故(かれ)、其の国より上り幸(いでま)しし時に、亀の甲(せ)に乗りて、釣を為つつ打ち羽挙(はふ)り来る人、速吸門に遇ひき。
爾くて喚び帰せて問ひしく
「汝は誰ぞ」
答えて曰ひしく
「僕(やつかれ)は、国つ神ぞ」
又、問ひしく
「汝は、海道(うみぢ)を知れりや」
答へて曰ひしく
「能く知れり」
又、問ふ
「従ひ仕え奉らむや」
答へて曰く、
「仕え奉らむ」
故(かれ)爾(しか)くして、槁機(さを)を指し渡し、其の御船を引き入れて、即ち名を賜ひて槁根津日子(さをねつひこ)と号(なづ)けき。
[此は、倭国造等が祖ぞ]
- 『古事記』
大分、佐賀関半島の東側にある、黒砂(きさご)と真砂(まさご)の姉妹が岩になったというヒシャゴ岩の手前に、海の中へと延びる線路があります。
製造した漁船を作業場から運び出したり、修理する船を搬入するために設置されたこの線路、現在は錆び付いて朽ちかけています。
しかしその幻想的な情景が近年『千と千尋の神隠し』のシーンにも似ていることから、遠方から訪れる人も増えているとか。
所有者の渡辺さんは「地区の活性化につながれば」と線路に立ち入ることをとがめたりはしておりませんが、あくまでも自己責任で、けがをしないように注意して楽しんでもらいたいとのことです。
ノスタルジックな佐賀関の町。
そこの神山公民館近くに「椎根津彦神社」(しいねつひこじんじゃ)が鎮座しています。
狭い民家の間と抜けると石段と鳥居がありました。
拝殿は質素なコンクリート製。
これは狛犬なのでしょうが、原型がまるで留められていません。
潮風の風化力の凄まじさ。
主祭神は「椎根津彦命」(しいねつひこのみこと)。
合祀神として「武位起命」「稲飯命」「祥持姫命」「稚草根命」を祀ります。
『古事記』に次のような話があります。
神武天皇が北上してきた時、速吸門(はやすいのと)で、亀の甲羅に乗って釣をしつつ、打ち袖を振って近づいてくる男に出会いました。
そこで神武は彼を呼び寄せて質問しました。
「お前は誰だ」
その男は答えて言います。
「私は、国つ神ですよ」
また、質問します。
「お前は海の道を知っているのか」
答えて言います。
「よ~く知っております」
また、質問します。
「私に従って仕えろ」
答えて言います。
「仕えましょう」
そこで男は竿を指し渡して、神武の船を引き入れて、「槁根津日子」(さをねつひこ)と名を賜りました、とさ。
この槁根津日子が「椎根津彦」であり、日本書紀では「珍彦命」(うづひこのみこと)とされます。
また古事記のこの最後には「これは、倭国造等(やまとのくにのみやつこら)の祖先である」と注釈されていました。
珍彦というと富家伝承、及び和歌山の竈山神社古老は、神武のモデルの一人に当たる物部イツセを毒矢で撃った人物であると伝えます。
その珍彦がなぜ大分の速吸門におり、またもう一人の神武のモデルである物部イニエを助けた話になるのか。
丹後の籠神社(このじんじゃ)によると、「別名・珍彦・椎根津彦・神知津彦 籠宮主祭神天孫彦火明命第四代 海部宮司家四代目の祖」と伝えられており、「神武東征の途次、速吸門に亀に乗って現れた彼は、大和建国の第一の功労者として神武天皇から「倭宿禰」(やまとすくね)の称号を賜る。外に大倭国造、倭直とも云う」とあります。
籠神社境内には、亀の背に乗った倭宿禰の像もありました。
大和(倭)宿禰とは大和・初代大君「天村雲」と伊加里姫の間に生まれた「天御蔭」(あめのみかげ)のことで、海部家の祖であり、2代大君「沼川耳」の異母兄弟になります。
天御蔭は富家の「豊水富姫」を妃に迎え、「笠水彦」(うけみずひこ)を儲けました。
この富家の豊水富姫に「豊」の文字があり、笠水彦の孫娘が「宇那比姫」、そう由布の「宇奈岐日女」であり、豊玉姫の前身となるのです。
ここで言う「槁根津日子」=「椎根津彦」=『珍彦』(うずひこ)とは、紀伊国・高倉下の子孫の珍彦ではなく、天御蔭の皇子「笠水彦」(う[けみ]ずひこ)なのではないでしょうか。
海部系・天御蔭の子孫「宇奈岐日女」の一族は由布を拠点として宇佐家と習合し、豊王国を大分に築きます。
彼らは交通の要所で難所、さらに豊かな幸をもたらす速吸門に、海部の祖神を祀ったのではないか。
やがて豊王国に誕生した奇跡のカリスマ、女王・豊玉姫が魏に勅使を出し、親魏和王の称号を得ました。
彼女が邪馬台国の女王・卑弥呼です。
しかし記紀の編纂において豊王国の存在は徹底的に消され、関連する各神社の祭神や由緒もことごとく書き換えられました。
なんとか真実の歴史の片鱗を残したいと考えた柿本人麿は、古事記に龍宮の乙姫として豊玉姫の名を書き記したのです。
椎根津彦神社の本殿裏は、とても濃い神氣が漂っています。
その上を見上げれば、
鎮守の杜に一際高く聳える御神木の姿が見えていました。
椎根津彦神社はどことなく出雲的な雰囲気がします。
当社は黒砂・真砂にゆかりの「早吸日女神社」(はやすひめじんじゃ)とほど近い場所に鎮座しており、椎根津彦と土雲の彼女らと、浅からぬ関係性を感じるものです。
釣りをしながら大亀に乗ってやってきたという椎根津彦は、事代主や浦島太郎にイメージが重なり、速吸門を守る龍宮・豊王国の首長であったと思われてならないのでした。