高良山(後篇):筑秦ノ饒速日 番外

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高良大社本坂、三ノ鳥居前です。

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今は三ノ鳥居と呼ばれていますが、昭和44年(1969年)に麓の参道と車道の境目に鳥居が出来るまではニノ鳥居と呼ばれていました。
長く急な階段の横には、スロープカーも設けられており、足の悪い方でも安心して登拝できます。

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また夏至の頃に本坂の上から見える黄金の光の道は、あまり知られていない絶景です。

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階段の先には広い平地があり、玉垣で囲われた社殿が建っています。

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式内社、筑後国一の宮であり、社殿は国の重要文化財に指定され、神社建築としては九州最大級の大きさです。
古くは「高良玉垂命神社」(こうらたまたれのみことじんじゃ)、「高良玉垂宮」(こうらたまたれのみや)などと呼ばれていました。

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祭神は「高良玉垂命」「八幡大神」「住吉大神」。
また本殿には名神大社として御客座に「豊比咩神社」が合祀されており、境外末社の「伊勢天照御祖神社」が式内小社、「味水御井神社」が筑後国総社であるとされています。

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ん?豊比咩大神!?
豊比咩神社のことを調べてみると、祭神の豊比咩大神とは「豊玉姫命」のことだと云います。
そう、あの宇佐家の豊玉姫、親魏和王の卑弥呼です。

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更に高良玉垂命と豊比咩大神は夫婦であったという説も伝えられていました。
豊玉姫の夫といえば古事記では「山幸彦」ということになっていますが、これは「海部家=海幸彦」に対する「物部家」のことを意味し、物部イニエ王を示します。
ということは玉垂命とはイニエのことでしょうか。

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ところで玉垂命にも豊玉姫にも、ある共通するものがあります。
「玉」の字です。

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境内を散策してみます。
「八葉石碑残欠」と書かれた案内板があります。

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貞享2年(1685年)に禅僧法雲明洞が撰した「高良山八葉石記」の全文を、57世座主亮思僧正が大石に刻ませて建てたものだそうです。

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元々は二ノ鳥居近くにあったそうですが、明治の神仏分離の際に破却され、ここに保存されました。

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境内の右手には、大きな神木の樟が聳え立っています。

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奥の下向坂近くには陰陽石も置かれていました。

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本殿の横には

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高良玉垂命の御子神9柱を祀る「高良御子神社」(こうらみこじんじゃ)が鎮座しています。

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その九躰皇子は
「斯礼賀志命」(しれがしのみこと)
「朝日豊盛命」(あさひとよさかりのみこと)
「暮日豊盛命」(くれひとよさかりのみこと)
「渕志命」(ふちしのみこと)
「谿上命」(たにがみのみこと)
「那男美命」(なおみのみこと)
「坂本命」(さかもとのみこと)
「安志奇命」(あしきのみこと)
「安楽応宝秘命」(あらおほびのみこと)
となっており、どれも聞き覚えのない名で玉垂命の正体に行き着くヒントにはなりません。

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もう一社は「真根子神社」(まねこじんじゃ)で、祭神は「壱岐真根子命」(いきのまねこのみこと)とされています。
真根子は玉垂命の正体の一人として考えられている人物「武内宿禰」の身代わりになったとされる人物です。
この社殿は貞享2年(1685年)再興の豊比咩神社の旧社殿だと云うことです。

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高良玉垂命は朝廷から正一位を賜っているものの記紀には登場せず、正体が誰であるかに関しては古くから論争が繰り広げられています。
その候補としては「武内宿禰」「藤大臣」「中臣鳥賊津臣命」「物部胆咋連」「物部保連」「饒速日命」「彦火々出見尊」「水沼君祖神」「綿津見神」「比売許曽神」「行天皇」「芹田真誰」「新羅神」「高麗神」など諸説多く、全く収拾がつかない状況です。
江戸時代には武内宿禰に比定する説が主流でしたが、明治以降は特に比定されず今に至っています。

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当社に関連する人物としてもう一人、「神功皇后」がおりますが、彼女に随伴した第一の重鎮で三韓征伐最大の功労者である「武内襲津彦」が高木神の後に入れ替わって祀られたというのもあるといえばあるのかもしれませんが、物部族とは血縁の薄い彼がここに祀られたというのは少々腑に落ちないところです。

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境内の北側外れに「大物主命」「崇徳天皇」を祀る「琴平神社」(ことひらじんじゃ)があるそうなので、訪ねてみます。

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当地は吉見嶽城跡に鎮座しますが、安永3年(1774年)に讃岐の金刀比羅宮から勧請されたと云います。

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さて玉垂命の重要な手がかり、豊玉姫と「玉」の文字をもとに、僕なりの謎を紐解いてみます。

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神功皇后が三韓へ向かう途中、福岡の四王子嶽で住吉大神と高良大神に出会ったという話があります。
この時、住吉大神は金星と共に現れ、高良大神は月と共に現れたと云います。
住吉大神は「底筒男命」(そこつつのおのみこと)「中筒男命」(なかつつのおのみこと)「表筒男命」(うわつつのおのみこと)の三神の総称とされますが、この「筒」とは星を意味し、徐福らが信仰した、航海の指針に大切な星を神格化したものであると富王家の伝承は伝えます。

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ではこれに倣うなら、高良大神は月と密接な関連にあるのではないでしょうか。
それについて興味深い話が久留米大善寺の玉垂宮に伝わっていました。

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大善寺玉垂宮の創建については謎が多く明らかではありませんが、由緒では景行天皇の皇子「国乳別」(くにちわけ)皇子を始祖とする水沼君が当地を治めたとき、その祖神を祀ったものだと考えられています。
また祭神の「玉垂命」は神功皇后の三韓出兵に大功があった「藤大臣」(とうのおとど)としています。
しかし別の伝承では玉垂命は禿山だった高良山に植樹を行なったのち、大善寺に移り鎮座したとも伝えられ、その名称、鎮座地からも両社の間には密接な関連があることが示唆されます。

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大善寺玉垂宮の「鬼夜」を調べていて知ったのは、この神事が月にある生命の大源で不老不死の水「変若水」(おちみず)を地上で受けとり、参拝する人たちの罪・穢れを身に受けた神を禊ぐことが真の目的であったということでした。
その神の禊を介添えすることができる巫女が「水沼」(みぬま)であり、古代筑後の大豪族「水沼君」は神の禊を介添えする巫女を出す家柄であったと云うことです。

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豊玉姫の出身である宇佐族は月神信仰でした。
彼女らは月を読むことで神託を受け、その神は月読神と呼ばれるようになりました。
記紀の中で、豊玉姫や神功皇后の神秘を印象付けるアイテムに「干珠」(かんじゅ)・「満珠」(まんじゅ)があります。
この珠は潮の満ち引きを操る宝玉であるとされていますが、潮の干満に関係するものといえば「月」に他なりません。
つまり「干珠・満珠」を得るということは、月読みの能力を得るということだったのではないでしょうか。
珠=玉とは月だったのです。

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これを元に「玉垂」という言葉を考察すると、「玉を垂れる神」とは「月読の能力を持つ・与える神」ということになるのではないでしょうか。

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神功皇后は三韓征伐を成し遂げた後、武内襲津彦との間に皇子を儲けましたが、彼は7歳で夭折し、その後秘密裏に養子に迎えたのが上毛野国(群馬県)の皇子「竹葉瀬ノ君」でした。
皇子は豊玉姫の息子「豊彦」の子孫だったと云います。
竹葉瀬ノ君は「応神天皇」となるわけですが、このような重要な取引を秘密裏に二者ができたのはなぜでしょうか。
神功皇后は一般的に辰韓の皇子「天日矛」(アメノヒボコ)の子孫だとされていますが、彼女は上毛野国に逃れた豊彦の子孫の血も引いていたのではないでしょうか。
つまり宇佐家の血を引き、月読の信仰も受け継いていたが故に、彼女は「干珠・満珠」を操ることができたということです。

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邪馬台国の女王「ヒメミコ・豊玉姫」の存在は親魏和王の称号を受けていたがために、記紀制作の時代に徹底的にその存在を隠されました。
宇佐神宮で祀っていたのは紛れもなく豊玉姫だったのですが、これを隠すために、神功皇后が宇佐家の子孫を養子としたことは都合がよく、とても喜ばしいことだったのです。

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豊玉姫は高良玉垂命の配偶神だと伝えられていました。
玉垂とは月読みの力を与える者。
物部族と宇佐族の関係。
それらのことを考えると、高木神の後に据え置かれた玉垂命とはすなわち、「月読命」なのではないかと僕は思い至るのです。

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さて石灯籠がある参道と思しき酷道を登り切ってきました。
後から知りましたが、この道は確かに表参道なのですが、もっと状況の良い迂回路が別にありました。

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それにしても、他の摂社に比べて、琴平神社は寂れて見えます。

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こちら側からも登って高良大社に至ることもできるそうなのですが、

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その道はあまり整備が行き届いているとは言い難いようです。

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裏に回ると立派な石の祠があり、

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先の方には城跡らしい展望がありました。

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高良山の麓外れ、322号線そばにある境外末社「味水御井神社」(うましみずみいじんじゃ)を訪ねます。

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筑後国総社、朝妻の井と呼ばれ、古くから地域住民に親しまれている神社です。

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祭神は「水波能賣命」。
朝妻清水が御神体であり、鳥居や社殿はありません。

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奥にある小祠は、朝妻の各所に別々に鎮座していた7社(朝妻七社)を合祀したもので、「七社権現」と呼ばれますが、味水御井神社とは別のものとなります。

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記紀では仲哀天皇と神功皇后は一時この地に滞在したと伝えられています。
水を所望した皇后に、お供の人が草むらを槍で一刺しすると水が湧き出て、それを皇后に差し上げると「うまし」と答えたと云うことです。

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道教に起源を持ち父系社会制であった物部族には天啓を得る「巫女」と云う存在がありませんでした。
しかし大和を中心とした日本では、神秘的な巫女の存在が一国の王よりも人気があり、政治においても重要な役割を担う時代でした。
故に1度目の物部族の大和東征は失敗に終わりますが、2度目の東征において、物部イニエ王と宇佐豊玉姫が婚姻したことには大きな意味がありました。
物部族の多くに、神秘的な月読の巫女は、絶大な人気を伴って迎えられたことでしょう。
宇佐地方を訪ねると、聖域で度々ストーンサークルを見かけることがあります。
星読の聖なる山に新たな石の結界を張り直し、月読の山に変えたとするのは少々ロマンチックすぎる発想でしょうか。

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朝妻の泉には、月を写し取り、変若水を湛えたかのような清らかな水で、今も満たされていたのでした。

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2件のコメント 追加

  1. asamoyosi より:

    CHIRICO様

    いつも応援いただきありがとうございます。

    高良大社、興味深く拝見しました。いつものことながら、克明な解説に感動しております。

    高良と言えば何十年か前、まだ石清水八幡宮に行ったことがないという例の人を連れてお参りに行ったことを思い出しました。お参りを終えて車に戻ろうとすると、次は「かうら」に行かなくては・・・と探しはじめ、やっと見つけて満足そうな顔をしていたことを思い出しました。「かうら」とは徒然草に出てくる「仁和寺にある法師、年寄るまで、石淸水を拝まざりければ、・・・極樂寺・高良などを拝みて・・・」に出てくる有名なお話ですが、私は何回か石清水八幡宮に行ったことはあるものの、そんなことは全く考えてもいませんでした。高良社を見つけ、ちょうど徒然草の話の反対みたいだねと大笑いしました。昔々の懐かしい思い出です。

    CHIRICO様のブログを拝見し、行ってみたくなりました。とは言っても筑紫の国は遠すぎるので山城の国の方ですが・・・。
    新型コロナ、府県を越えて出かけても良くなったようですが、本当に行って良いものやら。来られる方はどう思うのかしらと、まだまだ県外に出て行くにはハードルが高いように思えて・・・。

    高野山は一時よりもお参りの人が多くなっています。観光バスもぼつぼつ見られるようになりました。
          asamoyosi

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      こんにちは、asamoyosi様。
      山城国にも高良社があるのですね。
      私は石清水八幡宮も未訪問なので知りませんでした。
      今回は「高良」の方の名の由来には触れませんでしたので、ひょっとすると山城国の方に答えがあるのかもしれません。

      県外自粛中も高野山がそばにあるasamoyosiさんが羨ましいなと思いながら、いつも拝見していました。
      私も改めて福岡県内の隅々まで出歩いてみましたが、新たな発見もあり、制限がある中でも楽しみを見つけることはできるものだと思いました。
      しかし、そろそろ見知らぬ景色を見に行きたい・・・
      県外越えは確かに不安もありますが、2波到来を考えると出掛けられる時間もまた限られているようで悩ましいところです。

      いいね

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