高津柿本神社:語家~katariga~ 16

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「高津柿本神社」(たかつかきのもとじんじゃ)は、島根県益田市高津町に鎮座しています。
社名の通り、歌聖柿本人麿を祀る神社で、柿本神社の本社を謳います。

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当社創建の由来は、柿本人麿が残した辞世の歌
『鴨山の 岩根し枕ける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ』(223)
「鴨山の岩を枕に横たわる私のことを知らずに、彼女は待ちつづけているのだろうか」
に因むとし、その鴨山が高津の鴨島にあったとされます。

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鴨島は万寿3年(1026年)の大地震で海底に沈み、人麿の神体も津波で流されましたが、現在の高津松崎に漂着。
その地に社殿と別当寺としての人丸寺が再建されました。

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しかしこの人麿が亡くなったと云う鴨山は他にも数ヵ所伝えられており、当地が確定的なものではないとされます。
この高津柿本神社と戸田柿本神社の距離は8kmほどしか離れておらず、戸田に実家があるのに人麿が高津に埋葬を希望したとは考えにくい気がします。
また遺髪だけがわざわざ実家に送られていました。
とはいえ、高津の柿本神社が風格のある素晴らしい神社であることに変わりはなく、やはり人麿との深い関わりがあったであろうと偲ばれます。

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そもそも何故、柿本人麿という人はこれほど謎に包まれているのか。
それは時の右大臣・藤原不比等によって彼の存在が歴史から消されていたからでした。

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彼は時折、政治批判を歌に滲ませていました。
そして不幸にも彼の歌は評判が良く、多くの人にそれらの歌が求められたのです。
さらに天才的な文才がありました。
それで右大臣の秘密の計画に、彼は取り込まれてしまったのです。

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古事記を書くこと、それは柿本人麿に課された秘密の使命でした。
彼は妻・依羅姫に会うことも許されず、右大臣の屋敷に幽閉され、日本の歴史書を書くように命じられます。

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しかしそれは正しい歴史の編纂ではありませんでした。
さまざまな思惑の絡んだ、勝者の歴史を書くこと、つまり歴史の改竄を行うことが目的だったのです。

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人麿は母から、稗田系の語り部を受け継いでいました。彼は本来の正しい歴史を継承してきた人物の一人だったのです。
このままでは真の歴史が失われてしまう、そう危惧した人麿は、後世の人が偽りの歴史書から真実を読み解くよう、古事記にいくつかの暗号を残したのです。

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彼こそ、日本の歴史の恩人でした。
命懸けで秘密を残し、世の人々に愛される古事記が生まれます。
古事記を読み解けば読み解くほど、違和感を感じる部分が出てきます。そうした不完全な場所にこそ、彼のメッセージが込められているのです。

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『万葉集』は奈良時代の末期に成立したと見られる、日本最古の和歌集ですが、全20巻4,500首以上あるうちの2,100首以上が「詠み人知らず」となっています。
その多くが実は柿本人麿の作であるといいます。
あまりに人麿作の歌が多すぎて、作家のバランスが取れないので、苦肉の策としてこの詠み人知らずという表記がなされたようなのです。

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古事記に記される和歌もまた、そのほとんどが彼の作です。
彼の人生の背景を知れば、それらの和歌が実に素晴らしく、いかに情緒的であるかを感じることができます。

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人麿の書いた古事記は、和歌が多用され、ユーモラスな寓話も多く取り入れられています。
彼の万葉歌でも分かるように、柿本人麿は実に、人々に愛される才能であふれていました。
このように、古事記も情緒に富んだ素晴らしいものでしたが、それは右大臣が求めていたものではありませんでした。
右大臣が欲したのは、外国にも通用する、厳格な歴史書だったのです。

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右大臣が古事記を世に出すつもりはないということを、人麿は太安万侶から聞かされます。
古事記は書き上げたあと、破棄されるだろうと。
自分の書いた古事記が世の人に読まれるのなら、と辛い監禁生活も耐えて書き続けていた人麿は大いに落胆します。
それで古事記の後半部分は、書く気になれず、内容も疎かになっています。

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それでも古事記を書き上げた人麿は、今度は罪を着せられて島根に流罪となりました。
右大臣・藤原不比等は父・鎌足の所業を隠し、乙巳の変の英雄であると記させた書の執筆者を、口封じしたのです。
日本書紀を書き上げた太安万侶も同じ運命を辿ります。
柿本人麿と太安万侶、二人の類稀なる才は、時代のうねりの中で利用され、消されていったのです。

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4件のコメント 追加

  1. 清水 公隆 KIMITAKA SHIMIZU より:

    五条さま

    今回は高津柿本神社を紹介してくださり、ありがとうございました。

    写真を見ますと、小学生の頃の夏休みの記憶が蘇りますね。三男が癇の強いヤツで、人麻呂さん(高津柿本神社のことです)の敷地内で背中を地面に押しつけて脚をバタバタさせながら泣き喚いていた想い出があります。

    ソイツも今は46のオッさんです。

    あの頃のわたしはお寺も神社も区別がつかない、何も知らない少年でした。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      清水様

      あの三段屋根の拝殿と本殿の素晴らしさ、本当は何か人麿との関連が隠されているような気がしているのですが、それが見つけられずすみません。
      いつか人麿の実家の綾部家の方にお話を伺えれば、何か分かるのかも知れません。

      私の子供の頃も、神社といえば格好の遊び場、今思えば随分失礼なこともしてましたが、日本の神様は子供には寛容ですね😊
      そうして育ったオッサンたちが、日本を大切に感じていってくれたら、神様も喜んでくれるのでしょう。
      おおらかで、良い国に生まれてこれて幸せです。

      いいね: 1人

  2. narisawa110 より:

    なるほど、書き上げる前から採用しない方針を聞かされていたのですね。
    しかし、何故ほぼ同時に二つの歴史書が企画されたのでしょうか?

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      古事記は最初、人麿と安万侶の二人で書き進められていたようですが、そのうちより文才のある人麿が書き、それを安万侶は校正する立ち位置に変わっていたものと考えられます。その頃から安万侶は日本書紀の執筆を始めたのではないでしょうか。
      あるいは人麿の書く古事記を見て、右大臣が安万侶にそれをたたき台とした、対外的な国書を書かせたのかもしれません。
      日本書紀は公的に発表されていますが、古事記はそうでないあたりからそのように推察します。
      ただ柿本人麿は歴史的な痕跡がかなり希薄ですので、和歌などの内容から真実を推察する他にありません。

      いいね

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