢れを祓ってもらいます。

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祓戸神社の前には、なにやら趣のある灯篭があります。

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「祓戸型燈籠」と呼ばれ、「春日七燈籠」のひとつだそうです。

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672年、壬申の乱(じんしんのらん)が始まりました。
これは天智天皇の太子「大友皇子」(弘文天皇)に対し、皇弟「大海人皇子」(天武天皇)が地方豪族を味方に付けて起こした反乱でした。
内乱は壮絶を極めたと云いますが、やがて「甥」を「叔父」が打ち負かし、大海人皇子が勝利します。
大海人皇子はその後、明日香の島ノ宮に戻り、浄御原京で即位して、天武天皇となったのです。

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古代大和には、「天皇」という言葉はありませんでした。
天皇の称号を初めに使ったのは天武だと云います。
壬申の乱を平定し、実力で日本の王者となった天武は、今までと異なる支配者の名称を使うことを考えました。
それまで使われていた「大王」と云う称号は、全国を国造によって間接的に支配する、一豪族の王のようなイメージでした。
これに対し、律令制の中央集権国家を目指す天武は、「天皇」の文字に、その思いを持たせたのです。

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次に天武が取り組んだのが、記紀の前身とされる「帝紀」の作成でした。
天武は真実に近い古代史を書かせる方針で、その編集委員に各王朝の子孫を選出しました。
しかし帝紀の編集作業は困難がつきまとったと云います。

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それは真実の歴史は、新王朝が前王朝を亡ぼした歴史だったからです。
前王朝を攻撃した新王朝は、どうしても悪く見えました。
つまり過去の事件記述に際し、当時の敵味方によって利害が異なり、表現に対する衝突が続きました。
この対立の中で、各委員は自分の先祖王朝に有利な、史書の下書きを書いたのです。

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結局、各王朝史を一つにまとめる事はできず、ばらばらの下書き書類が残されたまま、「帝紀編集」という大プロジェクトは休止状態になったのです。

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