志賀海神社〜神功皇后紀 21

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奈多の浜では夜通しかがり火が焚かれ、一人の女が舞を踊っていた。
その周りには数人の人影がある。
そのうちの一人は神功皇后であり、武内宿禰であった。

夜空に星は出ているものの、明かりは乏しく、海原は漆黒の闇に見えた。
やがて空が白み始める。
すると、先ほどまでは分からなかったが、海原に一隻の小舟が浮かんでいるのを武内宿禰は見た。

「やれやれ」

小舟の上の人物は深く布を被り、呆れ半分、諦め半分といった面持ちでそうつぶやいた。
顔は隠れて良く見えないが、かすかに見える口元は醜いひび割れのようなしわが寄っていた。
長い海洋生活による潮風と紫外線は、この老人の肌を醜くひび割れさせていたが、
体は壮健で年齢を感じさせない。
この男こそ安曇族の生き神、遠く大和まで伝説を馳せた怪人「安曇磯良」だった。

磯良は確かに、一族の将来を担う「高麿・助麿」を失った時、この荒ぶる姫の群行に加担する気はなくなっていた。
一族の存亡を考えるなら、むやみな争いには手を貸さず、粛々と優秀な子孫を残していけばいいと思っていた。
もとより「高麿・助麿」が大王の元に馳せ参じるのを不安に感じていたのだ。
しかし王を失った女が、皇后とはいえまだ幼さも残るような姫が群臣を従え、あの羽白熊鷲や山門の一族に打ち勝った話がこの老人の耳にも届いていた。
その話が佐賀にいる孫娘の巫女からもたらされ、その後も様々な土地で神がかった祭祀を行っているという。
そのうちにこの老人には皇后に興味が湧き、力を貸しても良いという思いが湧き始めていた。

が、面白くない話もあった。
皇后の重臣である「武内襲津彦」という男、よりによって愛しい我が孫娘と恋仲になっているという話を聞いた。
それも孫娘、当の本人が嬉しそうに話すのが、面白くなかった。
そして度々海を渡って、自分を説得に来る男がこの男だっがのが、さらに面白くない。

「少し焦らしてやろう」

そう思っていたら、この男はとんでもない事をしでかしてくれた。
奈多の浜で舞を舞う女は、孫娘の「世田姫」、綿津見の乙姫「豊玉姫」の再来と謳われるその姫だった。
武内宿禰は苦慮の末に、世田姫を呼び寄せ、舞を舞ってくれるよう頼んだらしい。
切り札を使われてしまった老人は、小舟を浜に寄せ、皇后の元へと参じることにした。

「姫様、私の顔は醜くひび割れておりますので、布で覆い隠す事をお許しください。
以後、貴方様のために、この翁の持つ全ての財と知恵を尽くさせていただきましょう。」

「磯良よ、私もそなたには辛い思いをさせてしまいました。許しておくれ。
せめてそなたが憂う子孫の繁栄のためにも、私と年の近い世田姫を、私の妹として契りを交わしましょう。
そうすれば大和は安曇の一族をより一層、大切に守っていくことでしょう。」

「ありがたきお言葉。
この老人めも必ずや、姫様の大望を成し遂げられますこと、一族を代表してここに保証いたします。」

磯良はわずかに覗く隙間から、美しいと評判だった皇后の御顔を拝した。
とおもむろに皇后は一言、一層柔らかな笑顔を添えて告げてきた。

「まあ、襲津彦のことは、大目に見てやってくれ。あれも良い男だ。」

(やれやれ)
再び磯良はそう心の中でつぶやかずにはいられなかった。
この姫にも一杯喰わされたか、そう思いはしたが、それはなんとも穏やかで、ときめきさえ入り混じる爽やかな心もちだった。

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【綿津見神社】
先の話になりますが、神功皇后は新羅に向けて出港し、対馬を出たところで大嵐に遭い、危機に陥ります。
その時船にあった三枚の苫(とま)を海へ捧げ、「これが流れ着いたところに社を建てお祀り致します」と海神に祈ります。
するとたちどころに波風は治まり、征韓の大業を成し遂げられたといいます。

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その三枚の苫が流れ着いた場所が福岡市東区の「三苫」と言います。

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そこには海神を祀る「綿津見神社」(わだつみじんじゃ)がありました。

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苫とはスゲなどで織ったムシロのようなものです。
これで供物を包み、海へ流したようです。

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境内には神仏習合の名残として「八大竜王社」の石の扁額が残されています。

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また海の神様にふさわしい、貝殻も多数奉納されていました。

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境内の脇から小道を進めば、

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美しい海岸に出ます。

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ここが三枚の苫が流れ着いた海岸です。

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遠くには相島も見えました。

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【志式神社】
志賀島から続く美しい海岸線に「奈多の浜」があります。
その先に「志式神社」(ししきじんじゃ)がありました。

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とても静かな雰囲気のある神社です。

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ここでは「火明神」(ほあかりのかみ)、「火酢芹神」(ほすせりのかみ)と共に「豊玉姫神」が祀られていました。

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豊玉姫は記紀の中では「龍宮の乙姫」として次のように記されています。
龍宮にやってきた「山幸彦」と恋仲になり、「鵜葺草葺不合尊」(うがやふきあえずのみこと)を出産します。
しかし出産の際、姿を見ないように約束をした山幸彦は約束を破って豊玉姫の真の姿を見てしまいます。
それは「鰐(鮫)」の姿の姫でした。
そのことを恥じた姫は龍宮へと帰って二度と丘へは戻ってきませんでした。

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記紀が隠した本来の豊玉姫とは、かつて豊前宇佐にあったとされる、いわゆる邪馬台国の女王「卑弥呼」のことでした。
それは「豊王国」と呼ばれ、日向から山口長門方面までを支配した強大かつ、出雲王国に並ぶ古い王国でした。
それらがあったとされる場所には、「豊」の字がついた地名が今も多く残っています。

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豊王国は、やがて渡来してくる秦の一族「物部氏」と和合ます。
そしてこの豊王国と物部族の連合軍が東征し、畿内の大和王国を攻めるのです。
この辺りの史実を神話化したものが先の記紀に語られる豊玉姫と山幸彦のロマンスであり、神武東征の話になっているようです。
また豊玉姫の本来の姿が「鰐」(わに)もしくは「鰐鮫」として語られているのは、神功皇后の話の序盤にもある「熊鰐」率いる「鰐一族」と繋がりがあるのかもしれません。

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さて、龍宮とは安曇族の聖地であると云います。
その安曇族の偉大な長が「安曇磯良」(あずみのいそら)であり、まさに神のような存在でした。
この後の神功皇后の航海になくてはならない人物ですが、当初なかなか姿を現さず、協力を惜しんでいたようです。

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安曇族は、その祭神をみると、豊王国と物部族の連合から生まれた一族であると思われます。
物部は支那秦国の渡来人ですが、神功皇后は朝鮮の辰韓(新羅)からの渡来人「天日槍」(あめのひぼこ)の子孫でした。
豊・物部連合東征の時、物部イクメ王は天日槍の子孫「田道間守」(たじまもり)に協力を要請しましたが、独断気味に東征を先行した田道間守は、あたかも自分が王のように振る舞い、イクメ王は裏切られた形となりました。
なので磯良は当初、同じ天日槍の子孫である神功皇后を軽んじていたのかもしれませんし、また有望な若者「高麿・助麿」を先に失い、一族の存亡を憂いていたのかもしれません。

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志式神社に伝わる「磯良舞」という神楽では武内宿禰が干珠満珠の珠をもらいうけようと磯良神に祈る様子があります。
しかしなかなか磯良はこれをよしとしません。
そこで「豊姫」が代わりに見事な舞を披露すると、磯良は感じ入って、約束の珠を授けたといいます。

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豊姫は神功皇后の妹だとか、武内宿禰の妻だとか伝わる姫です。
豊玉姫女王の娘に「豊姫」(豊鍬入姫)がおりますが、時代的にも合わないので彼女のことではないと思われます。
佐賀の「與止日女神社」(よどひめじんじゃ)では豊姫とは「世田姫」(よたひめ)の事と伝わり、「豊玉姫」として祀られています。
僕はこの豊姫は世田姫のことであり、磯良の孫娘であるという設定にしてみました。

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磯良舞で舞を見た磯良は、亀に乗って現れたと伝わります。

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その亀が石になったという「亀石」が境内にありました。

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亀石は志賀海神社にもありますが、こちらの石は苔むして、ちょっとツチノコのような形をしていました。

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【志賀海神社】
さて、太古より「天の架橋」のような砂州が伸びる海の中道の先にある島、「志賀島」。
それは安曇族、そして安曇磯良の最大の聖地でした。

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そこにあるのが「志賀海神社」(しかうみじんじゃ)です。

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境内の入り口には「御潮井」(おしおい)があります。
清めの砂を体の左右に振って気を整えるためのものです。

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参道を行くと神聖な雰囲気の中、楼門が見えて来ます。

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楼門の手前には山の神「大山津見」の社があり、ここにオコゼやアラカブを供えると、そのブサ可愛さに快く願いを叶えてくれるといいます。
海の神の門前に山の神が祀られていることに違和感を感じますが、物部の祖を山の神としてここに祀っているとすると納得がいきます。

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この山の神のそばには隠れた御神木があります。

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手前の木の枝が奥の木の隙間を突き抜けて折り返しています。
こんな絡み方、見たことがない。
しっかりと結びついて、縁起が良いそうです。

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また、枝を違う方向から見ると、鹿の角のように見えます。
社務所の女性に教えていただいた御神木ですが、その方の撮った写真は、光が差し込んでいて、それが不思議な万華鏡のような写り方をしていました。
よく無理やり逆光に撮って、あたかも神秘的だと言わんばかりの似非オーラ写真を見かけますが、それはそこらの写真とはちょっと違ってました。

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神さびた、素晴らしい楼門です。

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渡ることはできないのですが、年月を経た石橋も美しい。

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志賀島は「龍の都」と言い伝えられ、此所こそが「龍宮」であると伝わります。

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この地を拠点に活躍していた一族「安曇族」(あずみぞく)は、古くから列島や大陸を行き来し、玄海の海を統べていました。
志賀海神社の「山誉祭」は国家「君が代」の祝詞を用いた珍しい祭になります。

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安曇族の祖神は綿津見三神(わたつみさんじん)であり、
「底津綿津見神」(そこつわたつみのかみ)
「仲津綿津見神」(なかつわたつみのかみ)
「表津綿津見神」(うはつわたつみのかみ)
の三柱となります。
またこちらでは相殿に「玉依姫」が祀られています。

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記紀では、綿津見三神は黄泉の国から無事帰ったイザナギが禊を行った際に生まれた神であり、「住吉三神」と交互に一柱ずつ生まれたとされます。
大元出版にある、出雲王家直系の末裔「富家」の伝承を読み進める中で、安曇氏が祀る綿津見の神とは、徐福とともに渡来した数千の童男童女の霊だと語られています。
当時の船で玄海の荒海を渡ることは命がけであり、当然海底に呑み込まれた命も多かったことでしょう。
そうした霊を祀る神社が徐福が上陸したと伝わる佐賀や出雲を中心に「海童神社」(かいどうじんじゃ)という名で残っています。
ワダツミを漢字にするとき、綿津見、海神、海祇などと表記しますが、海童もまたワダツミと呼ばせることがあります。

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徐福の民は筑紫の里で帰化し、物部族となりますが、安曇族の間には深い繋がりがあるように感じます。

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境内には「鹿角堂」(ろっかくどう)という建物があり、

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中には一万本以上の鹿の角が奉納されています。

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そして鹿角堂の上には、まるで鹿の角を思わせる木の枝が垣間見えていました。

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ここにも「亀石」という霊石があります。

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安曇磯良が乗ってきたと云われる亀です。

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境内の裏手にある「今宮神社」では安曇磯良と一緒に住吉三神が祀られています。

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綿津見神と同時に生まれた住吉神は
「表筒男命」 (うわつつのおのみこと)
「中筒男命」 (なかつつのおのみこと)
「底筒男命」 (そこつつのおのみこと)
の三神のことですが、この「ツツ」というのは、徐福が信奉する道教の「星の神」のことだという話もあります。

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出雲系の大己貴神(大名持)と少彦名神(少名彦)を祀る磯崎社には、意味ありげな石が祀られています。

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その先、裏の杜は樹勢も素晴らしいのですが、そこにある竹林に神功皇后の伝承が残されていました。

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「長生竹」(ちょうせいちく)と呼ばれ、皇后が船に立てられていた旗竿を地面にさしたらそれが成長して竹林になったと伝わります。
その竹は節と節の間が普通のものよりも長くなったそうです。

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素晴らしい神気を感じる志賀海神社ですが、実は現在の社は元々志賀島の先端にあった「表津宮」(うわつぐう)を磯良が今の場所に移したということです。

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神社から頂いたパンフレットの地図をには、島の先端に「表津宮跡」とありました。
そして「仲津宮」「沖津宮」の文字が見えます。
さらに「小戸」と「御手洗」の文字。

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「掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
 御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等
 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ 清め給へと白す事を
 聞こし食せと恐み恐みも白す」

黄泉の国から逃げ戻ったイザナミが禊ぎ体を清めた「小戸の浜」です。

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記紀では「綿津見三神」「住吉三神」「アマテラス・ツクヨミ・スサノオの三神」は小戸の浜で生まれたとあります。
その御手洗の浜に綿津見三神を祀るそれぞれの宮がある(あった)のです。

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かつての志賀島には陸路は無く、舟で玄海の荒波をかき分けて、聖域まで訪れなくてはなりませんでした。
僕はまず「表津宮跡」(うわつぐうあと)を訪れてみようとしましたが、ほとんど標識などはありません。

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なんとなく気配で入り込んだところに、やっと標識がありました。

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そしてたどり着きました。

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後から植えたであろう木が1本あるだけの神籬ですが、身震いが止まりません。
ここは確かに、聖域の残滓が感じ取られます。

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かつては今のように車で簡単に島を周回はできなかったことでしょう。
荒波の中、舟で行くか、険しい崖と森の中を行くか。
それで磯良はもっと参拝しやすい場所に聖地を移したのだと思います。

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「仲津宮」(なかつぐう)は古墳にありました。
鳥居には「勝馬宮」とあります。

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しばし上ると

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拝殿があります。

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潮風に耐えうるようコンクリート製。

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ここもなかなかな聖地です。

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今までこんなところ知りませんでした。

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奥に遥拝所があります。
沖津宮の遥拝所でしょう。

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上ってきた反対側に道があります。

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反対側からの入り口はもう、そこに何があるのかさえ察することができません。

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さてその先にある小さな島に鳥居が見えます。
あれこそが「沖津宮」(おきつぐう)。
神の島にふさわしい、神聖な場所です。

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ついに安曇磯良の心をも解きほぐした神功皇后は、いよいよ新羅へ向けて出航していきます。
激しい航海となるのですが、宗像三女神、住吉三神に続いて綿津見三神の加護も得た皇后に、もう惑いはありませんでした。

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とこの先はあまり公になっていないので、きっと聖地として大切に守られているのだと思います。
決して軽はずみな気持ちで訪れてはいけない場所だと思い、ひっそりと公開させていただきました。
「沖津宮」です。

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この聖地へは大潮の日の干潮時に歩いて渡ることができます。

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歩いて渡ることができると聞いてました。

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確かに歩いて渡れそうです。
ただしこの冷たい海水に足を浸して行けばです。

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今日は2月半ばです。
しかしこれも禊ぎのひとつ、身を清め、心を清める気持ちで裸足を海水に浸し、海を渡ります。

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やや低い鳥居があります。

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小さな参道を上ります。

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そして石塔の跡の先、

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ありました。

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凛とした佇まいです。

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供えられたお賽銭は潮風で錆びています。

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綺麗な五円は僕のお賽銭です。

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名からして「底綿津見神」を祀っているのでしょう。

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しかし宗像でもそうでしたが、こうした閉ざされた島にある神を見ると、僕はちょっと思ってしまいます。
「お寂しくありませんか?」と。

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「美」こそ「神」である、というのが僕の持論です。
そして「美」を知るということは「愛しい」ことであり「孤独」なことでもあります。

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しばしその光景に愛しくも切ない想いに耽り、後にしました。

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古代筑紫三海人族という人たちがいました。
安曇族から派生したとも言われる「住吉族」はかつて海に面した博多那の津の「住吉神社」を拠点に那珂川の「現人神社」などを聖地とし、
やがて瀬戸内海を渡って大阪の「住吉大社」を新たな拠点としたらしいです。
「宗像族」はそのまま宗像の地で繁栄を続け、玄海の海を統べていきます。

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安曇族については謎が多く、「金印」にまつわるものを含め様々な議論がなされています。
志賀海神社は全国綿津見神の総本宮とされていますが、やがて安曇族はこの地を離れ、なぜか海のない内地を目指します。
それは大和の威光を借りつつも、独自の聖地をもとめて彷徨っているようです。
その場所は安曇野、渥美、熱海、安住、滋賀、志賀などの地名でその名を残すことになり、
その中でも信濃の安曇郡にある「穂高神社」は綿津見神の新たな聖地として今に続いているのです。

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