淡路が偉大な島である根拠の1つ、「伊弉諾神宮」(いざなぎじんぐう)を訪ねてみました。
伊弉諾神宮は兵庫県淡路市多賀にあり、淡路国一宮を謳います。
所在地はかつて一宮町と呼ばれ、それは当社に由来します。
伊弉諾神宮は今も「一宮さん」(いっくさん)「伊弉諾さん」の愛称で親しまれています。
鳥居両端にある大きな石灯篭には、右に「修理」、左側に「固成」と刻まれていますが、これは古事記の国生み神話で、天の神々が、イザナギとイザナミに、国土をあるべき姿に整え(修理)、固めよ(固成)と命じた言葉を意味します。
大祖神たるイザナギ・イザナミの両神が最初に造った島・淡路島に鎮座する一宮。
第2次世界大戦後の1954年(昭和29年)に、昭和天皇の「神宮号」の宣下によって「神宮」を名乗る全国24社のひとつとなりました。
また、伊弉諾神宮の神位は一品という極位ということで、とても格式の高い神社なのです。
整然と石灯籠が並ぶ参道を進むと、
美しい社殿が見えてきます。
神門の手前にある、立派な大石の手水。
これは豊臣秀吉が大阪城築城のために全国より集めた巨石が、誤って郡家浦の沖合いに沈んでしまったものと伝えられ、江戸時代の末期に、氏子が引き上げて手水鉢として奉納したと云います。
手水舎の向かいにあるのは「放生の神池」と呼ばれます。
古くは放生神事が行われており、病気平癒や不老長寿のため、命乞として「鯉」を、快癒の感謝として「亀」を放つ信仰習慣が今も続きます。
実は伊弉諾神宮の建つ場所は元は神陵であったと云い、この放生の神池はその神陵にあった堀の遺構とされています。
神池の奥には茶室もありました。
神門をくぐると、すぐに拝殿があります。
伊弉諾神宮の祭神は、「伊弉諾尊」(いざなぎのみこと)と「伊弉冉尊」(いざなみのみこと)となっています。
両神は日本神話の国産み・神産み神話に登場する神。
女神であるイザナミは、多くの神を産みますが、最後に火の神「カグツチ」を産んだことがきっかけで亡くなり、黄泉の国へと旅立ちます。
彼女を連れ戻すべく黄泉の国へ追った男神のイザナギは、真っ暗な中でイザナミと出会います。
イザナミはイザナギと現世へ帰れるよう、黄泉の神々と相談してきますと告げますが、その時決して中を覗かないよう、イザナギへ念押ししました。
しかしイザナギはイザナミとの約束を違えて、つい中を覗いてしまうのです。
そこにあったのは腐敗して虫が湧いた、おぞましい姿のイザナミの姿でした。
「私に恥をかかせましたね」
怒ったイザナミは、恐れ慌てて逃げるイザナギを追いかけます。
なんとか逃げ切ったイザナギは黄泉の入り口に大きな岩で蓋をしました。
この岩は「千引の岩」(ちびきのいわ)と呼ばれます。
うまく逃げおおせたイザナギが、池で体を洗った時、生まれた神が「アマテラス」「ツクヨミ」「スサノオ」の三貴神です。
他にも多くの神々を産み終えたイザナギは、三貴神の一柱「天照大神」(あまてらすおおみかみ)に国家の統治を委譲すると、夫婦で最初に生んだ思い出の淡路島の「多賀」に「幽宮」(かくりのみや)を構えて、余生を過ごしました。
拝殿から本殿の奥をよく見てみると、
本殿真ん中に、柱のようなものが祀ってあります。
本殿裏側には石が祀ってあるそうですが、愚か者が油を巻くという事件があったため警備が強化されているようで、警報が鳴ると嫌だったので遠目に参拝しました。
そして先にも記したように、元はここは御神陵だったと云います。
放生の神池と、本殿裏の湿地の杜はその遺構だそうです。
記紀ではイザナギとイザナミは最初に「淤能碁呂島(おのごろじま)」に降り立ち、ここから
1.「淡道之穂之狭別島」(あはぢのほのさわけのしま):淡路島
2.「伊予之二名島」(いよのふたなのしま):四国
3.「隠伎之三子島」(おきのみつごのしま):隠岐島
4.「筑紫島」(つくしのしま):九州
5.「伊伎島」(いきのしま):壱岐島
6.「津島」(つしま):対馬
7.「佐度島」(さどのしま):佐渡島
8.「大倭豊秋津島」(おほやまととよあきつしま):本州
の八島を最初に生成したと記します。
このことから、日本を「大八島国」(おおやしまのくに)と呼ぶようになりました。
イザナギ大神が様々な大業を成し得た後、余生を過ごた終焉の御住居「幽宮」、
そのイ幽宮跡に御神陵が造営され、今は神社となっていることになります。
三間社流れ造向拝付の本殿には、神陵の数十個の聖なる石が格納されているそうです。
本殿裏から見える石というのも、その1つでしょう。
元の御神陵は禁足の聖地であったと云い、その神域の周囲は常に霧で覆われていたと伝えられています。
また2004年には、当地から平安から鎌倉時代の伊弉諾尊の神像9体が発見されています。
伊弉諾神宮の境内を散策してみます。
風情ある茅葺寄棟造りのこの建物は神輿庫になります。
当社の祭神は、「伊弉諾尊」「伊弉冉尊」の二神となっていますが、『幽宮御記』に祭神は「伊弉諾尊一柱也」とあり、本来は伊弉諾尊のみを祀っていたと考えられています。
この伊弉諾尊(いざなぎのみこと)とはどういった神だったのか?
出雲王家の伝承によると、イザナギノミコトとはクナト神のことであると云います。
日本でもう一箇所、伊弉諾尊の幽宮と伝わる場所に、滋賀県の「多賀大社」がありますが、こちらで祀られるイザナギノミコトは、元はクナト大神であると出雲王家直系の子孫「富氏」は語ります。
では当社の祭神もクナト大神なのか。
そう話は簡単では無いようです。
確かに淡路島は古代出雲王国と縁深いところです。
しかし流石に、出雲王国を築いたクナト王が当地に眠るはずもなく、この神陵は別の誰かのものであるのは確かです。
ですが当神陵に眠るのがクナト王では無いにしろ、何某かの権力者が眠る場所であるのも確かなこと。
記紀は、「イザナギ」とはクナト王を含む数人の偉大な統治者を、一柱の神として記している可能性が濃厚だからです。
伊弉諾神宮には「陽の道しるべ」というモニュメントがありますが、これには伊弉諾神宮を中心に、太陽の運行が示されています。
これによると、「日之少宮」(ひのわかみや)と記される伊弉諾神宮を中心に、夏至の日出方向に「諏訪大社」、夏至の日没方向に「出雲大社」が鎮座しています。
また、冬至の日の出は「熊野那智大社」、冬至の日没は「高千穂神社」、春分秋分の日出は「伊勢神宮」、春分秋分の日没は「海神神社」が鎮座しているとなっています。
また主要な聖地を線で結ぶと、平城京を中心に、このような逆五芒星の形が浮かび上がると唱える人もいます。
果たして往古の古代人は、このような意味深な配置を意識して、それぞれの聖地を築いたのか?
これについては僕は、やや否定的な考えでいます。
なぜなら聖地というなら、日本は聖地だらけの島のようなもので、いかようにもレイラインでもなんでも引けてしまうからです。
また、ここに記される聖地というのは、出雲系であったり秦氏系であったり、属性がばらばらであることも挙げられます。
とはいえ、現代人にそれだけ重要な社であると思わせるだけのものが、この伊弉諾神宮にはあるというのは頷けます。
境内には昭和天皇お手植えの楠の木があります。
大正11年11月30日、皇太子殿下だった頃に御手植されています。
その奥には、樹齢900年と云う「夫婦大楠」(めおとのおおくす)がそびえ立ちます。
根元の周囲は12.4m高さ30mの巨楠は、元々は2本の楠が、成長に合わせて一株にくっついたものだそうです。
この夫婦大楠は、夫婦神の伊弉諾尊・伊弉冉尊の御神霊が宿る御神木として、参拝者に親しまれています。
夫婦大楠の側に設けられた「岩楠神社」には、国生み神話で最初に生まれた子神「蛭子」(ヒルコ)大神を祀ります。
神話によると、ヒルコは不具の子としてすぐさま海に流されました。
ヒルコはのちの神話に登場する「スクナヒコナ」やエビス神と同一の神であるとする説もあるようです。
夫婦大楠の奥に、何やら奇怪なモニュメントがありました。
これは「頭髪感謝碑」として21系の会社が奉賛したものだそうです。
「髪」は「カミ」と訓じて「神」や「上」に通ずる語彙であり、太古から頭髪を生命存在の象徴として霊魂の宿るものと神聖化されてきた、と云うことのようです。
髪の毛への感謝と、髪に携わる人々の発展と幸せを祈念したものなのだそうですが、
しかしこれのどこが「髪」なのか?
で、思い至ったのは、ああこれは仏像などにある「螺髪」(らほつ)ではないかと。
しかし神仏習合の時代ならまだしも、なぜ今の時代に、神社に仏教のモニュメントなのか。
理美容に携わる僕ではありますが、この場所にある違和感だけには、ちょっと気持ち悪くなりました。
東門の先に淡路祖霊社もありました。
これは明治8年に創始され、淡路出身の先賢と、明治屯田兵、日清、日露、大東亜の英霊並びに伊弉諾神宮歴代の祝職らが祀られているということです。
境内の外、近郊には伊弉諾神宮に関連した聖地がいくつか存在します。
「柳之御井社」には「水波能売神」(みずはのめのかみ)が祀られ、
伊弉諾神宮の御神水として用いられます。
また神に捧げる米を作る「御斎田」もありました。
再び境内に戻ると、このようなチラシを見つけました。
金美齢先生の講演会があるようです。
行きたい!
そして拝殿から笙の音が聞こえると思えば、巫女舞が行われていました。
どうやらお宮参りの祈願に訪れた参拝者による、奉納舞のようです。
この日、二組ほど、小さなお子様を抱えた若きご夫婦のお宮参りを見かけましたが、当社が淡路民の大切な社として親しまれ続けていることを実感しました。
1995年(平成7年)1月17日の阪神・淡路大震災では、当社も甚大な被害を受けましたが、氏子らの働きかけで立派に再建されています。
結局のところ、今回の旅で、伊弉諾神宮の前にあったという神陵に眠る神が誰であったのか、確証を得ることはできませんでした。
僕は出雲族と縁の深い淡路の王の御陵ではないかと思っていますが、あるいは物部王の墓かもしれません。
ただ思い至るのは、ここに淡路と日本の国を守る、偉大な王がいたことは間違い無く、
神宮の称号と十六八重表菊の紋は、暗にそのことを認めているのではないかということでした。
やはり古事記神話の謎は天皇礼賛だけではないいびつな構造をしているある種の正直さが心惹かれるのでしょう。
古事記神話の構造をザックリいうと高天原の2度の地上への介入がその構造の中心となっている。1度目はイザナギとイザナミがオノゴロ島を作り、国生み神生みを行い、次にイザナミのあとを継ぎスサノオが
根之堅洲国で帝王となる。第二の高天原の介入はアマテラスによる九州への天皇の始祖の派遣とそれに続く天皇を擁する日本の話でこれは今も続いている。
これらの2度の高天原の介入に挟まれた形で出雲神話がある。天皇の権威を高めるのに出雲があまり役に立たないのに古事記で大きく取り上げられている。その神話の構造の歪さに我々は心を惹かれる。
たとえば天皇も大国主も大刀(レガリア)の出どころはスサノオでありその権威の根源を知りたくなってしまう。そうなると島根県安来市あたりの観光をしてしまいたくなる。
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出雲街道ツーリングXさん、こんにちは。
コメントありがとうございます。
当ブログの「八雲ニ散ル花」シリーズは、東出雲王家「富家」の末裔の方の著書を元に僕が旅した記録です。
東出雲王家では正しい歴史を後世に残すため、一子相伝で語り繋いできました。
大和王朝よりさきにあった出雲王国、それは西は九州北部、東は新潟越国、南は讃岐地方にまで支配力が及んでいたと言います。
スサノオは秦国から来た徐福のことです。
彼が出雲に上陸した際、連れてきた民が海部家、佐賀に上陸した際に連れてきた民が物部家となりました。
彼らはいずれも、秦国から来たので、秦氏とも呼ばれます。
古事記の中の出雲神話は、出雲王国の存在をぼかしたい勢力の思惑があり、神話化され曖昧にされました。
ご興味ございましたら、先のシリーズで追っていただけると、詳しく紹介しております。
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Ciao Chirico! Che spettacolo questo post, come sempre sogno il Giappone con le tue parole e le tue foto! Quando chiudo gli occhi e penso al Giappone non so perchè ma vedo sempre quello che hai fotografato nella foto n. 10. Mi pare un’immagine significativa!
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Grazie Alessia.
Le mie foto mostrano solo una piccola parte del Giappone.
Quando vieni in Giappone, vedrai sempre più il Giappone.
Ma guardando le mie foto, sono felice che tu ti senta in questo modo.
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野見宿禰に敗れて淡路に逃れた田道間守の可能性もありますね。
誉田別朝からすれば、ヒボコとともに祖霊になります。
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おお、そうですね。
田道間守ならこの規模も納得です。
しかし出雲族の可能性も捨てきれないのですよ。
それは次のブログでお話しします。
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金美齢先生も、あのお歳でタフですね〜笑笑
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