高野山二大聖地のひとつ「壇上伽藍」(だんじょうがらん)は、境内そのものが『胎蔵曼荼羅』の世界を表していると云われています。
唐より帰国した空海が、密教を広めるべく、塔・堂の建立に心血を注いだのが当地であり、信仰の中心として大切にされてきました。
高野山金剛峯寺の中核にして空海の思想が随所に散りばめられた、壇上伽藍を一通り拝礼して回ります。
高野山は「奥之院」と「壇上伽藍」を二大聖地とし、今も人々の信仰を集めています。
その壇上伽藍では真新しい、立派な中門(ちゅうもん)が入口にそびえ立ちます。
中門が真新しいのもそのはずで、壇上伽藍は天保14年(1843年)の大火により、西塔以外の全てがことごとく焼失しました。
その後多くの建造物が再建される中、中門だけはなかなか叶わず、高野山開創1200年にあたる2015年に、172年ぶりに再建されています。
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中門を越えた先にあるのは「金堂」(こんどう)です。
金堂は、空海が高野山を開創するにあたり、「御社」に次いで最初期に建設された御堂であると云われています。
現在の建物は昭和7年(1932年)に7度目の再建をされたもので、耐震耐火を考慮した鉄骨鉄筋コンクリート構造となっています。
金堂は平安時代半ばから、高野山の総本堂としての役割を担っており、今でも行事のほとんどが、ここで行われています。
境内の東側に幾つかの建物が立ち並びます。
「東塔」(とうとう)は大治2年(1127年)に白河院の御願によって「醍醐三宝院勝覚権僧正」(だいごさんぼういんしょうかくごんのそうじょう)によって創建されました。
天保14年の焼失後、140年たった昭和59年(1984年)に再建されています。
「三昧堂」(さんまいどう)は、元は総持院境内に「済高」(さいこう)が延長7年(929年)に建立した御堂で、後に「西行法師」によって当地に移されたと伝えられます。
三昧堂の前の桜は、西行法師手植えの桜として、西行桜と呼ばれています。
済高はこの堂で「理趣三昧」(りしゅざんまい)という儀式を執り行っていたため、この名が付きました。
一際大きな「大会堂」(だいえどう)は、鳥羽法王の皇女「五辻斎院」(ごつじさいいん)内親王が、父帝の追福のために建立したものと伝えられます。
こちらも元は別の場所に建立されていたものを当地に移し、さらに嘉永元年(1848年)に再建されたものです。
「愛染堂」(あいぜんどう)は、建武元年(1334年)に後醍醐天皇の綸命(りんめい)によって四海静平(しかいせいへい)、玉体安穏(ぎょくたいあんのん)を祈るために建立されました。
本尊は愛染明王で、後醍醐天皇の御等身と云われています。
嘉永元年(1848年)に再建されました。
大会堂と道挟んで向かい側にあるのが「不動堂」(ふどうどう)。
建久8年(1197年)、鳥羽上皇の皇女「八條女院」(はちじょうにょいん)内親王によって建立されました。
一心院谷から移築され、14世紀前半に再建されました。
屋根の四隅はすべて形が違い独特な形状を成していますが、これは四人の工匠(こうしょう)が随意に造ったためと伝えられています。
金堂の背後に、雅な姿を聳え立たせるのが「根本大塔」(こんぽんだいとう)です。
この大塔は「法界体性塔」とも呼ばれ、真言密教の根本道場におけるシンボルとして空海と真然(しんぜん)の二代を費やして816年から887年ごろに完成したと伝えられます。
本尊の胎蔵大日如来に金剛界の四仏が取り囲み、16本の柱には十六大菩薩、四隅の壁には密教を伝えた八祖(はっそ)像が描かれ、堂内そのものが曼荼羅の世界を立体的に表現したものとなっています。
根本大塔から西に向かいます。
「御影堂」(みえどう)は、元は空海の持仏堂として建立され、お住まいになったところだと云います。
後に真如親王直筆の「弘法大師御影像」が奉安されたことから、御影堂と名付けられました。
この御堂は高野山で最重要の聖域のひとつと位置付けられています。
御影堂のお隣、「准胝堂」(じゅんていどう)は、空海が准胝観音を得度の儀式を行う際の本尊として自ら造立させたと伝えられています。
「孔雀堂」(くじゃくどう)は、後鳥羽法王の御願によって祈雨の修法を見事成就させた「延杲」(えんごう)の功績により建立されました。
昭和元年(1926年)の大火によって焼失しましたが、昭和58年(1983年)の弘法大師御入定1150年御遠忌記念事業として再建。
本尊の孔雀明王像は快慶作で重要文化財に指定され、現在は霊宝館に収められています。
そして西にある「西塔」(さいとう)。
空海は大塔と西塔を、大日如来の密教世界を具体的に表現する「法界体性塔」(ほっかいたいしょうとう)として、二基一対として建立する計画を立てていました。
しかしそれは生前に達することなく、入定後の仁和2年(886年)に遅れて完成に至りました。
壇上伽藍で開運スポットとして人気なのが、金堂と御影堂の中間にある「三鈷の松」(さんこのまつ)です。
空海は唐で真言密教の最高権威である「恵果阿闍梨」(けいかあじゃり)に学び、その奥義を授かります。
阿闍梨の正式な後継者となった空海は806年に日本へ戻ることになりました。
帰国の際、空海は明州の浜より「真言密教をひろめるにふさわしい場所へ飛べ!」と日本へ向けて三鈷杵(さんこしょう)を投げました。
三鈷杵とは両端が三又になった法具のことです。
すると、たちまち紫雲たなびき、雲に乗って日本へ向けて飛んでいったと云います。
帰国した空海が高野近辺に訪れたところ、狩人から夜な夜な光を放つ松があると教えられます。
その話が気になった空海は早速その松へ行ってみました。
するとそこには、唐から投げたあの三鈷杵が引っかかっており、「この地こそ密教をひろめるにふさわしい土地である」と決心したと云うことです。
この赤い玉垣に囲われた松の木こそがその松の木であり、「三鈷の松」と呼ばれるようになりました。
松の葉は二葉もしくは五葉であることが普通なのですが、不思議なことに三鈷の松は中に三葉の葉があるというのです。
この三葉の落ち葉を見つけて持ち帰り、お守りとして大切に持っていると幸運がもたらされると云われ、人気なのだそうです。
三鈷の松の玉垣内は立入厳禁ですが、その外側に落ちた三葉の葉を見つけようと、多くの人が屈みながら探していました。
が、当然レアアイテムなので、なかなか簡単には見つかりません。
ここで一考し、玉垣内は決して立ち入ってはいけないのですが、人が探さないところを探せばほら、簡単に3つほどすぐに見つけることができました。
2つは頑張って探していたちびっこに譲って、1葉だけ持ち帰ることにしました。
幸運を手にするには、工夫が必要だということです。
もう一つの開運人気スポットは「六角経蔵」(ろっかくきょうぞう)です。
鳥羽法皇の皇后「美福門院」が、鳥羽法皇の菩提を弔うため、紺紙に金泥(きんでい)で浄写された一切経を納めるために建立した経蔵です。
経蔵の基壇付近に把手がついていて、建物の周囲を回転するようになっています。
そしてこの把手をぐるぐる押し回し、一回りすれば一切経を一通り読誦したのと同じ功徳が得られると云われています。
現在の建物は昭和9年(1934年)に再建されたものですが、以前の六角経蔵は、把手から上の建物自体が回転していたというから驚きです。
境内の西奥に、雰囲気の違う場所があります。
そこは「御社」(みやしろ)と呼ばれる神社になります。
あまりクローズアップされることのない神社ですが、僕は壇上伽藍において、ひいては高野山全体において、ここが最も重要な聖域ではなかろうかと感じています。
社殿は3つあり、一宮は「丹生明神」、二宮は「高野明神」、三宮は総社として「十二王子・百二十伴神」が祀られています。
高野山創始の伝承によると、もともと高野山一帯は、「丹生明神」(にうみょうじん)の神領であったと云います。
日本に帰国した空海は密教の根本道場を探して旅をしますが、ある時、狩り人に化身した「狩場明神」の導きで「丹生明神」に出会います。
そこで丹生明神から神領の「高野」を授かったのだと伝えられます。
空海はこの壇上伽藍の地を密教布教の根本と定めると、真っ先に建立したのが御社であると伝えられ、弘仁10年(819年)に山麓の天野社から地主神として勧請し、高野山の鎮守としました。
丹生、高野明神社の構造形式は春日造で、総社は三間社流見世棚造(さんげんしゃながれみせだなづくり)と呼ばれます。
檜皮葺の屋根で仕上げられた現在の社殿は文禄3年(1594年)の再建で、重要文化財に指定されています。
一通り壇上伽藍を散策し終えて金堂前に戻ってくると、大塔の鐘「高野四郎」(こうやしろう)が鳴り響いていました。
直径2.12m大鐘は、日本で四番目に大きな鐘であったことから高野四郎と呼ばれるようになりました。
その音色は大師の御心のように深く、広く高野中に鳴り響いていました。
根本大塔/金堂
Descrizione della storia molto interessante e istruttiva e le foto sono bellissime .
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Grazie
Koyasan è un posto molto misterioso !
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