宗像三女神が宗像大社の辺津宮・中津宮・沖津宮に鎮座する前に降り立った場所は、「宗像」と「筑中」「宇佐」の3ヶ所だったと言う話があります。
これを示すように三女神にちなむ聖地が、宇佐は「三女神社」、筑中は「赤司八幡宮」、そして宗像は鞍手町の「六ヶ岳」にあります。
六ヶ岳の山頂付近に宗像三女神が降り立ったという伝承があり、そこに社がありました。
が、享禄年間(1528-1531)に焼失し、御神体は麓の村にある下宮に遷したそうです。
その下宮が「六嶽神社」(むつがたけじんじゃ)です。
田園の中にある鳥居から丘に登ると本殿が見えてきます。
六嶽神社の社記によると 治承元年(1177年)宗像家より占部下野守という者が派遣され、当社職として奉仕していたと云います。
宗像三女神を祭祀する一族といえば宗像氏ですが、「水沼」の一族も深く三女神に関わっています。
三女神社、八女津媛神社も水沼の聖地でした。
そしてこの六嶽神社付近には水摩姓が多く伝わっているそうで、ここも水沼のテリトリーだった痕跡があります。
大善寺玉垂宮の伝承によると、水沼とは「月の霊水が聖なる泉に降り注ぐ真夜中に神と人間を取り持つ巫女」のことだそうです。
つまり水沼家は、かなり有能なシャーマンとしての資質を備えた女性が生まれる家系だったようです。
そしてこれを聞いて連想するのが、月の神を祭祀して来た豊王国の女王「豊玉姫」です。
豊玉姫、いわゆるヒミコは宇佐神宮に葬られていると云います。
宇佐神宮が祭神の一柱と掲げる「比賣大神」は現在、宗像三女神のことだということになっていますが、おそらく元は豊玉姫を祀っていたのだろうと思われます。
宇佐神宮はかつて、朝廷が伊勢神宮を差し置いて神託を伺ったというほどの重要な聖地でした。
水沼氏はその祭神書き換えに関与するのか。
「宗像」「筑中」「宇佐」を繋ぐラインだけでも膨大な領域を支配していたと思われる「水沼氏」、しかしいつしか水沼の名は消え、三女神の祭祀は宗像氏が行うのみとなっていきます。
三女神は宗像氏の祖「吾田片隅」(アタカタス)の娘ですので、宗像氏が祭祀するのは当然ですが、水沼氏はこれにどう絡むのか。
また、水沼氏の祖には物部氏の名も見え隠れするそうで、謎は深まるばかりです。
確かに三女神社、赤司八幡宮、六嶽神社を巡ってみると、似た空気感を感じます。
しかし宗像の三聖地はまた、これとは違った印象を受けました。
それは山の聖地と海の聖地の対比とも取れます。
果たしてどちらが「道主貴」に相応しいのか、僕にはまだ決められずにいます。