日向国惣社 三宅神社:八雲ニ散ル花 土雲歌譚篇 16

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春三月、景行帝は子湯県に出かけ、丹裳小野に差し掛かった時、東方を見て周りの供に言った。
「この国は真直に日の出づる方を向いておる」
それでこの国を名づけて日向という。

この日、野中の大石に登り、都を偲び歌を詠んだ。 

「愛しきよし 我家の方ゆ 雲居立ち来も 大和は 国のまほろば 畳づく青垣 山籠れる 大和し麗し 命の 全けむ人は 畳薦 平群の山の 白橿の枝を髻華に挿せ この子」 

と。

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西都原台地の1km南端、小高い丘の上に日向国総社「三宅神社」は鎮座しています。
この一帯は丹裳小野伝承地とされていました。

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三宅神社は、旧称を覆野大神宮(おおのうだいじんぐう)、福野(覆野)八幡宮、覆神社と称し、建久8年(1197年)の「建久図田帳」には「福野宮神田二五町」と記され、それ以前の創建とみられる古社です。

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祭神は「天津彦火々邇々杵尊」に加え、「天児屋根命」と「天太玉命」を配祀。
相殿に「木花開耶姫命」「神日本磐余彦命」「誉田別尊」「石凝姥命」「大物主命」「玉屋之命」「天鈿女命」など六十四神、他に三十九神を合祀する神様デパートとなっています。

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当地には日向国府があったとされ、最盛期には社職も大宮司、権大宮司、主税儀大宮司、器大宮司などがあり、年間の祭典も97回に及んだといいます。
応永元年(1394年)から行われている天孫降臨祭・国家安穏祭・山陵祭は、京都賀茂の祭式にも比すべき荘厳なものであったとのこと。

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社殿は古びているものの、

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柱に彫刻された龍は見事なものです。

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三宅神社の縁起については、天正15年(1587)12月 の兵火、さらに文化7年 (1810)の大火によって旧記・宝物が焼失し詳らかにすることができないそうですが、社地は、旧称中笠狭に在って、都萬神社に対する「上の宮」と呼ばれていたと伝えられます。

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8月15日に行われる三宅神社の国家安穂祭は、都萬神社から御神幸が到着した後に開催されており、さらに都萬神社の祭札も三宅神社の神霊御幸があったそうです。そして両神社間の御神幸道は、今も御幸道と称されています。

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このようなことから、当社は古来より重く祀られていたことを窺うことができます。

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拝殿の上にあるこれ、宝珠のように見えます。
これをみて思い浮かんだのは

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佐賀基山の葛城神社のこれ。
これをみた時、僕はまさに蜘蛛のようだと思いました。
また福井の若狭彦・若狭姫神社の神紋は

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「宝珠に波」の形をしており、これは干珠満珠を表していると云います。

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そしてこの若狭彦・若狭姫神社では豊玉姫を祭神としていました。

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そしてこれをみてどうでしょう。
波に浮かぶ干満の宝珠、それを蜘蛛のようなものが掲げています。
土雲と呼ばれた一族は宝珠を用いて月神を祭司した、豊玉姫の末裔であるということを、暗に現代に伝えているのではないでしょうか。

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日向国府のあった三宅神社の場所は、豊王国の重要な都であり、そこの姫巫女が「御刀媛」(みはかしひめ)だったのではないかと思われます。

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ついに土雲の本拠地を制圧して、豊族の正当なる末裔に自分の血を残すこともできた景行。
しかし彼はすでに大和から遠く離れた、西の都で生涯を終えます。

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そこで詠ったとされる「…大和し麗し」の歌。
実はこの歌は、古事記編纂のおりに柿本人麿が詠ったものというのが真実です。
古事記に記される和歌は、ほとんどが人麿の歌です。

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しかしそれは、景行帝の心情をよく詠った、人麿ならではの傑作であったと言わざるを得ません。

「愛しい我が家の方角から雲が立ち昇っている。大和は国の中で一番良いところだ。幾重にもかさなりあった青い垣根のような山、その中にこもれる大和のなんと麗しいことよ。命の無事な者は、幾重にも連なる平群山の大きな樫の木の葉を魔除けのかんざしとして挿しなさい。おまえたちよ」

この歌は「国偲び歌」(くにしのびのうた)と呼ばれていました。

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2件のコメント 追加

  1. nakagawa より:

    chirico さん、びっくりです。
    みやき町の葛城神社にある物とそっくり!!
    凄い発見ですね。
    しかも宝珠が干珠満珠を意味するとは。
    教えていただきありがとうございます。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      そうでしょ、面白いでしょ!
      nakagawaさんにも何か気づくことがあったら、ぜひ教えてください♪

      いいね: 1人

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