「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」
左遷に際して、愛しい梅の木に語りかけるように詠んだ菅原道真。
その想いに応えるように、紅梅殿の梅の木は大宰府の道真の元へ、一晩かけて空を飛んできたのでした。
太宰府天満宮拝殿前には、かの有名な「飛梅」が鎮座し、毎年春を告げる梅花を咲かせます。
太宰府天満宮境内にはたくさんの梅の木があり、早春には芳しい香りとともに、一斉に蕾をほころばせます。
その中にあって、一番最初に開花を迎えるのが、この飛梅。
道真の言葉を守り、けなげにもいち早く春を知らせるのでしょう。
道真は5歳の時に
「美しや 紅の色なる梅の花 阿呼が顔にも つけたくぞある」
と和歌を詠み、その才覚で皆を驚かせ、11歳の時、『月夜見梅花』(げつやにばいかをみる)と言う漢詩を詠みます。
「月耀如晴雪(げつようせいせつのごとく)梅花似照星(ばいかしょうせいににたり)可憐金鏡転(あわれむべしきんきょうてんじて)庭上玉房馨(ていじょうにぎょくぼうのかおれるを)」
( 輝く月は晴天の雪のごとく、梅花は照らされる星に似たり。その様のなんと愛しいことか、金鏡のように月光が転じて、庭に玉のような花房を香らせているのは。)
そして大宰府へ左遷されることとなった延喜元年(901年)、屋敷内の庭木のうち、日頃から特に愛でてきた梅の木・桜の木・松の木との別れを惜しんだ道真。
その時、詠んだのが有名な、かの句でした。
東風吹かば にほひをこせよ 梅花 主なしとて 春を忘るな
ん?「春を忘るな」??
「春な忘れそ」じゃなかったっけ???
菅原道真が詠んだ「東風吹かば…」の初出は、平安時代の勅撰和歌集『拾遺和歌集』です。
それには「春を忘るな」となっているようです。
『拾遺和歌集』が編纂されたのは、道真の死から約100年後のことになりますが、「春な忘れそ」が初出と見られる『宝物集』は更に後世の編纂となります。
「春を忘るな」は正に、梅の精に語りかける道真の心情が現れているようですし、「春な忘れそ」は古風でスマートな印象です。
飛梅ゆかりの太宰府天満宮としては、後者が公式見解となっているようです。
ところで道真が特に愛でてきた「梅」と「桜」と「松」の木。
道真は庭木のそれぞれと別れを惜しんだのですが、どういうわけか、道真が句に詠んだのは、梅花のみでありました。
主人を失った庭木のうち、桜は悲しみのあまり、みるみるうちに葉を落とし、ついには枯れてしまいました。
梅と松は、道真の後を追い、そして空を飛びます。
松は途中で力尽きて、摂津国八部郡板宿に降り立ち、そこは「飛松岡」と呼ばれるようになりました。(板宿の飛松/飛松伝説)
そのような中、詠われた事でより力を得たのでしょうか、梅だけは無事、道真の元へたどり着けたのです。
この一晩にして京都から大宰府まで、梅の木が飛ぶとしたらどのような状況だったのか、科学的に検証したアホらしくも愛おしいサイトがあります。
そう、かの「空想科学読本WEB」です。
ぜひ一度、お目通しください(笑)
実際は、道真に仕えて大宰府に同行した「味酒保行」が株分けの苗木を植えたものとも、道真を慕う伊勢の神官「白太夫」が旧邸から密かに持ち出し、大宰府に植えたとも云われています。
太宰府天満宮の境内に鎮座する飛梅、その根本を見てみると?
3本の幹があります。
飛梅は3本あるという事でしょうか?
地下で1本に繋がっているようには見えません。
僕は今まで、ずっと1本の木だと思い込んでいました。
ところでそもそも、なぜ飛梅はここにあるのか?
そう、道真存命の頃、ここは単なる森であり、道真の屋敷は大宰府政庁から南下した南館だったのです。
という事で調べてみれば、道真が蟄居した南館跡「榎社」そばに、「飛梅の原木」があるというのを突き止めました。
それは榎社の先にある踏切を越え、細い路地を数十m歩いた先の、明らかに個人宅の敷地内と思える場所にありました。
なるほど、ここに飛梅はやってきたというのなら納得です。
しかし原木というには、なんだか小さいというか、みすぼらしいというか。
天満宮の飛梅の方が、はるかに立派です。
案内板にある『飛梅』 原木の縁由というのを見てみると、本来の飛梅は、天満宮の本殿造営の時に社前に移植し、この梅は往昔のあかしとして植え継がれたものだという事です。
この原木は、本来の飛梅から株分けされたものを植え継いだのでしょうか。
飛梅はたくさん株分けされ、種を絶やさないようになされたのでしょうか。
天満宮境内の飛梅の幹が3本あったのも、そういう事なのかもしれません。
ところでここにも「飛梅」の由来について記されていますね。
「菅公の恩寵にあづかった伊勢神宮の神官が公を慕って太宰府に西下する途中、都の旧邸より、公の遺愛の紅梅を根分けして携え、「南館」の庭前に植えたと伝えられています。」
ん?「紅梅」??
またしても疑問です。
実は「筑前国続風土記拾遺」にも、「京より紅梅飛来たりし所にて」と、飛梅は紅梅であると記されているそうです。
また京の道真の屋敷には紅梅・白梅共にあったようですが、「東風吹かば…」の句を詠んだのは、紅梅に向かってだったとか。
現在、紅梅殿・白梅殿それぞれに跡地として碑が残っていますが、梅の木が残るのは白梅殿のみ。
しかも白梅殿の梅もまた、紅梅なのだとか。
しかし天満宮境内の飛梅は白梅ですし、この原木も白梅です。
これはどういう事なのか?
そういえば、以前「筑紫君磐井」のものとされる「岩戸山古墳」(いわとやまこふん)を訪れた際、一つの花に白と紅の花弁が混ざった梅を見ました。
それで調べてみると、梅の木には、1本の木に白と紅の花が咲く「源平咲き」というものがあることを知りました。
実は梅の花は、もともとは全て赤いのだそうです。
それがいつしか色素ができなくなって白くなる、まるで人の白髪のようです。
赤い色はアントシアンという色素から作られますが、赤くなるためには、多くの酵素・多くの過程が必要で、その機構がうまく働かなくなると、赤い色になれず白い花となるのだそうです。
なので、飛梅も、もともとは紅い梅だった可能性は濃厚です。
ともあれ、梅と共に生きた人生とも言える道真の生涯。
そもそも当時、梅の木は都ではとても希少で、特定の上流階級にしか栽培することができなかったようです。
古くから日本全国に繁殖していた桜の木と違い、梅は中国から輸入されたばかりで、人間が手をかけて栽培してやらなければ育たないものでした。
その希少な梅の美しさを幼少から見出し、育み愛で、事あるごとに詩に詠んだ道真。
その道真が何もかも奪われ、失意のうちにたどり着いたのが「梅花溢れる大宰府」だったというのが、せめてもの救いだったように思われます。
ふんわり可憐に咲き乱れる「桜」に対して、凛として孤高の美しさを湛える「梅」の花。
梅花に出逢うと、僕はぎゅっと、胸が切なく感じるのです。