鶏冠社:八雲ニ散ル花 愛瀰詩ノ王篇 27

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まず、柊の木の下にある末広形の平な石の上に、〈からむしろ〉あるいは〈葦/あし〉を敷き、その周囲を簀(す)の垣で巡らす。
即位石の前には、三個の金壺石(鉄漿石/おはぐろいし)があり、平常は厳重に注連縄が張られていた。
即位は、雅楽吹奏のなかを自衣の童子が登場し、葦(萱筵/かやむしろ)のひかれた石の上で鉄漿・紅・白粉・眉ずみをもつて化粧し、振り分け髪を冠下に結い上げ、穀(かじ)の葉散らしの錦織の袴を着け、山鳩色の東帯を整え加冠され、呪印を結び四方を拝すことによって現人神〈大祝〉となるという。

- 日本原初考1『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古部族研究会 編 -

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諏訪大社 上社前宮へやって来ました。

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2度目の参拝です。

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一の鳥居から本殿までは、緩やかな坂道を登っていくことになります。
今回の参拝は、前回行き損なった「鶏冠社」を訪ねるためでした。

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二の鳥居の手前を右手に折れると社務所があります。

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その方向の裏手に「神殿跡」(ごうどのあと)という案内板が、ひっそりとありました。

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そこには、磐座のような石が二つ残るばかり。

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案内によると、ここは大祝の居住跡だったようです。

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もっとも神殿跡とはこの磐座のみを指して言っているのではなく、この一帯のことのようです。

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しかし文明15年(1483年)、同族内輪争いによってこの聖地が穢されたとのことで、一体何があったのか気になるところです。

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Wikipediaによると、上社大祝家の諏訪氏と下社金刺氏の抗争もある中、この年の正月8日に上社大祝家・諏訪継満が諏訪総領家の政満とその子・若宮丸、政満弟の原田小太郎らを神殿に招いて酒宴を催し、その場で暗殺しクーデターを起こしたとあります。

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この事件により諏訪総領家を筆頭とする諏訪一族は反抗に出て、継満を干沢城(茅野市宮川)へ追い込み、さらに高遠へ追放。
また、継満父の頼満(伊予守)もこの時に討ち取られており、下社金刺氏も駆逐された、と伝えています。

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継満のクーデターから生き残った政満の次男・宮法師丸(頼満/碧雲斎)は、翌年の文明16年(1484年)12月に諏訪惣領家を継承し、さらに大祝職に就きました。
彼は諏訪郡を統一し、大祝家を滅ぼして惣領家が大祝をも務め、祭政一致の下に武力と権威を強めていったとあります。

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本参道に戻ってくると「十間廊」(じっけんろう)が見えて来ます。

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「御頭祭」(おんとうさい/酉の祭)で、かつてここ75頭の鹿の頭が並べられ、胴体部分を人間が食し、神人共食の体を成した場所です。

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十間廊はその広さを表したものなのでしょうが、神に捧げる贄の首実検がなされたという意味も含んでいるのではないでしょうか。

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この御頭祭に捧げられる75頭の鹿のうち、必ず耳が欠けた鹿が1頭いたのだと伝えられますが、それは前回の祭りの際に次の贄として約束された鹿の耳に付けられた印であり、それが間違いなく狩られているかを確認したのではないか、と考えています。

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約束の成就というのが、このような特殊な神事では重要であったのではないでしょうか。

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さてこんもりとした杜とともに、前宮の聖域が見えて来ました。

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前宮の社殿の周り、四之御柱付近に流れる川があります。

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この小川は、御手洗川上流の山の中から湧き出した「水眼」(すいが)の清流であると案内板にあります。

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中世においては、この川で心身を清め、前宮の重要神事に用いられたそうです。
飲料も可とのことでしたので、一口含んでみました。
甘い、まろやかな水です。

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諏訪大社・神社前宮。
大祝は、8歳前後の幼い男巫(おとこかんなぎ)で、建御名方命、八坂斗女命の神裔ということになっています。
この男児は即位式に先立って22日間、厳重な潔斎をおこなうのですが、その場所が今は前宮の本殿と称される「精進屋」だったと伝えられます。

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この、大祝の精進屋として家は、昭和7年に伊勢神宮の余材拝領によって造り替えられ、元の由緒ある精進屋は、とりこわされてしまいました。
ヒトミ戸造りの精進屋は、前宮の本殿という名にかわり、伊勢神宮もどきの千本を飾る神殿になっています。

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童児大祝は現人神となるために、この精進屋に入り、30日間潔斎し、身を清め、浄化してミシャグチ神が天降るための準備を行います。
この30日の潔斎は厳しいものだったといわれ、食事も少なく、ずっと静座し、毎日水浴したといわれています。

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この精進屋敷があった場所の左奥に、八坂斗女命の墓と伝わる神跡があります。
これが何を意味するものか。

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僕はかねてより、タケミナカタの妻であるヤサカトメヒメはどこの人なのか考えていましたが、洩矢族の絶対的聖地にその神跡があるということは、やはり彼女は洩矢家の女であったとするべきなのでしょうか。

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ヤサカトメヒメは安曇族の姫だという話も聞いたことがありますが、福岡志賀島地区から安曇野地区に安曇族が移住して来たのはタケミナカタの時代からずっと後のことであり、時代が合わないように思います。
タケミナカタが海部の姫と結婚し二人一緒に諏訪入りして、彼女が安曇族の祖となったとも考えられます。安曇族は先に諏訪にいて、後に福岡に移住、そして再び故郷に戻って来たと。

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しかしまあ、ヤサカトメヒメはタケミナカタが洩矢族と和合の証に娶ったのだとするのがしっくりくるような気がします。

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前宮本殿から参道を下ったところに、「御室社」という印象的な小社があります。
大きな木の裏にちょこんと鎮座した社。

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この木のもとに石の台座が設けられ、そこに社が鎮座したものは、ミシャクジ信仰に多く見ることができます。

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その最も重要な聖域が御室社から少し歩いた先にあります。

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それが「鶏冠社」(けいかんしゃ)。

『「鶏頭樹・加比留提乃木」(かひるでのき)で、楓の葉が蛙の手に似ていることに由来。鶏冠社は即ち「かえでのやしろ」と呼ぶのが最も古い。』

「柊の宮」とか「楓の宮」と呼ばれていた鶏冠社ですが、鶏冠とは色付いた楓を意味しているようで、かつては楓の木が生えていたのでしょう。

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この鶏冠社についての詳細は、やはり「from 八ヶ岳原人」様のサイトが参考になります。

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前宮の本殿にあたる精進屋敷で潔斎を行った童児大祝は、この鶏冠社に赴き、神が降りるという大きな石(要石)の上に立たされます。
そして神長官が男児に山鳩色の装束をつけさせ、秘法を行いました。
これにより男児は諏訪神の御正躰とみなされ、大祝の即位の式を終えるのです。

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当然、男児の身に降ろされた神はタケミナカタであろうと思われましたが、実は違いました。
大祝に降ろされた神は洩矢の神「ミシャグチ神」だったのです。
ミシャグチというのは、日本に古来からあるアニミズムとも少し違う独特な信仰のように思えます。
アニミズムは全ての物・事象に神(霊魂)が宿っているというものですが、ミシャクジは明らかに別個体として存在し、主に樹木を伝ってその下にある物に寄り付くのです。
それは石だったり木だったり、時には人・大祝だったりしたのです。
そして大祝に至っては、神降ろしをし、そのの口をかりて語る神の言葉を人々に伝えるのは、神長官の役目でした。
ミシャクジ神の実権を握っていたのは、神長の守矢氏だったのです。

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この石の祠の下にある平たい石が要石かと思っていたら違いました。
先の「from 八ヶ岳原人」さんのサイトによると、「要石は明治初年にいずれかに持ち去られた」らしく、既に存在しないのだそうです。

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さらに僕のこの来訪は2020年秋のものですが、「from 八ヶ岳原人」さんの最新の情報では、隣接するオシャンティな施設の影響でさらに様子が変わっているとのこと。
もはやミシャクジと大祝、洩矢族の神跡は失われつつあるのかも知れません。
特に長野においては、このような歴史の破壊が進んでいるように思えてならないのです。

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