森之宮から南に数百メートル、そこにある「玉造稲荷神社」も、上宮太子とゆかりある神社であると云われています。
当社の創始は古く、社伝によれば、垂仁天皇18年(紀元前12年)に創建され、当時は比売社と称していたとされます。
富家の伝承では、当地には昔、玉造工房があり、出雲富家の分家である「忌部家」が玉造をしていたと云います。
玉造は継体大王も行っていて、その子孫である上宮太子も、忌部家と少なからず関係があったらしいとのことです。
主祭神は「宇迦之御魂大神」(ウカノミタマ)となっており、相殿神として「下照姫命」(シタテルヒメ)らが祀られています。
当社の祭神は「古くから五幸稲荷大明神(ごこういなりだいみょうじん)として崇敬者に慕われており、伏見稲荷大社の分霊を直接祀らない稲荷社である」とされています。
江戸時代には創祀の古さから、地元では「元稲荷」(もといなり)と呼ばれていました。
これについては、豊臣秀吉が稲荷の信仰者であったことなどが絡んでいるようです。
境内に豊臣秀頼公の像があります。
当社は豊臣時代には大坂城の鎮守神として祀られており、特に豊臣秀頼公および淀殿らの崇敬が篤かったと云われています。
まるで地中に埋まっているように見える鳥居があります。
この鳥居は慶長8年(1603年)に豊臣秀頼公より奉納され、大阪での石製鳥居としては四天王寺の西の鳥居と共に古いものと云われているそうです。
半身なのは、阪神・淡路大震災により鳥居の下半分が壊れためだということです。
境内の白龍池に白龍観音が出現したことをきっかけに弁才天を祀った厳島社や、
新山稲荷神社、万慶稲荷神社などの境内社が並びます。
その一角に、「胞衣塚大明神」(よなづかだいみょうじん)があります。
この社は、豊臣秀頼の胞衣を祀る社であり、当初は大坂城三の丸に当たる現在地に胞衣が埋められ、その後は豊臣家を慕う当地の人々により密かに祀られていたとされています。
「胞衣」(えな)とは胎盤のことで、大阪では「よな」と読まれるため、それに因んで「よなづか」と呼ばれています。
江戸時代には伊勢参りの出発点ともされていた当地。
昔からここが重要な聖地であるということが認識され続けていたのでしょう。
拝殿横にある「利休井」(りきゅうい)は、豊臣秀吉に仕えた千利休の屋敷にあった井戸であると考えられており、伝承によれば古くより「玉造清水」と呼ばれる良質の水が湧き出ていたとのことです。
『日本書紀』には、物部氏との戦の際、蘇我側に立った聖徳太子が玉作岡に布陣して戦勝を祈願し、戦勝後当地に観音堂を建てたと記されています。
四天王寺がの現在地に移された後も、僧侶は森之宮の祭りには参列し、同じく森之宮の神主が四天王寺の縁日の儀式に参列したと云います。
これは、「神仏習合」の初めであったと言えます。