履中天皇の御代、上野国に無実の罪で配流された「高野辺大将・家成」という公家がおりました。
家成は息子一人、娘三人を儲け、一家は都を追われたものの、上毛野国で仲睦まじく、日々幸せに暮らしていました。
美しい姫の名は「淵名姫」「赤城姫」「伊香保姫」と言います。
やがて息子は成人したのをきっかけに都に上がり、帝にお目通りする機会を得て仕官を許されました。
残る家成一家の皆は、上野国で暮らし続けていましたが、姫たちの母が病で38歳の春に亡くなってしまいました。
姫たちは、それぞれ11歳、9歳、7歳のことでした。
家成は残された娘らを不憫に思い、その年の秋、後妻を迎えます。
時は過ぎ、高野辺大将・家成は罪を免じられ、上野国国司に任じられました。
家成は娘達のことを継母に委ねて、出仕することに。
ところが、兼ねてより3人の姫を疎んじていた継母は、この時とばかりに、荒くれ者で有名な弟「更科次郎兼光」を呼び寄せ言いました。
「前妻の姫君たちをお前に嫁がせようとしましたが、あの娘らはお前を田舎者の卑しい男と嫌っています。私は最愛の弟を馬鹿にされくやしい」
怒り狂った兼光は賊を集め、3人の姫らを殺害する計画を立てました。
兼光は長女の淵名姫を追い詰め、利根川に沈めて殺しました。
淵名姫、神無月の初めの16歳の時でした。
これを知った次女の赤城姫は赤城山へ、末娘の伊香保姫は伊香保山(榛名山)へ逃げました。
赤城山で彷徨う姫は精も根も尽き果て、打ちひしがれていました。
すると姫の元に、世のものとは思えない美しい女性が現れました。
「この世は命はかなく、夢と幻。あなたを竜宮城という、素晴らしき場所へお連れしましょう」
美しい女は赤城沼の龍神でした。
赤城姫は沼の龍神の跡を継ぎ、赤城大明神となったのです。
すべて予定通り事を終えた継母と兼光は、何食わぬ顔で月日を送っていました。
ひとり国司の務めを果たしていた家成の元には、淵名姫が亡くなり、残りの二人の姫も行方が分からなくなったとの話が詳しく伝えられました。
家成は大変驚き、その後は何事も話さず、ふさぎ込んでしまいました。
夜が明け、家成は淵名姫が沈められたという倍屋淵に向かいました。
「我が娘、淵名姫よ、どうかその姿を見せておくれ」
すると、水面がざわめき、波の中から淵名姫が現れました。
「私は継母の恨みを受け、淵の底に沈められてしまいました。しかし母が日に一度、天界より赤城山とこの淵に通ってくださるので寂しくありません」
そう告げて消えゆく姫に、私も連れていってくれ、と家成は倍屋淵に飛び込みました。
すると、一帯を紫雲がたなびき、倍屋淵を覆い隠したということです。
家成の息子、左少将は中納言の職にありました。
二人の姉の死、父親の自害の知らせを聞き、大変驚いた少将はすぐさま東国へ下ることにしました。
急な出立であったので、その数は主従七騎だけでしたが、この話を聞いた帝は少将を新たな国司に任命し、兵を出させるよう命じました。
少将が都を出る時は七騎だった軍勢は、美濃の国で一千騎、参河国八橋で三千騎、駿河の国神原で一万騎、そして足柄山を越え武蔵の国府に着いた時には、五万騎余りにもなっていました。
上野国の国司が大軍勢を率いて自分を捕らえに来ていると知り、更科次郎兼光と継母は信濃へ逃げようとしましたが、あえなく捕まることに。
兼光を戒めるため、倍屋淵に引き連れ、船から上げ沈めを繰り返し、責めたてました。
しかし兼光はついに悔いることもなく、首に石を括り付けられ、淵底に沈められてしまいました。
国司は捕らえた継母も淵の底に沈めようと思いましたが、思い止まり、信濃に追放することにしました。
しかし悪行が知れた継母に世間の目は冷たく、頼った甥もとばっちりで破滅させられ、女を恨みました。
甥は女を更科の山奥の冠着山に捨て、継母は雷に打たれて死んだといいます。
この山は、彼が伯母を捨てた事により、伯母捨山と呼ばれるようになったとのことです。
国司は、父と妹が亡くなった跡に神社を建て、霊魂を鎮めることにしました。
次に、赤城の沼に行き、岸で祭祀を行いました。
するとこちらに向かってくる、一羽の鴨がいます。
よく見てみると、その左右の翼の上には煌びやかな御輿があり、妹の淵名姫と赤城姫が乗っていました。
神になった二人の妹の姿を見た国司の目には、とめどなく涙が溢れます。
が、束の間の再会ののち、鴨の背から姫君らの姿は霞のように消えてしまいました。
二人を乗せていた鴨は大沼に降り立ち、小鳥ヶ島へと姿を変えました。
国司は大沼の畔に神社を建て、三昼夜にわたって姉を祀りました。
以来、赤城の神様にお願いした女性の願い事は必ず叶えられ、またこの神様にお願いすると美人の娘が授かるといわれるようになりました。
赤城山を下った国司は、群馬郡の地頭、有馬の大夫の宿に到着しました。
そこには唯一生き残っていた妹の伊香保姫がいました。
伊香保姫は大夫の義弟「高光中将」を婿に取り、夫は国司として有馬を平和に治めました。
有馬は領地が狭いので、姫夫婦は群馬郡内の自在丸という処に家を建てて住むことにしました。
今の総社という神社の建っている所が伊香保姫の住んでいた所だといわれています。
また伊香保姫は亡くなったのち、匿われた榛名山に迎えられ、榛名明神となったということです。
ー『神道集』巻第七 四十巻第七 四十「上野國勢多郡鎮守赤城大明神事」ー
榛名山、妙義山と並び、上毛三山の一つに数えられている「赤城山」、そのカルデラ湖「大沼」の東岸に「赤城神社」があります。
赤城神社は神橋「啄木鳥橋」を渡った先の小島「小鳥ヶ島」の上に鎮座しています。
元は別の場所に鎮座していましたが、1968年(昭和43年)に現在地に遷座しています。
美しい啄木鳥橋ですが、今は老朽化激しく、しばらく渡ることは叶いません。
神社へは別の参道を歩いて向かいます。
参道を歩いていると、二人の姫君を乗せて現れ、小鳥ヶ島になったと云う鴨が道案内をしてくれました。
当社の創建については不詳とされますが、社伝では崇神天皇の時代に「豊城入彦命」が創建したと記されています。
日光市・男体山麓の戦場ヶ原には、男体山の神と赤城山の神がそれぞれ大蛇と大ムカデになって戦い、男体山の神が勝利をおさめたという伝説があります。
「アカギ」という山名は、神が流した血で赤く染まったことから「赤き」が転じたとの話です。
戦場ヶ原で負けた赤城山の神は老神温泉で傷を癒した後に男体山の神を追い返したと云うことです。
祭神は「赤城大明神」「大国主命」(大穴牟遅神)「磐筒男神」「磐筒女神」「経津主神」「豊城入彦命」の6柱。
親魏和王の卑弥呼「宇佐豊姫」の息子、豊城入彦の存在が際立ちます。
イクメ大王(垂仁天皇)に追われ、豊城入彦の一族が逃れついた場所になるのでしょうか。
決して大きな神社でもないのですが、『神道集』にもその伝承が記されるなど、豊城入彦の威光を感じ取れる節はあります。
しかし当社の人気を押し上げているのは、神道集にある「赤城姫」と「淵名姫」の伝承によるところが大きいでしょう。
赤城神社では、赤城姫と淵名姫の伝説をモデルにした「十二単赤城姫織込み柄」の御朱印帳が御朱印ガールに人気だそうで、品切れになることも多いとのこと。
このノーマルバージョンに加え、四季ごとの別のバージョンもあります。
境内の端に向かうと、日が沈む大沼湖畔に出ます。
この湖からは、祭祀に使われた鏡も発見されたのだそうです。
啄木鳥橋を逆の方に進んだところには、
見守るように稲荷社が鎮座していました。
赤城神社を後にしようとした時、石の鳥居を見つけました。
どうやらここが、赤城神社の旧社地のようです。
社殿はなくとも、そこにある悠久の祈りの残滓は、ここが今尚特別な場所だと教えてくれます。
当地は「大洞」と呼ばれます。
また隅の方では、姫の姿を求めるように、湖に突き出す弁天社が祀られていました。
こんばんはCHIRICOさん。
大洞赤城神社の景色は素敵ですよね。
私はそんな赤城おろしの風を毎年冬に浴びている埼玉人です。(笑)
関の東に敗者の歴史。関東が栄えたのは徳川家のお陰。
というわけで、埼玉は氷川神社だけでなく、渡来人で高句麗から亡命した王子でジャッコウオウなる人も紹介させて下さいな。
高句麗滅亡は7世紀位になるのでしょうか。国を滅ぼされ日本に亡命し埼玉は日高市に高麗郡をつくり各地に散っていた各地で迫害された同胞達を集めました。なんてのが高麗神社の略歴です。
その後の時代に平氏についたようですね。どっかで高麗平氏という字を見ました。
また、この地で子孫繁栄してきた民は、高麗の氏で迫害された人達が新たな地に経つ時に音は同じで「駒」を用いた氏で各地に子孫を増やしたそうな。この辺りは言い伝えです。
この神社は立身出世が御利益らしく、ここを詣でた政治家が総理大臣になってます。埼玉県民ではないですが(笑)
また、現在、上皇様になった陛下も平成30年の時に僥倖で来られたようです。
こちらにお越しの際に興味があったらお越しくださいませ。
では、あらあらかしこ(笑)
追伸、最近、通信費使いすぎてギガが・・・でなもんでカキコはしばらく控えますが記事は楽しみに待ってますよ。
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高麗神社、面白そうですね。
埼玉といえば三峯神社がまだ未訪問ですので、その時か、群馬再訪の時か、どちらかで必ず訪れたいと思います。
僕は1泊2日の旅が基本なので、あまり欲張ってたくさんは訪問できないのが残念です。
僕が一番不思議に思うのは、日本はとても小さな島国で、多くの渡来人も移住してきた歴史があるのですが、
なのに隣国のように他民族に征服されることはなく、渡来人は皆帰化し、日本人として、日本人の特性に染まって生きてきたということです。
これは日本の国土に浄化の力があり、また古来より災害大国である日本においては、小さな小競り合いはあるものの皆力を合わせて生き抜かねばならない状況と、それを成し遂げた先には大きな幸と恩恵を与えてくれる我が日本独特の自然環境があるからだと思っています。
僕が旅する1番の理由がそこにあり、日本とはなんなのか、日本人の根源は何なのか、そのまほろばを求める旅だと言っても良いと思います。
亡国の高麗人は日本に渡り、高麗郡まで作ったのに、自国の祭祀ではなく日本の神社を建てたというのが面白いですね。
日本人はシャイですので、排他的な一面もありますが、それでも日本人として染まりたいという思いが、当時の高麗人にもあったのかもしれません。
また日本に染まり、日本人として生きていこうという外国人には、日本人は寛容だと思っています。
ギガやばそうですか、それは少なからず当ブログにご来訪いただいている影響もあるかと。
なにせ写真がバカみたいに多いもので、wi-fiにてご閲覧、よろしくお願いします。
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おおっ。赤城に居られましたか。
赤城神社は貫前神社と一ノ宮を争う位置におりました。が、朝貢において劣っていて納める物が足りない事態に貫前側から助け船が出された事もあり、一ノ宮を譲ったそうです。貫前神社は渡来系神社。機織の技術、紙の精製の技術に優れていて、今日の群馬の礎を築いた事が伺えます。
もう一つ。日光と赤城の神様の争い。
蛇と百足。神話の中で動物や虫、魚類、は虫類、天狗に鬼、妖怪、色々出てきますが、元は人間です。人間の容姿や住みか、職業、血筋、そういう人達を目上の立場から比喩で例えられたということです。
今回の大蛇は渡来系の人達の目が蛇のように細い事から。百足は土を掘る事に長けた一族。鉱山を生業とした人達の領土争いが伺えます。
そうやって神話の奥底にある史実を追うのもまた、いとおかし。(笑)
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こんにちは、8まんさん。
はい、貫前神社にも行きましたよ。
あちらは完全に秦氏系の神社ですね。
すぐ近くに富岡製糸工場があるのも趣深いです。
赤城神社が一ノ宮を譲ったと云う話は聞いていましたが、そのような経緯が。
日光と赤城の神様の争いについては僕も気になっていました。
古代では出雲族に龍神信仰があったので、蛇=出雲族とされることも多かったようです。
アラハバキは、出雲の神木にワラヘビを巻きつける祭祀を、東北に敗走した大彦の子孫が祀ったものだということです。
なんでも出雲、というのもあまり好ましいとは思いませんが、日光を訪ねた時、二荒山神社の祭神、および近辺の祭祀形態から、出雲族の痕跡を彷彿とさせたものです。
特に事代主ではなく「味耜高根彦命」を祀っているあたり、創建者は出雲通だなと思った次第です。
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