那津官家と水城の桜:語家~katariga~ 04

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日本最初の国難と言える「白村江の戦い」の大敗。
この時、中大兄皇子が造らせた日本の最大防衛施設、それが「水城」でした。

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九州に大宰府ができる以前、筑紫国を管理する役所は海寄りの那の津にありました。

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昭和59年(1984年)と平成12年(2000年)の二度にわたる発掘調査の結果、那の津に3本柱の柵に囲まれた大規模な倉庫群が発見され、平成13年(2001年)に国史跡として指定されました。
それが比恵遺跡「那津官家」(なのつのみやけ)です。

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しかしその遺跡があるはずの場所は、街中の小さなグランドのようになっていました。

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仕方ないので、そこに掲げられている案内板から、往時の風景を読み取るしかありません。

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「官家」(みやけ)とは屯倉、三宅、御宅などと表記されるように、家・宅や倉、水田などが付属し、朝廷の直轄地を意味するものとされています。

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九州は古来から、大陸との貿易の玄関口として栄えていました。
那津官家は『日本書紀』に、宣化元年(536年)「修造官家、那津之口」と書かれており、帝は非常に備え、那津に各地から集めた食料を保管する官家を造らせた旨が記されています。

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大和朝廷は他にも、筑紫・豊国・肥国などの各所にミヤケを置いており、この頃九州の支配を進めていたことが窺えます。
それは継体21年(527年)に起きた、筑紫君磐井の乱という大きな教訓によるものでした。
つまり外交、軍事面での重要な拠点という意味でも、この那津官家を設置したのです。

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しかし那の津という場所は、外交には適した場所でしたが、逆に外敵からの防御性に欠けていました。
海外から唐という大国が日本を攻めてくる危機的状況において、まず死守するべきは那津官家、それで中大兄皇子はこれを山に囲まれた奥地に移すことを計画しました。
これが大宰府です。

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大宰府は確かに山に囲まれ、博多方面からは大野城、有明海方面からは基肄城が目を光らせる防衛都市となりました。
しかし博多方面には大きな平地が広がっています。

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そこを防衛するために築かれたのが「水城」(みずき)です。

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日本の万里の長城と呼んでもよい、この歴史的建造物を、国道や高速道路がぶち抜いています。
もちろんそのおかげで、僕ら福岡県民は暮らしの便利さを享受しているのですが、歴史とこれを造った人々への敬意を、もう少し僕らは持つべきだと思います。

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水城の規模は長さ約1.2km、基底部約80m、高さ約9m。
さらに外堀が設けられており、その水深は約4mあります。

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大宰府側の内堀は幅4.5m~10mの環状遺構、博多側の外堀は幅約60mあり、御笠川の水門を開けば、堀に水が貯えられるように造られています。

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これほど大規模でテクニカルな建造物を、なんと中大兄は、白村江の大敗の翌年には完成させました。
そこには膨大な人の手と努力がかけられていたといいます。

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水城は単なる土盛りに過ぎないのですが、築城後1350年の今も、その完璧に近い姿で残り続けています。
それは真砂土、粘土、砂、枝葉などを細かな層として突き固めて造られたからに他なりません。

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水城の土塁は、真砂土と粘土を交互に突き固める版築工法によって土砂崩れを防ぎ、樹木の枝葉を敷き詰める敷粗朶工法によって地滑りや地盤沈下を防ぎました。

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百済の構築技術が導入され、水城建築には1日当たりの作業員が3500人、1日の作業時間は11時間、作業日数は319日がつぎ込まれています。

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水城を始め、1~2年のうちに次々と築かれた山城、その築造のために日本中の男衆が駆り出されました。
中には父子家庭であろうと幼い子と父親も引き離されたという歌も残されています。

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これほどの犠牲の上に生まれた水城ですが、白村江の戦いの時も、また元寇の時も、ここまで敵が攻め入ることはなく、その真価が発揮されることはありませんでした。
桜と菜の花、コスモスが咲き乱れる水城は、今の国難をどのような思いで眺めているのか。
春の桜は少し憂いを帯びて、僕の目には映っていました。

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4件のコメント 追加

  1. KYO より:

    こんばんは。
    記事もblogもゆっくりじっくり読ませて頂き中です(^-^)
    白村江と言えば額田王の「熟田津に〜」の歌を思い出しますが、水城といえば、万葉集の防人の歌ですね。
    道路が横断して作られている写真は、まさに百聞より一見どなぁと思いました。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      KYOさん、ありがとうございます♪
      水城はあまりに当たり前にそこにあって、歴史に興味を持つまでまるで意識していませんでした。
      近くの丘の上から俯瞰してみると、びっくりですよね。
      本は精一杯書いたのですが、完全燃焼仕切れなかった部分をブログで補っています。
      最初から狙っていたわけではありませんが、結果として、本とブログで完全なる『人麿古事記と安万侶書紀』の世界を体験できるものとなりそうです。

      いいね: 1人

      1. KYO より:

        あの時代が大好きなので楽しみにしています(^-^)
        先週長野に行って来たのですが、神長官守矢資料館にも寄って来ました。

        いいね: 1人

        1. CHIRICO より:

          あのエグい剥製を見られたのですね😅
          でも貴重な資料館です。
          長野にも行きたい♪

          いいね: 1人

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