627年6月、大和の大豪族「石川麻古」が病に没した。
その前年626年8月に麻古が病床に伏したとき、彼の病状回復を祈願するため、関係する者1,000人が出家した。
その様子を見ていた田村王は、戦慄した。
石川臣家の勢力に恐怖を感じた彼は、石川臣家を滅ぼす必要があると考えるようになる。
尾治大王に大兄に指定された上宮太子の子「山背王」は、実力と人望があり、次期大王は彼であろうと多くのものが思っていた。
が、田村王は、次期大王の地位を狙っていたのだった。
「石川家は力をつけ過ぎた。このままでは奴が後押しする山背が大王になり、大和は奴の思うがままだ。」
田村王は、信頼関係にある中臣御食子に相談することにした。
当時、中臣家は、忌部家を排除し、宮中祭祀役の家柄となっていた。
「田村王は尾治大王の親族でありましょう。ならば大王の側近になり、石川家の大物を一人ずつ誅殺されるのが上策です」
「誅殺」とは、大王の命令として暗殺することを言う。
さらに御食子が田村王に進言した。
「まず息長家の宝姫とご結婚下さい。さすれば、息長派をまとめられましょう。」
田村王の兄弟、茅淳王の娘「宝姫」は、石川臣武蔵に嫁いで、大海人彦を生んでいた。
田村王は姪の宝姫を離婚させて吾が物にし、息長家の血を濃くすることを計った。
628年3月に尾治大王は没し、田村王が王位に就いた。
その後には、息長連系の大王が続くことになる。
麻古の弟「境部摩理勢」は、尾治大王が生前、山背を大兄に指名していたことを理由に、彼こそが後継者である、との主張を曲げなかった。
摩理勢は、大王の決定に背いた咎で、御食子の兵に誅殺された。
629年は舒明大王(田村王)の御代となったが、依然、新しい大王よりも山背王の方に民の人気は集中した。
これを大王は激しく嫉妬した。
641年3月15日、大臣「石川雄正」の豊浦の邸宅を、葛城皇子と中臣鎌子ひきいる軍勢が取り囲んでいた。
皇子が一声あげると、軍勢は一斉に邸宅を襲った。
これにより石川雄正は誅殺され、石川臣家という大豪族が不意討ちにより、あっけなく亡びたことになった。
田村王が宝姫に産ませた葛城皇子は、のちに中大兄皇子と呼ばれた人である。
以降、大王の地位を巡って、血みどろの謀略が繰り広げられることになる。
奈良県桜井市の多武峰(とうのみね)にある「談山神社」(たんざんじんじゃ)は、中臣鎌足の死後、長男で僧の「定恵」が唐からの帰国後に、十三重塔を造立して父を祀ったのが発祥と云います。
談山の名の由来は、中臣鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山」(かたらいやま)・「談所ヶ森」と呼んだことによるとされています。
案内通りに進むと、最初に見えてきたのは、とても古びた社殿です。
末社・総社の本殿とあります。
古びてはいますが、きらびやかな造りであることが見て取れます。
オホド大王(継体天皇)以降、カナヒ大王(安閑天皇)の子孫「石川臣稲目」は、二人の娘をヒロワニ大王(欽明天皇)に嫁がせ、そこから次々に有力な皇子が生まれたため、大和の大豪族の地位を築いていました。
推古女帝の子、尾治大王までは、石川臣系の大王が続いていたことになります。
尾治大王は聖徳太子のモデルとされる上宮法王の息子、石川臣系の「山背王」を、大兄に指定していました。
彼は名実ともに優秀で、民に人気があったと云います。
そこに次期大王の座を狙っていたのが、息長系の田村王でした。
田村王は麻古が病床に伏したとき、出家した石川臣家の関係者の人数に驚きました。
この石川麻古は、記紀に、世に名高い「蘇我馬子」と記された人物です。
彼はその勢力に恐怖を感じ、石川臣勢力を壊滅させる必要があると考えます。
田村王は、当時宮中祭祀役の家柄であった中臣御食子に相談しますが、彼は大王の側近になり、石川家の大物を一人ずつ、誅殺することを提案します。
また、御食子は、すでに石川武蔵の妻となっている宝姫を、理由をつけて離縁させ、后とするように田村王に進言します。
宝姫は息長系の姫であったので、息長勢力を味方につけるのに、都合が良かったのです。
その時、宝姫には、石川武蔵との間に「大海人彦皇子」が生まれていました。
彼は後の「天武天皇」となる人物です。
武蔵は宝姫が大海人彦を連れて去ったことに落胆し、以後は僧侶のような孤独な生活を送ったと云われています。
総社拝殿と神廟の間の庭は「けまりの庭」と呼ばれます。
中臣鎌足と中大兄皇子は、ここで催されていた「けまり」の場で、出会ったと云われています。
神廟の中には、様々な宝物などが展示してあります。
628年3月に田村王は、大王の方針で自分が次の大王になる、と大臣の石川雄正に伝えました。
これに麻古の弟「境部摩理勢」は、大兄である山背王が後継者である、との主張を曲げなかったと云います。
中臣御食子は官兵を集めて、摩理勢王を追い、これを誅殺しました。
ここで石川臣家のことを説明しておかなければなりません。
記紀では石川麻古を蘇我馬子、石川雄正を蘇我蝦夷と名を変えて記しました。
雄正の息子「林太郎」が蘇我入鹿です。
そもそも馬子や蝦夷、入鹿といった名前を高貴な人物が名付けるはずもありませんでした。
本来の蘇我氏は、福井の三国越前国を中心として栄えた豪族です。
大和に基盤を築いた石川家も蘇我家も、元は武内襲津彦を先祖としています。
しかし両家が分かれて長い時を経ているので、それらは別の家柄として考えるべきだと思われます。
記紀において、なぜそのような作為を行ったかというと、二つの理由が考えられます。
まずは万世一系を目論む記紀の製作者は、各王朝の変遷を隠したいと考えました。
なのでオホド大王の蘇我王朝の存在は消されてしまったのです。
次に記紀制作の責任者、右大臣の藤原不比等は、父が行った石川臣家撲滅の黒歴史を正当化したかったようです。
藤原鎌子(鎌足)は、大王家と縁のある大豪族、石川臣家を不当に抹殺したのです。
それはいわば、クーデターと言えるものでした。
不比等は石川家の存在を隠し、横暴な豪族、馬子・蝦夷・入鹿として書き換えさせたのです。
しかし記紀の筆記者は、偉大な蘇我王家の名前だけでも残したいと思い、石川臣家を蘇我家としたのです。
628年3月に尾治大王が没し、田村王(舒明大王)が王位に就きました。
しかし大和国では、新しい大王の押坂宮に貢ぎ物を運ぶ者が少なかく、山背王のいる岡本宮に運ぶ貢ぎ物が奪われ、舒明大王の押坂宮に運ばれるという混乱が続いたと云います。
630年に大王は宝姫を皇后としました。
宝姫の前夫、石川武蔵との間に生まれた息子は大海人彦、後の「天武天皇」であり、大王との間に生まれた皇子は葛城皇子「天智天皇」でした。
641年の3月15日に、大臣、石川雄正の豊浦の邸宅を、葛城皇子と中臣鎌子ひきいる軍勢が襲い、誅殺しました。
これは全くの不意討ちであり、石川臣家という大豪族があっけなく亡びた瞬間でした。
葛城皇子は石川雄正攻撃の功により、大兄に指名され「中大兄」を名のりました。
その結果、法提妃の産んだ「古人大兄」と、後で加わった皇后の産んだ中大兄が対立する事態になりました。
同年10月に、大王は没しましたが、大兄が2人いたので後継ぎが決まらず、 2年後に皇后が即位して「皇極女帝」となります。
643年の11月11日、書紀によると蘇我入鹿は巨勢徳多、土師猪手、大伴長徳および100名の兵に、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させたとあります。
「石川臣派の三輪君は、山背王に『東国に逃がれ、兵を集めれば、大和国を攻め奪うことが出来る』と戦いを勧めたが、山背王は『戦えば、勝てるやも知れぬが、己一人の利益のために、万人を戦に巻き込むことになる。わが身を捨て、国を安定させることこそ、人の道ならずや』と言って斑鳩寺に入り、一族共々自害した。その時、空は五色に輝き、後に黒雲に変わった」と記しています。
しかし、実際に襲ったのは、中臣鎌子ひきいる軍勢でした。
また、斑鳩寺で山背大兄一家が自害したというのも、作り話であったようです。
出雲国には伝承が残っており、山背大兄一家が富家を頼って出雲に逃げて来たと云います。
そうして出雲郡健部郷の丘に隠れ住みました。
大兄はその丘の東に三井寺を造り修行し、その北方には一緒に来た三輪氏が大神神社を建てて住み、山背大兄一家を守った、と云うことです。
そうした父の黒い所業を蘇我入鹿の行いに見せかけ、その入鹿を中大兄王と父、藤原鎌足が成敗するという英雄譚に、不比等は見事、歴史を書き換えたのです。
権殿と十三重塔へ向かいます。
藤原鎌足を弔うために建立したという「十三重塔」(重要文化財)は、談山神社のシンボル的存在です。
現存している建物は室町時代に再建されたもので、木造十三重塔としては世界唯一です。
階段の手前に「閼伽井屋」(あかいや)という御堂があります。
龍王の出現があったとされる井戸です。
その先には龍神信仰の古代遺跡がありました。
宝姫が皇極女帝になると、今度は自分が生んだ中大兄を大王にしたいと考えました。
しかし彼はまだ若かったので、中継ぎに弟の「軽王」を大王にしよう、と考えます。
古人大兄皇子は、石川臣麻古の娘、法提郎女の息子であったので、今のままならば古人大兄皇子が大王になる可能性が高かったのでした。
つまり、中大兄を大王にするには、まず古人大兄を除かなくてはなりませんでした。
645年6月に、女帝は軽王に「古人大兄皇子を出家させなさい。成功したら、大王の位を汝に譲る」と告げました。
軽王は重臣たちを大殿に集め、両側に並ばせたのち、古人皇子を呼び出し、その真中に立たせました。
皇極大王が入場し、奥の椅子に座ります。
軽王は進み出て、皆に告げました。
「大王が位を譲りたいと、私に申している。もし古人皇子が大王となるなら、誰と誰を大臣に任命するか申せ。」
古人皇子は突然のことに驚いて震え、
「私は出家して吉野に入ります。仏の道を修行して、大王の御代の繁栄を祈りたいと思います」と答えました。
古人皇子は法興寺に入り、髪を下ろし、袈裟を着て吉野へ去りました。
その後、軽王は即位し「孝徳大王」となりました。
大王は中臣鎌子を内臣にすえ、年号を大化と改めます。
孝徳大王と中大兄は謀議して、古人皇子が謀反を企てた、という噂を広めました。
9月、吉野の宮に中臣鎌子に兵40人を付けて送り、古人皇子とその子を斬らせたと云います。
石川臣雄正が誅殺され、続いて山背大兄と古人大兄の大王候補者二人が一度に誅殺されるという事態に、世の秩序は大きく崩れ、政治不安となっていきました。
649年3月、石川雄正に代って実力者となっていた「石川山田麿」が、大王に対し謀反を計画している、と弟の武蔵が訴えたという噂が流れました。
これを中臣鎌子ひきいる軍勢が山田麿を追い詰め、はめられたと観念した山田麿は、一家共々浄土寺にこもり自殺します。
石川武蔵は、筑紫太宰府の帥に任じられましたが、これは都からの島流しだと噂されました。
境内の奥部に本殿があります。
手前に構える神門が神々しいです。
嬉しいのは、撮影もご自由にどうぞという一言。
もちろんフラッシュはマナーに反します。
軽王・孝徳大王は、今度は我が有間皇子に大王を継がせようと、謀り始めます。
これに対し、中大兄と中臣鎌子は「都を大和に移す」と百官に発表しました。
主だった者も中大兄に従ったため、難波豊崎官に残された孝徳大王は、政治力が衰えました。
翌年大王は、中臣鎌子の冠位を紫色に上げましたが、時は遅く、大王は10月には体力が衰え、床に伏し、そのまま没しました。
655年正月、孝徳大王の后であった間人太后は、大王就任を宣言しました。
642年には、旧皇極女帝が斉明女帝と名を変え、大王に復帰しています。
つまりこの時期には、間人太后の「難波王朝」と斉明女帝の「飛鳥王朝」の二王朝並立時代であった、と云われています。
658年11月3日、有間皇子を斉明女帝に陰謀を企てたとして、物部シビが捕らえました。
そこへ叔父である中大兄が出てきて「白浜温泉に行こう。私が先で待っている」と告げ、皇子を一旦釈放します。
有間皇子は叔父の提案通り、白浜に向かっていると、和歌浦を過ぎた藤白坂で中大兄が現れ、物部シビに合図をしました。
そこで有間皇子は、絞首刑に処せられたと云います。
叔父が甥を殺し、後継ぎ問題を決着させたのです。
間人皇后は吾が皇子の死を聞き、嘆き悲しみました。
皇后は山背大兄の親戚であったので、有間皇子の霊を祀って欲しいと、斑鳩寺に田畠をを寄進しました。
斑鳩寺では、鞍作鳥(くらつくりのとり)が有間皇子を偲ぶ像を造りました。
それは現世で大王になる夢が違い、昇天した皇子を偲び、「夢違観音」の名が付けられました。
11月には都で、斉明女帝の葬儀が行われました。
662年に中大兄皇子は、斉明女帝の官人を受け継ぎます。
しかし間人皇太后の難波政権は依然強さを増し、中大兄は皇太子のまま政を行わざるを得ませんでした。
翌年には上毛野君稚子将軍が27,000人を率いて、新羅征伐に向かいましたが、和軍は大敗します。
いわゆる「白村江の戦い」と呼ばれる戦です。
665年、間人女帝が没します。
667年、中大兄は反対派の多い飛鳥京を捨て、近江国に大津京を造り、遷都しました。
天智7年、やっと安心できた中大兄は、即位式を行い、天智大王となったのです。
記紀にある「乙巳の変」は、全くの虚説でした。
蘇我入鹿のモデルは、石川林太郎であり、この後も死んでいないと云います。
横暴な入鹿の死の話は、鎌足の手柄を示すために創作された話でした。
実際に、「蝦夷」や「入鹿」という人は存在しなかった、と越前蘇我国造家でも伝承されていると云います。
本殿を過ぎた先は、恋愛パワースポットになっていました。
偽られた歴史の神跡は、今は女子でにぎわう平和な場所に、静かに佇んでいました。