糺ノ森(下鴨神社)

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京の鴨川を上流に向かって進むと、賀茂氏の氏神を祀る神社として古来より信奉されてきた二つの神社があります。
通称「下鴨神社」「上賀茂神社」と呼ばれるそれらの聖地は、日本最古の神社の一つと呼称され、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産にも登録されています。
まずはその下鴨神社から、足を伸ばしてみます。

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下鴨神社は正式な名称を「賀茂御祖神社」(かもみおやじんじゃ)と言います。
訪れてまず驚くのが、長い参道と、それを覆う豊かな杜です。

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この杜は「糺ノ森」(ただすのもり)と呼ばれ、鴨川と高野川が合流する地点に、ニレ科の植物を中心とした原生林が広がっています。
およそ12万4千平方メートル(東京ドームの約3倍)の面積があるといわれ、その全域が下鴨神社の敷地となります。
1994年(平成6年)には下鴨神社全域が世界遺産に登録されました。

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この糺ノ森は、市民の憩いの場にもなっており、早朝に多くの人がラジオ体操をしていました。

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杜の中を流れる小川のそばには、太古の祭祀跡もみつかっており、古くからこの場所が神聖視されていたことが伺えます。

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また、有名な葵祭の際には、ここで流鏑馬も行われるそうです。

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糺ノ森に入ってすぐ左側に、「河合神社」があります。

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下鴨神社の摂社で「女性守護 日本第一美麗神の神社」と云われています。

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「瀬見の小川」を渡り、

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神門に着きます。

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神門の向かいには「三井社」がありました。

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この神社の御祭神は下鴨神社でも祀られている「玉依媛命」(たまよりひめのみこと)です。

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玉依媛は「日本第一美麗神」と呼ばれ、女性を守護する美しい女神だと云われます。
玉依姫といえば記紀では龍宮の姫で、豊玉姫の妹であり、鵜葺草葺不合尊の乳母にして妻となった女性と記されています。
しかし古史を紐解くと、実在した豊玉女王(ヒミコ)に対して、玉依姫が実在したという話は見当たりません。

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玉依姫とは、各地の産土神の姫神を表しているのかもしれません。

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本殿には一緒に「高龗神」(たかおかのかみ)を祀る「貴布禰神社」(きふねじんじゃ)と、

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「八咫烏命」(やたがらすのみこと)を祀る「任部社」(とうべのやしろ)が鎮座します。

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他、敷地内には「六社」(むつのやしろ)の他に、

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「長明の方丈」と呼ばれる小屋があります。

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これは鎌倉時代の随筆家「鴨長明」(かものちょうめい)の小屋です。
鴨長明は50歳の時、全ての公職から身を引き隠遁して、世の無常と人生の儚さを隨筆「方丈記」として記します。

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「石川や 瀬見の小川の 清ければ 月も流れを たづねてぞすむ」
この方丈は、転々と流浪した長明が住まいとした小屋で、移動に便利なように組み立て式になっているそうです。

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再び糺ノ森を歩きます。

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途中、「雑太社」(さわたしゃ)という社がありました。

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御祭神は「神魂命」(かみむすびのみこと)で、元は、雑太という字地に御所の鎮祭社として祀られていた神社だそうです。

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楼門が見えてきました。

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最後の鳥居を過ぎて、楼門の手前左手に「相生社」(あいおいのやしろ)があります。

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御祭神は「産霊神」(むすびのかみ)で、「相生」と言う言葉が「めでたい」という意味を持つようになったのはこの神社が由縁だと云います。

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相生社の横には京の七不思議と伝わる「連理の賢木」(れんりのさかき)という縁結びの御神木があります。

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表からはよくわかりませんでしたが、

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裏に回ってみると、2本の神木が枝で1本に繋がっています。
根元が繋がっている夫婦の木はよく見かけますが、枝が繋がっているのは珍しいです。
良縁をいただけるというのも、納得です。

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いよいよ下鴨神社の再奥部にやってきました。

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が、そこで杜の右手に入ってみます。

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そこに「烏の縄手」(からすのなわて)という細道がありました。
「八咫烏」(ヤタガラス)の聖地を参拝する、細道の一つを復元したものとあります。

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八咫烏とは、主祭神の「賀茂建角身命」(かもたけつぬみのみこと)の別名になります。
古代大和王朝の中期、筑紫の物部族が四国の外海を経て、和歌山から大和入りをしようと試みます。
しかし熊野にて、リーダーの一人「五瀬」(いつせ)は、紀伊国国造「高倉下」(たかくらじ)の子孫「珍彦」(うずひこ)らの毒矢攻撃を受け、亡くなってしまいます。
残る「稲飯」と「御毛入」は大和の磯城へ密使を送り、出雲王家の子孫「登美家」(とびけ)の「加茂建津之身」(かもたてつのみ)に道案内を頼みました。
加茂建津之身は混乱期の大和磯城王朝をまとめるのに、熊野にいる物部軍の力が必要だと考え、これを先導して熊野川沿いに進み、無事に磐余(いわれ)の地に行き着いたと云います。
感謝した物部軍は加茂建津之身の「加茂」が「鴨」の音に似て鳥を連想させたことから、中国の太陽に棲む聖鳥「八咫烏」の名で讃え、末代まで感謝したと云う事です。

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垣根に区切られて、奥に続く道がありました。

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そこは何やら、他の場所とは違った、神々しい気に満ちています。

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杜の中にあったのは「奈良殿神地」(ならどののかみのにわ)、そして「船島」と呼ばれる場所でした。

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12世紀後半のものと思われる祭祀の遺構です。

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昔はここで葵祭の前などにお祓いの神事が執り行われていたと云います。

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ここは太古の息吹を感じる場所でした。

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