北口本宮冨士浅間神社

投稿日:

5160004-2023-06-6-09-22.jpg

山梨県富士吉田市にある「北口本宮冨士浅間神社」(きたぐちほんぐうふじせんげんじんじゃ)を訪ねました。

5160005-2023-06-6-09-22.jpg

参道を見上げると、天の川のような青空が垣間見えています。

5160006-2023-06-6-09-22.jpg

杉と石灯籠が続く参道は、数ある浅間神社の中でも、格式高さを滲ませています。

5160007-2023-06-6-09-22.jpg

由緒によれば、景行天皇40年(110年)に、日本武尊が東方遠征の折、箱根足柄より甲斐国酒折宮に向かう途中、当地の「大塚丘」に立ち寄り、そこから富士山の神霊を遥拝し、
「北方に美しく広がる裾野をもつ富士は、この地より拝すべし」
と勅し、これに従い大塚丘に鳥居が建てられ、後の景行天皇50年に祠を建て浅間大神と日本武尊を祀ったのが創建であると伝えます。

5160008-2023-06-6-09-22.jpg

伝説としては、初めて富士登山を行ったのは、大宝元年(701年)の「役君小角」(役小角)という行者であるとされ、のちに富士講の開祖と仰がれる藤原角行が、天正5年(1577年)に登拝しています。

5160009-2023-06-6-09-22.jpg

参道には「角行の立行石」(かくぎょうのたちぎょういし)と呼ばれる巨石がありますが、これは慶長15年(1610年)の冬に、69歳の角行が富士山を遥拝しつつ、30日間にわたって石の上に爪立ちするという荒行を成し遂げた聖蹟であるということです。

5160012-2023-06-6-09-22.jpg

役君小角は、富士林雅樹先生の『出雲散家の芸と大名』によると、出雲散家出身だったと記されています。それに対し、角行は藤原鎌足の子孫だと伝えられていました。

5160013-2023-06-6-09-22.jpg

ともかくも角行は、江戸時代に富士講を結成した人びとによって、信仰上の開祖として崇拝されてきました。

5160017-2023-06-6-09-22.jpg

c1d-2023-06-6-09-22.jpg

5160015-2023-06-6-09-22.jpg

初めての富士登拝が役君小角によるものだったかは定かではありませんが、古代の富士山は神の坐す山として人が立ち入ることは禁忌とされていました。
よって神奈備である富士山の祭祀は、麓から遥拝によってなされていました。

5160018-2023-06-6-09-22.jpg

天応元年(781年)に富士山の噴火がありました。これに甲斐国主の紀豊庭朝臣が卜占し、延暦7年(788年)、大塚丘の北方である当地に社殿を建立しました。
そして大塚丘に祀られていた浅間大神をここに遷すことになりました。

5160019-2023-06-6-09-22.jpg

それが北口本宮冨士浅間神社になったのだそうです。

5160021-2023-06-6-09-22.jpg

隋神門を潜ると神楽殿があります。

5160023-2023-06-6-09-22.jpg

手水舎も立派です。

5160033-2023-06-6-09-22.jpg

そして拝殿。

5160024-2023-06-6-09-22.jpg

威風堂々、絢爛豪華な社殿です。

5160026-2023-06-6-09-22.jpg

祭神は「木花開耶姫命」(このはなさくやひめのみこと)。
そでに夫神の「天孫彦火瓊瓊杵命」(てんそんひこほのににぎのみこと)と父神の「大山祇神」(おおやまづみのかみ)を併せ祀ります。

5160028-2023-06-6-09-22.jpg

富士講(ふじこう)とは「浅間講」(せんげんこう)とも呼ばれ、江戸時代に成立した民衆信仰のひとつで、先に紹介した角行の系譜を汲むものをいいます。
角行(長谷川角行、藤原角行東覚)を開祖とする富士講は、二世に「黒野日行日玵」(日旺・日玥、黒野運平)、三世「赤葉澰行玵心」(旺心・玥心、赤葉庄左衛門)、四世「前野月玵」(月旺・月玥、前野理兵衛)、五世「村上月心」(村上七左衛門)と続き、六世の「村上光清」(村上三郎右衛門)に至ります。

5160029-2023-06-6-09-22.jpg

初の講社は三世の旺心によって組まれ、以下の3つを掟としました。
「良き事をすれば良し、悪しき事をすれば悪し」「稼げは福貴にして、病なく命長し」「怠ければ貧になり病あり、命短し」

5160031-2023-06-6-09-22.jpg

六世の村上光清による富士講は、村上講と呼ばれ、のちに富士御法家という呼称になりました。
村上は主に大名や上層階級から支持され、大きな組織となります。

5160032-2023-06-6-09-22.jpg

村上光清は、享保18年(1733年)から元文3年(1738年)までの6年間で私財を投じ、北口本宮冨士浅間神社の大造営を行いました。
幣殿、拝殿、神楽殿、手水舎、隋神門などの現存する社殿と境内構成のほとんどはこの時に定まり、廃仏毀釈により損失しつつも噴火の被害は受けずに、今もなお当時の趣を伝えています。

5160035-2023-06-6-09-22.jpg

これほどの村上講でしたが、枝講を認めなかったため、昭和に入って衰退し、東京では断絶することとなります。
現在、光清派の後継を名乗る宗教としては冨士教があるそうです。

5160034-2023-06-6-09-22.jpg

c1d-2023-06-6-09-22.jpg

5160041-2023-06-6-09-22.jpg

北口本宮冨士浅間神社は、本殿の裏をぐるりと周回するよう、順路が定められています。

5160038-2023-06-6-09-22.jpg

富士講の指導者は「御師」(おし)と呼ばれました。
彼らは信仰の指導者であると同時に、富士講の講員に富士登山時の宿泊所や登山道についての情報、必要な食料や装備を提供する役目を荷っていました。

5160044-2023-06-6-09-22.jpg

そのため最盛期では、吉田口には御師の屋敷が百軒近く軒を連ねており、江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人」と言われるほどであったといいます。

5160042-2023-06-6-09-22.jpg

北口本宮冨士浅間神社の現在の本殿は、元和元年(1615年)、鳥居土佐守成次殿の創建です。

5160046-2023-06-6-09-22.jpg

本殿の左右には東宮本殿と西宮本殿がありますが、

5160050-2023-06-6-09-22.jpg

向かって左手の「東宮本殿」は、永禄4年(1561年)に武田信玄が再建した、現存する社殿の中で最も古いものであり、

5160054-2023-06-6-09-22.jpg

向かって右手の「西宮本殿」は、文禄3年(1594年)に浅野氏重が造営した社殿と伝えられます。

5160053-2023-06-6-09-22.jpg

現在この二つの社殿は、塗装の塗り直しが行われたばかりで、見てみると艶やかな、深い赤色をしていました。

5160052-2023-06-6-09-22.jpg

そして本殿の真後ろは「恵毘寿社」となっており、富士えびすとして商売繁盛にあやかる人々に崇敬されていました。

5160051-2023-06-6-09-22.jpg

c1d-2023-06-6-09-22.jpg

5160055-2023-06-6-09-22.jpg

富士講の活動は、定期的に行われる「オガミ」(拝み)とよばれる行事と、「富士詣」(富士登山)から成っていました。

5160056-2023-06-6-09-22.jpg

富士講にとって聖地は富士山であり、巡礼として事前に一定の期間身を清め、そして富士山登拝を繰り返しました。

5160059-2023-06-6-09-22.jpg

北口本宮富士浅間神社はこの、富士登山道の吉田口の起点にあたります。

5160058-2023-06-6-09-22.jpg

上吉田では富士講の流行を早くから受け入れ、そのため吉田口は登山道の中心となりました。

5160062-2023-06-6-09-22.jpg

ところで当社創建の大元は、景行天皇40年に、日本武尊が当地の「大塚丘」に立ち寄り、そこから富士山の神霊を遥拝したことにあると先に記しました。
が、これには少々疑問があります。

5160066-2023-06-6-09-22.jpg

果たしてヤマトタケル、もといハリマタケルは富士の北側である当地に、わざわざやってきたでしょうか。

5160063-2023-06-6-09-22.jpg

というのも当地は本来、彼らがエミシと蔑んだ諏訪の一族がいた形跡があるからです。

5160065-2023-06-6-09-22.jpg

境内にある、一際立派な境内社は諏訪神社。
諏訪の王「建御名方神」(たけみなかたのかみ)と、その后「八坂刀売神」(やさかとめのかみ)を祀ります。

5160067-2023-06-6-09-22.jpg

諏訪神社は元々は当地域の氏神でした。
文化11年(1814年)に編纂された『甲斐国志』には、古来より社中に「諏訪の森」が位置し、諏訪神社の鎮座地に浅間神社を勧請したと記されています。
永禄4年(1561年)に武田信玄は、吉田の諏訪の森の木を伐ることを禁止しており、『甲斐国志』によると、同年に武田信玄が富士権現を造営したとあります。
このことから、永禄4年の信玄による富士権現造営が、現在の北口本宮冨士浅間神社の元になるものと考えられており、それ以前は諏訪社のみが鎮座していたとされるようです。

5160069-2023-06-6-09-22.jpg

つまり当地には、古い時代から、諏訪系の一族が勢力を持っていたことを物語ます。
江戸時代中期以降は富士講の影響もあり、「諏訪大明神」よりも「浅間大菩薩」「富士浅間明神」の名のほうが大きくなり、やがて諏訪社から浅間神社と変えられていったのは自然な成り行きだったのかもしれません。
また、富士講の祖である角行は、藤原鎌足の子孫であり、鎌足の子・不比等が編纂させた古事記・日本書紀の、誤った歴史観に対してもそれを引用することに抵抗はなかったのかと思われます。

5160071-2023-06-6-09-22.jpg

浅間明神の勧請元は「大塚丘」とされていますが、『甲斐国志』の記載によれば、吉田口二合目の小室浅間神社(現在の冨士御室浅間神社)であるといいます。

5160075-2023-06-6-09-22.jpg

同じく『甲斐国志』によれば、文化11年(1814年)の時点では、冨士御室浅間神社を「上浅間」、そこから勧請した北口本宮冨士浅間神社は「下浅間」と呼ばれていたとされます。
さらにそれとは別に、冨士山下宮小室浅間神社が「下ノ宮浅間」と呼ばれていました。

5160076-2023-06-6-09-22.jpg

しかし二合目の冨士御室浅間神社は勝山の氏神であり、吉田との交流が少なかったことや、富士スバルラインの開通などにより五合目までの登山道が衰退したことから、現在では二合目の冨士御室浅間神社を「上浅間」と呼ぶことは少なく、代わりに北口本宮が「上浅間」と呼ばれ、冨士山下宮小室浅間神社が「下浅間」と呼ばれることが多くなっています。

5160077-2023-06-6-09-22.jpg

ところで北口本宮冨士浅間神社から250mほど離れた大塚丘(おおつかや)に来ておりますが、

5160078-2023-06-6-09-22.jpg

こんもりとした丘の上には、一本の杉と、小さな祠がありました。

5160081-2023-06-6-09-22.jpg

こちらにはヤマトタケルが祀られていることになっています。

5160083-2023-06-6-09-22.jpg

正直なところ、僕の興味は古代に向いており、比較的新しい信仰である浅間信仰にはあまり興味がありませんでした。
富士の神、浅間大神がコノハナサクヤヒメであるというのも、違和感というか、しっくり来るものがありません。

5160084-2023-06-6-09-22.jpg

しかしコノハナサクヤヒメの姉、イワナガヒメが不老長寿の象徴であること、そして当地に残る諏訪信仰の痕跡が絡む時、この後少し面白い事実に出会うことになるのでした。

5160087-2023-06-6-09-22.jpg

0408e58c97e58fa3e69cace5aeaee6b585e99693e7a59ee7a4be-2023-06-6-09-22.jpg0409e8ab8fe8a8aae7a59ee7a4be-2023-06-6-09-22.jpg

2件のコメント 追加

  1. Nekonekoneko のアバター Nekonekoneko より:

    🐥富士山を遥拝しつつ30日間石の上に爪先立ちするとは、サーカスか大道芸にしか役立ちそうもない荒行ですな🐤角行さんは相当な暇人だったんやな🐣

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      まあ得てして、荒業とはそういったものです。
      そして大抵はあまり意味がなかったと、悟るものです、知らんけど。

Nekonekoneko へ返信するコメントをキャンセル