大彦の子孫の一族は、モノノベ勢に追われて、東北地方まで転々と移動を繰り返した。
そのアベー族が北方に滞在したときには、 トミ姓の方が尊敬されるので、富家にだまってトミ姓を名乗っていたらしい。
山形県と秋田県の境日あたりに一時とどまっていたときには、そこの高い山に「トミ山」という名前をつけた。
しかし、富の字を使うことは禁止されていたので、人から山の名を聞かれた時は、「トミ山の卜は鳥の意味で、海に近い所だから鳥海山と書く。
それをトミ山と発音しているだけだ」と言い訳した。
すると、アベ氏が去ったあとでは、地元の人たちは鳥海山のことを「チョウカイサン」と呼ぶようになったという。
- 富士林雅樹 著 『出雲王国とヤマト政権』-
福岡を飛び立ち、仙台空港に降り立ちます。
山形に向かうのに、なぜ宮城の仙台なのかと言うと、福岡からの直行便は主に仙台便になるからです。
東北は高速道路が充実していますので、仙台からレンタカーを利用すると便利です。
仙台空港には、「東北地方太平洋沖地震」の時の、津波の水位が記してありました。
レンタカーを走らせて約3時間、そこに見えてくる美しい山が「鳥海山」(ちょうかいさん)です。
その姿から「出羽富士」と呼ばれ親しまれています。
また秋田県では「秋田富士」、山形県では「庄内富士」とも呼ばれます。
この辺りの長閑な田園風景は、映画「おくりびと」の舞台にもなっています。
道の駅があったので、腹ごなしに”ふらっと”立ち寄りました。
そこで目についた串焼きにされた物体。
それはなんと「カレイ」でした。
カレイの串焼きはびっくりするほどジューシーで、中から油がジュワッと溢れるほどです。
他にも魚介類が豊富で、海の養分をたっぷり補充することができました。
「鳥海山大物忌神社」へ向かいます。
鳥海山大物忌神社は、鳥海山山頂の「御本殿」とその麓にある「吹浦口ノ宮」、「蕨岡口ノ宮」の三社で構成されています。
鳥海山の登山口は、主要なものだけで矢島、小滝、吹浦、蕨岡の4ヶ所があり、各登山口ごとに異なる伝承・信徒が構成されていました。
かつて、それぞれの信徒らが互いに反目し、どこが一山を支配するかでもめることも多かったそうです。
現在はこの「吹浦口ノ宮」に社務所が置かれ、当社と「蕨岡口ノ宮」を里宮、山頂に御本殿という形で落ち着いています。
「吹浦口ノ宮」の社伝によれば、第12代景行天皇の御代当国に現れ、神社の創祀は第29代欽明天皇25年(564年)の御代と伝えられています。
鳥海山は活火山で、噴火などの異変が起こると朝廷から奉幣があり鎮祭が行われました。
後に「出羽国一之宮」となり、歴代天皇の崇敬篤く、鎌倉幕府や庄内藩主の社殿の造修など、時々の武将にも崇敬されてきたと云います。
かつての山上は、蕨岡宗徒が直接奉仕し、吹浦はその末社であるとの位置付けでした。
しかし明治元年(1868年)の神仏分離令への対応で吹浦は蕨岡に先行し、明治2年、当社は大物忌神社としての主要な位置付けになりました。
長い階段を登り終えると、拝殿が姿を現しました。
標高2,236mの鳥海山。
その龍脈のひとつが吹浦口之宮付近にあると云います。
そのパワーは、この拝殿前に溜まっているのだとか。
本殿は二棟あり、手前に大物忌神、奥に月山神を祀ります。
向かって左奥にさらに階段があり、
上には白山神社、境内社、
雷電神社などが鎮座します。
横を見れば、月山神社の本殿が間近に、
奥に大物忌神社の本殿が見えます。
朱色鮮やかな、雅な社殿でした。
古来より信仰厚い鳥海山。
その支配権においては、各宗派の壮絶な論争がありました。
最終的には蕨岡の信徒がその権利を得、勢力を伸ばしたので、通常山頂を通る県境は、鳥海山では不自然に秋田側へ張りだしていて、鳥海山は完全に山形県の山になっています。
その「蕨岡口ノ宮」へやってきました。
古びた神門に、往年の風格を感じます。
鳥居から参道を折れると、
大きな社殿があります。
ここは、2014年公開の映画『るろうに剣心 京都大火編/伝説の最期編』で、ロケに使われたところだそうです。
そのシーンは、緋村剣心と沢下条張が決戦を行う京都の神社の舞台でした。
沢下条張はホウキ頭の「刀狩の張」です。
ところで祭神の「大物忌大神」、
この神は記紀に登場せず、謎の多い神とされます。
『神祗志料』や『大日本国一宮記』では、大物忌大神と倉稲魂命が同一視されています。
大物忌という響きは、三輪山に祀られる「大物主」を連想させます。
この神が同一の神であるとするなら、大物忌大神の正体は「事代主」であるということになります。
事代主は、古代出雲王国の偉大な8代目副王「八重波津身」でした。
同じ山形の修験の山「出羽三山」にも出雲系大和族の登美家「健角身」の足跡があります。
また出雲にある霊山の一つ「船通山」(せんつうざん)は、古来「鳥上山(鳥髪山)」と呼ばれており、「鳥海山」との響の類似も気になります。
境内の奥にあった、苔むした階段を登ると、「峯中碑伝」(ぶちゅうひで)という石碑がありました。
これは山伏の峯入り修行の記念碑で、梵字が刻まれています。
この先に鳥海山の拝殿跡があるようですが、それはもう、道の相を呈していませんでした。
霊山・鳥海山の麓に美しい宝石のような泉があります。
そこは田園の中の、こんもりとした森にありました。
ひっそりと人目を偲ぶように佇む、青い池。
そのほとりに神社があります。
「丸池神社」と呼ばれ、瑠璃色の池そのものを御神体とし、「田心姫命」「多岐津姫命」「市杵島姫命」の宗像三女神を祀ります。
当社は鳥海山の大物忌神社境外末社になっていました。
丸池様の周りはロープが張っており、基本的に淵に近づくことはできませんが、
一箇所だけ手水場が設けてあり、そこだけは池の水に触れることができるようになっています。
畏怖を感じさせるほどの透明度、
その水は光を受けて鏡面のように、周囲の景色を映し出します。
晴れた日の正午前後が最も美しいと言われ、
その池に腐敗することなく沈む倒木は、龍神のようにさえ見えます。
前九年の役の時、源氏の「鎌倉権五郎景政」という者が「安部宗任」(あべのむねとう)に左の眼を弓で射られました。
景政は同輩に矢を抜いてもらい、この丸池で眼を洗ったところ、池は真っ赤に染まり、それ以来この池に棲む魚はみな片目になったと云われています。
景政は「平景政」(たいらのかげまさ)とも呼ばれる、平安時代の武将だそうです。
この話を聞いた時、「蟲師」のある一話を思い出しました。
雰囲気といい、元ネタは案外、丸池様なのかもしれません。
鳥海山からの伏流水を水源とする丸池様は、山上の湖「鳥海湖」と水脈が地中で通じているとも云われています。
近辺には小山崎遺跡、柴燈林遺跡など縄文の遺跡群も存在し、ロマンあふれる聖域となっていました。
鳥海山大物忌神社・・・私は二つの神社をタクシーで移動したためにメーターがクルクル回っていくのを青ざめながら移動した覚えがあります。
この記事の後に宗任さん。子孫に鳥海三郎。阿部一族・・・前総理、安倍さんはわざわざ東北の神社を崇敬しています。ルーツはそこに在りと。
政治家のルーツと神社と古代豪族・・・これが私が日本各地の神社をする発端。古きを知りて新しきを知る。そこから見えてきた相関図や後ろ暗いもの。
今の世がどんな風に流れているのかが見えてきます。まあ・・・見えたとこで何が出来る訳でもないのですが。しかも今では御朱印巡りや美味いもの巡りにもなってるし(笑)ただ・・・敗者の歴史を闇に覆わぬ真実だけは常に。
掘り起こしてくだしませ。
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日本には敗者を偲う風潮、精神があります。
古事記も柿本人麿らしい敗者を偲ぶ目線でかかれていると。
ただ東方は敗者だったのかというと、決してそうとも言い切れないのではないかと思わせられます。
彼らはとても強かに、財を成し豊に生きていたのではないでしょうか。
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お忙しいところ早速のお返事ありがとうございます。大和の尾張家の人だったのですね。
追放ではなくホヒやヒナドリの野郎どもと一緒に住みたくない、故人の思い出のある地を離れたい、
自発的に出たんですね。間違っておりました、追放なわけ無いです。
散自出雲と出雲の阿国の話を読んで驚きました。興味深いです。
神話の世界は掴み所がないと思って諦めていたのですが、最近おかげさまでとても面白くなりました。
出雲と大和のあけぼのを先週また借りてきてゆっくり調べながら読んでいるところです。
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僕は見開きA3に拡大コピーして、1ページ分ずつに切り分けて、スキャンして自炊しました。
「あけぼの」と新刊の「出雲王国とヤマト政権」、この2冊はほぼ同じ内容ではありますが、違うことを書いてある部分があります。
他の大元出版本でもそうです。
大元出版の内容でも、微妙なところで矛盾があるのです。
それはそれぞれの著者の認識の違いか、と思っていましたが、そうではないようです。
これは僕の印象ですが、富家の伝承も完全なものではないのだと思われます。
断片的な伝承を元に、その空白を富氏がご自身の考察で補正したものが大元出版の書籍群なのでしょう。
富氏は間違った歴史を後世に伝えてはならない、正しい歴史を残すことが使命だ、と強い意志で考えておられます。
故に最初のご考察が違っていたと思い至った時は、書籍名や著者名を変えて出版し直しているようです。
例えば「親魏和王の都」として出版していたものを「魏志和国の都」とタイトルを変えて現在販売されていますが、内容は全く同じように見えて実は、新刊の方には新たな情報・見識が盛り込まれているそうです。
つまり新しい書籍の方が、より最新の富氏の見識に沿った内容になっているということです。
僕は慌てて魏志和国の都を注文したところです。
たとえ富家伝承が完璧な古代史を伝えるものではないとしても、およそ世に数多ある古代史解説本の中でも最も真実に近いのだという確信が僕にはあります。
素晴らしい伝承を繋いできてくれた富家ご先祖の方々に心から感謝しています。
その伝承を根幹に、果てしない研究と多くの氏族が伝える伝承を元に、ご高齢にも関わらず今尚新たな書籍を世に送り出す、富氏に畏敬の念が絶えません。
ということであけぼのも良いですが出雲王国とヤマト政権も良いですよというお話です(笑)
書籍の注文は少々勇気がいりますが、大元出版HPに掲載の電話から申し込むと、ご本人のお声を聞くことができます♪
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今、3冊注文しました。楽しみです!
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良いですねー
出雲沼にハマってきましたねー
これで、僕とあなたはイズトモです笑
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届きました。あけぼのの新版を読み始めました。一字一句、チリコさんのサイトを参考にさせていただきながら読んでいます。
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こんにちは、出雲を追放された出雲族が、東北方面と九州方面に逃げた、と言う説があるようですが関連記事はありますか?出雲と大和のあけぼのの54ページに安倍氏の記載があって、前九年の役で負けて出雲に帰ってきた云々とあります。蝦夷と一緒に東北で中央と戦った安倍氏のことかなあ?などとぼんやり妄想しています。お時間のある時で結構です。
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こんにちは♪
阿部氏については、大彦が敢国にゆかりがあって名乗った名前ですね。
大彦は出雲王家を崇敬していましたが、彼は厳密には出雲人ではなく、大和の尾張家の人です。
母親が出雲系大和族の登美家の人でしたので、その血筋に誇りをもっていました。
大彦の子孫・阿部家は東北でアラハバキ信仰を広めたり、九州北部から山口あたりに移住したと聞いています。
出雲を追放された、というのは間違いで、自ら出雲を飛び出した人たちのことでしょう。
クシヒカタやタケミナカタもそうですね。
しばらくして出雲に戻った出雲族もいるようで、出雲大社の裏にある三歳社や狼神社を建てたようです。
https://omouhana.com/2017/12/18/三歳社-狼神社(出雲):八雲ニ散ル花%E3%80%80番外/
元出雲兵で関東地方などを開拓した人の中には、遅くなって故郷に帰った人がいましたが、故郷に自分の土地が残されていなかった人もいました。
それで再び各国に、多くの人が移住しましたが、彼らは自分たちを「出雲散家」と呼んで結束し「散自出雲」という秘密組織を作って連絡し合っていたそうです。
出雲王国が滅亡したあと、富家はその秘密組織を指揮して各地の大事件の真相を探らせていました。
その結果、日本史の真実の情報は富家に集まり、代々伝えられることになり、富家は出雲では「日本史の家」と呼ばれるようになったそうです。
https://omouhana.com/2018/03/02/熊野大社(出雲):八雲ノ王%E3%80%8006/
https://omouhana.com/2018/03/05/出雲阿国:八雲ニ散ル花%E3%80%80番外/
古事記・日本書紀による皇国史観が作られ、出雲で今の千家家が力を持ち始めたころ、出雲では旧王家の者、王家の話をする者が迫害を受け、中には殺される者もいたなどという話をする人がいます。
そのことを先日富氏に尋ねてみました。
すると、「それは全く逆だよ」とおっしゃいました。
出雲で千家家などが良くないことを行おうとすると、出雲散家がずらっと乗り込んでいって叱り付けていたそうです。
その様子が熊野大社の亀太夫神事になっていったのでしょう。
出雲王家の子孫の人たちは後年も決して日陰者として暮らしたのではなく、堂々と崇敬を浴びておられたようです。
そのことを話される富氏の誇らしげな様が、とても印象的でした。
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それと大彦は人気者すぎて、あっちこっちからお姫様もらって、あっちこっちに子孫残しまくってます(笑)
まさにサイノカミを自ら体現なさっておられます。
元首相も大彦の子孫だったんではないでしょうかねぇ。
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やりますねー。あそうそう、一つ誤植見つけました。三歳社の記事で、埼玉県秩父市が、玉県になってます。細かいことで御免なさい
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ありがとうございます!
誤植バンバンご報告ください。
なにせ校正が追いついていません、助かります!
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ページ数があけぼのの倍くらいあります。
著者は違いますが、同一人物と考えてよいでしょう。
僕は今、PCの液晶がイかれてしまって、色味のおかしい画面と格闘しつつブログを書いてます。
止むを得ず新しいPCをポチりましたが、手元に届くのはしばらく先になりそうです、とほほ。
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同一の方のようですか。たしかに改訂版分厚いです。あけぼのは、断定的に書かれてないところが謎解きのようで調べるのがたいへんでした。ラップトップの外部出力端子からモニタにつなげば応急処置できますよ。
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ありがとうございます。
最悪はそのような対処も考えていますが、そもそもモニターが我が家にはありません(笑)
系図を作成しているアプリがサポートを終了しており、新PCでは動作しないことが予想されますので、現PC(MacBook)には何としても生き延びてもらわなくてはなりません。
大元出版本のほとんどが富氏のご執筆です。
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