須久岡本遺跡・板付遺跡

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旅欲も萎える暑過ぎる夏、そういえば家の近所にも遺跡があったわーと、岡本遺跡を訪ねてみました。
15分くらいチョロっと見て蕎麦でも食いに行くか~と立ち寄りましたが、気づけば2時間半も滞在してました。
もちろんその日、蕎麦にはありつけなかったのです。

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余談ですが、岡本遺跡の奥には、最近注目を浴びているケーキショップ「パティスリー・ルイ」さんがあります。

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住宅街の中の遺跡の奥にあるという微妙な立地ですが、とても人気なのだとか。
なるほど陳列されたケーキを見れば、まるで宝石のように丁寧に作られた商品が。
これはインスタ映えます。
味も濃厚かつ上品でした。
イートインもありますよー。

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さて、地元民も知らない当遺跡、僕も20年前くらいに偶然見つけた場所でした。
細い車道を進んだ住宅街の中にあり、こんなところに立派な遺跡があったもんだと、当時感心したものです。

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で、久しぶりに訪れてみると、なんと立派な資料館ができていました。

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月曜も開いているようで、ありがたく中に入ってみると、なんとこの日は館内のリニューアル準備中でした。
がっくりしていると、ボランティアのおじさんという方が詳しいお話を聞かせてくれるというので、まあ聴いてみるかとお誘いに乗ってみました。
するとその話の面白いこと。
つい長時間、まるで浦島太郎時間を過ごすこととなったのです。

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岡本遺跡は福岡県春日市にある遺跡で、小高い丘を中心に、116基以上の甕棺墓群、木棺墓、中期後半の祭祀遺構など、あわせて約300基の墓壙が確認されたと云います。

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発掘現場のいくつかは、ドーム状の施設の中でいつでも見ることができます。

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そこは発掘当時の状況を再現してありました。
遺体が入れられた甕棺は、大人用のものから、小ぶりな子供用のものもあります。

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また甕棺は階層的に埋められており、埋め立てを繰り返して丘になって行ったことを物語っています。

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つまりここは集合墓地であり、祭祀場なども併設されていたようです。

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ドームの横には住居跡もありました。

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明治32年(1899年)、当地の北西200mのところで、歴史的な発見がありました。
土地所有者の吉村源次郎氏が家屋の新築のために脇にある長さ3.60m、幅2.0m、厚さ30.3cmの「横石」と、その側方に立つ、高さ1.20m、幅1.50m、厚さ40cmの「立石」を動かして掘ったところ、「合口甕棺」があり、その内外から種々の遺物が出土しました。

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甕棺の中の遺体は、完全に風化して何も残って無かったそうです。
しかし遺体と一緒に収められた数々の品に、学者たちは騒然となったと云います。

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そこには様々な武具とともに、

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漢国から送られたとされる銅鏡が多数発見されました。

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これらによりこの墓に眠る人物は、紀元0年当時、勢力を持っていた王であると結論付けされたそうです。

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銅は酸化すると緑青を生じて青くなったり黒ずんできますが、できたての物は、このレプリカのように黄金に輝いています。
それらはこの神々しさから、祭祀に使われたのであろうと推察されています。

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では、この墓の王は誰なのか?
それは現在、志賀島で発見された金印の奴国王の祖父にあたる人物だったのではないかと考えられているようです。

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今から2,000年ほど昔のこと、弥生時代の福岡平野一帯は「奴国」(なこく)と呼ばれる国でした。

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狩猟を中心とした縄文時代は、約2,300年前に日本列島で水稲耕作が受け入れられたことによって終わりをむかえ、稲作や金属の使用など新しい文化が開花する弥生時代へと移りかわります。

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この新技術の流入には、当時の中国「秦」から渡来した道士「徐福」が一役買っていると、富王家の伝承は語っています。
徐福は2度にわたり日本へ渡来しており、その際、合わせて5000人の童男童女と技術者を連れて出航したと云います。

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徐福は最終的に佐賀平野にたどり着きますが、5000人の同行者全てが徐福と行動を共にできたわけではありません。
激しい玄海の海で散り散りになり、ある者は海の藻屑と消え、ある者は日本列島の各地にたどり着いたと云います。

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そのはぐれた一部の人達が博多湾にたどり着き、開拓した国が奴国だったのではないでしょうか。
奴国は、大陸に向かう天然の良港「博多湾」という地の利により、いち早く中国や韓半島から進んだ文化を取り入れて発展した先進地域でした。

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岡本遺跡から北にほど近い須久では、鉄器・銅器・ガラス製品の製造工場遺跡が多数発見されています。

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春日北小学校を中心に300mの範囲に、それらの工場跡が集中して発見されており、当校下には奴国の王宮跡が眠っているのではないかと、ボランティアのおじさんは熱く語っておられました。

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鉄・銅・ガラスの製造技術は、当時のハイテクであり、それらの鋳型が多数発見されているというのは貴重なことなのだそうです。

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ボランティアのおじさんは、手作りの歴史年表や資料で、面白く当時の歴史を物語ってくれます。
その年表の流れは、およそ富王家が伝えるものと類似していました。

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西暦57年、奴国の王は、中国・漢の光武帝に使いを送りました。
これを喜んだ光武帝は「漢委奴国王」(かんのわのなこくおう)の金印を与え、正式に奴国の王を認めたと、古代中国の歴史書『後漢書』「東夷伝」に記されています。
つまり奴国は、日本列島の国の中で初めて世界の歴史書に名を刻んだ国と言えるのです。

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ちなみに館内の写真は後日、リニューアルオープン後に訪れて撮影したものです。
さらにエキサイトしたおじさんの話は、「水城システム」にまで及びました。
その実はすごかった遺跡の話は、また次回記したいと思います。

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奴国の丘歴史資料館で話に出てきた「板付遺跡」が気になったので、立ち寄ってみました。

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そこにも立派な資料館が建っています。

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意外にも素晴らしい内容の資料館が多数、無料開放されていることに驚きます。

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しかし興味のない人にとっては関心のない建物。
この日もお客は僕一人です。

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管理人の方が一人いて、広い館内には冷え冷えと空調が効いています。

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貴重な遺跡を管理するために、空調施設は必要でしょうが、これら経費が全て税金で賄われていると思うと複雑です。

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板付遺跡は、福岡平野の中央よりやや東寄りに位置し、御笠川と諸岡川に狭まれた標高12mの低い台地を中心として、その東西の沖積地を含めた広大な遺跡となっています。

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遺跡は縄文時代晩期から弥生時代までを含む、複合遺跡です。

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集落も再現されていました。

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台地上には幅2~4m、深さ約2~3mの断面Ⅴ字形の溝が、東西約80m、南北約110mの楕円形にめぐらされています。

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その環溝の内外には、米やその他の食料を貯蔵するための竪穴や住居が多数掘り込まれています。

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板付遺跡は集落、墓地、水田が一体となって把握できる数少ない遺跡であるとのこと。

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長くこの地に住んでいながら、ほんとこれらの遺跡について、僕は無知でした。

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板付遺跡は、我が国で最古の稲作集落跡のひとつということで、とても貴重なのだとか。

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敷地内では復元された水田で、青々と稲が育っていました。

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