群馬県高崎市、上毛三山のひとつ榛名山の中腹に鎮座する「榛名神社」(はるなじんじゃ)を訪ねてきました。
榛名神社は、延喜式神名帳に「上野国十二社」(こうずけのくにじゅうにしゃ)のひとつとして記される、格式ある神社です。
水沢うどんで腹を満たしたあと、榛名神社を目指して車を走らせていると、美しい「榛名湖」(はるなこ)が見えてきました。
榛名湖は榛名山のカルデラ内に生じた火口原湖で、周囲約4.8km、面積約1.2㎢の美しい湖です。
『万葉集』の時代から上野国を象徴する歌題「伊香保の沼」として知られ、竹久夢二、与謝野晶子、高浜虚子ら、文人・芸術家にも愛されてきました。
榛名山は標高1449mに及び、赤城山(標高1827m)、妙義山(標高1103m)と合わせ、上毛三山と呼ばれる火山で、そのカルデラ湖には美しい榛名富士も形成しています。
榛名湖から榛名神社を目指し車を走らせていると、しめ縄が掛けられた大きな岩がありました。
男根岩だそうで、
ぐるっと反対側から見ると、なるほど、と思う次第でした。
榛名神社門前町に到着です。
のどかな町並みを歩いていくと
参道の入り口が見えてきました。
榛名神社は神仏習合時代の名残を色濃く残し、山岳信仰の修験道霊場としても有名です。
参道の入り口に建つ「随神門」は、建設時の弘化4年(1847年)当時は「仁王門」と呼ばれていました。
当社は江戸時代には、「榛名山厳殿寺」(はるなさんがんでんじ)と称される寺院であり、門に置かれていたのは今の随神像ではなく、仁王像だったそうです。
参道には修験地独特の気が満ちているように感じました。
本殿までの道には七福神像も置かれているので、これを探し歩くのも楽しいです。
朱色の「みそぎ橋」を渡った先の右手、沢の対岸にアーチ状の奇岩が見えます。
これは「鞍掛岩」(くらかけいわ)と呼ばれ、洞窟状に形成された火山噴出物が、岩の奥の部分だけが崩壊しアーチ状になったものだそうです。
今にも壊れそうなのに、その形を永く維持しているのがすごい。
隋神門から本殿までは約700mの心地よい参道が続きます。
日常から切り離された景色は俗世の穢れが洗い流されるようであり、この参道を歩くだけで禊になると云われています。
榛名神社の創建は、用明天皇の頃とされています。
用明天皇といえば、聖徳太子の前の代の天皇です。
往古には三千百坊の社家社僧をかかえる関東の名社で、国内六ノ宮として崇敬されていたと云われています。
大きな岩山が見えますが、これは「朝日岳」「夕日岳」と呼ばれ、中腹には宝珠窟という洞があるそうです。
雅な三重塔が見えてきましたが、明治期の神仏分離による撤去を免れた、県内唯一の三重塔になります。
参道の見どころはまだ続きます。
「御廳宣の碑」(みちょうせんのひ)というものがありました。
これは「留守所下文」(るすどころくだしぶみ)という榛名神社で最も古い文書を彫った石碑なのだそうです。
よく見てみると、確かに石に文字が彫られています。
文書の虫食い穴まで忠実に彫られているそうで、文書そのものは榛名町歴史民俗資料館に常設展示されているようです。
そうこうしていると、突如現れたゴツいトンネル。
鉄筋とコンクリでできています。
中へ歩いていくと、左から岩が張り出しています。
昔はこんなトンネルもなく、修験者は命がけでこの道を進んだことでしょう。
トンネルを抜けると、雅な「神橋」があり、そこは「行者渓」と呼ばれる難所でした。
そそり立つ奇岩に覆われた行者渓は、広重にも「上野国榛名山雪中」として題材に選ばれています。
と、大きな岩の壁面に、あまりに不自然なドアが付けられています。
これは「東面堂」(とうめんどう)という建物の名残だそうで、もとは岩の手前に建物があり、この扉の奥に秘仏が安置されていたと云うことです。
またその先には、「満年泉」という、赤い玉垣に囲われた井戸がありました。
榛名神社では、古くから雨乞いでも有名でした。
干ばつの時にはこの萬年泉の水を竹筒に詰めて神前で祈祷し、それを持ち帰って雨乞いの儀式を行うと、たちどころに雨が降ったと云われています。
榛名神社の本殿授与所で人気なのが「御神水開運おみくじ」です。
ここで求めた占いの紙を、みそぎ橋そばの水占場のご神水に浸すと文字が浮き出て運勢を占えます。
見終わったおみくじは、隣に立つ廻運燈籠(かいうんとうろう)の自分の干支の納め口へ納めます。
最後に燈籠を廻転させれば、運が廻ってくると云われています。
手水舎までやってきました。
右の谷を見ると、岩の間を流れ落ちる滝があります。
「瓶子の滝」(みすずのたき)と呼ばれ、滝の両側の岩を神前に供える「瓶子」に見立てたことから名付けられたと云います。
瓶子から注がれた神の御酒は、これまたまるで杯のような岩に、細く滴り落ちています。
またその細い水の流れは、天に昇る白龍のようにも見えます。
左手には写真に見切れてしまっていますが、樹齢500~600年と云われる「矢立杉」(やたてすぎ)が聳え立っています。
この杉は武田信玄が箕輪城を攻める際に、先勝祈願で矢を放ったと伝わっており、国指定天然記念物になっています。
手水舎から続く階段を登ったところにある荘厳な門は「双龍門」と言います。
安政2年(1855年)に建てられたもので、施された彫刻に龍が多いことからその名で呼ばれ、国指定重要文化財に指定されています。
この時は残念ながら修復作業中で、全貌を見ることは叶いませんでした。
双龍門をくぐると見えてくるのが本殿です。
来た方向を振り返ると、双龍門の左手に鉾岩(ぬぼこいわ)と呼ばれる巨石が見えます。
この険しい大岩に囲まれた聖域に鎮座する、荘厳な社殿。
榛名神社の本殿は国指定重要文化財になっており、文化3年(1806年)に建てられた本社・幣殿・拝殿は、一連でつながる権現づくりの建物です。
朱と黒をベースに金と様々な色彩がほどこされた拝殿。
その至る場所にあるのは見事な彫刻。
この彫刻は群馬の彫刻師「関口文治郎」の手によるもので、その彫刻の素晴らしさから「上州の左甚五郎」とも呼ばれています。
どの彫刻も生き生きとして、今にも動かんばかり。
榛名神社の主祭神は、火の神である「火産霊神」(ほむすびのかみ)と、土の神である「埴山毘売神」(はにやまひめのかみ)となっています。
しかしながら室町時代に成立したとみられる『神道集』には、「高野辺家成」の3人の美しい娘の伝承が記されており、それによると三女「伊香保姫」が伊香保大明神となって当地に鎮座したとなっています。
古代の榛名湖は「伊香保沼」(いかほのぬま)と呼称されており、そうであるならば、もとは当社の主祭神は伊香保姫であった可能性が濃厚になってきます。
この三姉妹の悲劇については大洞赤城神社で詳しく述べましたが、物語には続きがありました。
三姉妹のうち、唯一生き残った末妹の伊香保姫は伊香保山(榛名山)に逃れ、のちに上野国の国司「高光中将」と結婚しました。
ようやく掴んだ幸せもつかの間、その後、後任の国司が伊香保姫に横恋慕し、姫の夫を殺してしまいます。
伊香保姫は悲しみのあまり、夫の後を追って伊香保沼に入水すると、姫は沼の龍神によって伊香保大明神へと転生されたと云います。
榛名神社の社殿をよく見てみると、本殿は背後の岩にめり込むように建てられています。
この本殿背後の岩は「御姿岩」(すがたいわ)と呼ばれ、本殿とつながっている岩の洞窟内に御神体が祀られていると云われています。
岩の頂部はくびれており、頭部にあたる部分はいまにも落ちてきそうです。
大きく開いた口、洞穴にはどうやって挿したのか、大麻(おおぬさ)が風に棚引いていました。
人の形に見えるという御姿石ですが、それは人というよりは鬼の姿のように、僕の目には写っていました。
このような甌穴は他の場所にも多く見られ、和歌山の奇岩崇拝によく似た雰囲気を感じたのでした。
本殿から下の谷へ降りてみると、何かある気配なので行ってみました。
そこは榛名山の番所跡であり、
奥には「榛名川上流砂防堰堤」がありました。
どこにでもある堰堤のように見えますが、何やら歴史的に貴重なもののようです。
さらに車で榛名山を下って行った先には、ぽつんと榛名神社の、一の鳥居が立っていました。
ばわ。CHIRICOさん。
榛名神社、結構歩くんですよねw。ここの神社に車で行く途中のメロディロードも印象に。「湖畔」
さて、御祭神、明治時代の神仏分離と同時に神様が変わる神社も出てきました。例では神田明神。国に反旗を翻した神様は変えられてしまいました。
ここも何かの都合でそうなってしまったのかも。
それでもここの神社も良いんです。ただ、どういうわけか、私はここの神社との相性が悪い。不思議と。なんか前世か先祖か私なのか?
CHIRICOさんにもそういう神社とかあるんですかね?
ではでは。
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こんにちは。
メロディロードには僕も驚きました。
あんなに鮮明に奏でられるものですね。
相性が悪い場所、逆に相性の良い場所、というのはあります。
なんとなく居心地が悪いな、と感じるところへも割とズカズカ入っていくのですが、帰ってきて熱を出したり。
因縁が何かあったりするのですかね。
それとは別に、洞窟というのがどうにも苦手です。
色々なものが吹き溜まっているようで、もやもやしてきます。
あと、やたら取ってつけたような聖遺物だらけの神社やお寺。
まあ、そういった違和感の裏に隠されたものを探るのも、楽しいっちゃ楽しいですが、ね。
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