当ブログにも度々ご来訪いただいています「nakagawa様」のブログで、以前紹介されていた三養基郡みやき町天建寺にある「葛城神社」が気になり、訪ねてみました。
そばに筑後川流れる、田園と集落広がる中に、ポツンとある神社。
奈良県御所市の「一言主神社」と同神を祀る当社は、その社名からも一言主神社から勧請されたものと思われます。
秀吉の太閤検地までは広大な社領を有していたとされる当社。
ちいさな太鼓橋が、当時の雅さをわずかに思わせます。
御所市の一言主神社といえば、東出雲王家のクシヒカタが、奈良へ進出し当地に亡き父を祀った聖地。
当然、「一言主」とは「事代主」のことです。
事代主とは「言代主」のことで、名の由来は「武力ではなく、言葉をもって人々を統治した」とされることにあります。
「古事記」には、雄略天皇が葛城山で出会った神が一言主神であるとし、「悪いことも一言、善いことも一言で言い放つ神。葛城の一言主の大神である」と名乗ると、天皇は恐れおののき、大御刀・弓矢・百干の衣服を差し出したと記しています。
ところが「日本書紀」によると、雄略天皇と一言主神はその場で意気投合し、大いに狩りを楽しんだと記されています。
つまり、天皇と神は対等の立場で書かれているという事です。
さらに「続日本紀」に至っては、雄略天皇は、無礼があったとして一言主神を土佐へ流刑に処したとあります。
また時代が下り、平安時代の「日本霊異記」や「今昔物語集」では、一言主神は役行者(役小角)によって金峰山・葛城山の間に橋を架けるために使役され、いつまでたっても橋が架からないと役行者の怒りにふれ、谷間に呪縛された、とまで記されます。
時代によって貶められる傾向にあった一言主神。
僕が気になったのは、向拝に付けられた、この飾り物です。
一見カニのように見えましたが、よく見ると、これは蜘蛛ではないでしょうか。
宝珠に後光が差しているようにも見えますが。
大和王朝時代において、大王(天皇)へ恭順を表明しない土着の民などを「土蜘蛛」と呼ぶことがありました。
そうした民を征伐し、遺体を埋めた場所とされる「蜘蛛塚」というものが、御所市の葛城一言主神社の本殿そばに、樹木に隠されるように存在しています。
僕はこの蜘蛛塚に眠るのは、出雲王家を崇敬し、東征してきた物部族を嫌った「大彦」の一族ではなかったかと推察します。
大彦は葛城地区を基盤とし、「中曽大根彦」と呼ばれ、記紀に神武に敵対した「ナガスネ彦」と記されています。
ナガスネの字面と土蜘蛛の言葉が、妙に一致します。
二度の物部族による東征により、出雲王国はその歴史を閉じ、磯城大和王朝は物部大和王朝へと変えられていきます。
しかし物部族の栄華は長くは続かず、僅か3代で終わりを迎えます。
その時出雲では、物部の秋上家が、王家の宮殿であった「神魂神社」をそのまま守っていてくれたことに感謝し、長い恩讐を忘れ、共にあらんとする証として、双子の本殿を持つ「美保神社」を創建しました。
九州の筑後平野一帯は物部族の本拠地でしたが、時代は下り、そこに事代主を祀る神社が建てられ、隆盛を極めたことに感慨深いものがあります。
葛城神社に「乳銀杏」(ちちいちょう)と呼ばれるイチョウの木がそびえていますが、
御所市の一言主神社にも、さらに古く大きな乳銀杏が鎮座しています。
地元の方にお伺いすると、当社の乳銀杏にも、もっと大きなコブがあったそうですが、何かしらの理由で切り落としてしまったのだそうです。
それはとても残念な限りですが、「凶事も吉事も、この神の一言で決まる」という崇高な神の気配は、確かに残されていました。
拙ブログに触れていただき恐縮です。
宝珠?の周りに放射状のものが広がっている装飾は、本当に謎ですね!
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小社ながら風格ある、良い神社ですね。
まだまだ僕の知らない、こんな場所もあるのかと改めて思いました。
こちらこそ、ありがとうございます!
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