松尾大社

投稿日:

p9052268-2017-09-13-20-29.jpg

上賀茂神社・下鴨神社と共に京都で最古の神社と云われる「松尾大社」に足を運びました。

p9052269-2017-09-13-20-29.jpg

京都の人は東京は「東の都」、京都は「都の中の都」と言うそうです。
それは794年から明治2年まで(諸説あり)、日本の首都であった都だから、だそうです。

p9052271-2017-09-13-20-29.jpg

また、京都は古き良き日本の象徴ともされ、昔ながらの風情をあちこちに残しています。
かつては僕もそう感じていました。
しかし古史を旅していくと、京都でさえ新しい都だと感じてしまうようになってしまいました。
真に古い大和の都は、それは奈良であり、出雲であり、九州北部であったりして、
京都は煌びやかな、新都であると感じるようになりました。

p9052272-2017-09-13-20-29.jpg

今回、京都を散策しても、神社などの創建は平安時代前後で、わりと新しい、と思ってしまいます。
さて、松尾大社です。
「両流れ造り」の美しい本殿と伺いましたが、

p9052273-2017-09-13-20-29.jpg

なんと、神門を含め、修復中でした。

p9052275-2017-09-13-20-29.jpg

松尾大社の由来では、もとは背後にある松尾山の神霊を山頂近くの磐座に祀ってきたそうです。
それを渡来人「秦忌寸都理」(ハタノイミキトリ)が、大宝元年(701年)に社殿を構え、神霊を移して祀ったのが起源だと云います。
秦忌寸都理…そう、秦氏です。

p9052276-2017-09-13-20-29.jpg

秦氏は謎多き一族と云われていますが、古代出雲伝承を紐解くと、その実態が見えてきました。

p9052277-2017-09-13-20-29.jpg

秦氏は朝鮮からの帰化人だとよく云われていますが、秦氏の秦は支那秦国の秦です。
秦の始皇帝の時代、徐福とともに渡来した一族が、秦氏と呼ばれています。
彼らは製鉄・養蚕・漢方など、様々な技術と文化を日本にもたらしました。
ただ、秦氏と呼ばれる彼らが生粋の秦人であるかというと、そうではなく、秦が六国を滅ぼし支那を統一する中で最後まで抵抗したとされる「斉」(せい)の民であったと云います。
彼らは「イスラエルの失われた10支族」の末裔であったそうで、彼らの関わった日本の神社にはイスラエルの六芒星が残されていることがあるようです。

p9052278-2017-09-13-20-29.jpg

御祭神は「大山咋神」(オオヤマクイノカミ)と「市杵島姫」(イチキシマヒメ)です。
市杵島姫といえば宗像三姉妹のひとりです。
なぜここに祀られているのか。

p9052280-2017-09-13-20-29.jpg

大山咋神が秦氏の祖神「徐福」のことであるとしたなら、その関係にも納得がいきます。
徐福は二度、日本へやってきますが、最初の渡来では西出雲へ上陸し、「火明」(ホアカリ)と名乗ります。
そして出雲王「大国主・八千戈王」の娘「高照姫」を妻に迎えます。
やがて徐福は妻子を出雲に残し、祖国秦へ帰っていきます。

p9052281-2017-09-13-20-29.jpg

徐福が再び渡来したのは有明海の佐賀平野でした。
そこで徐福は「饒速日」(ニギハヤヒ)と名乗ります。
そして妻に迎えたのが出雲王家の分家である宗像「吾田片隅」(アタカタス)王の娘、宗像三姉妹の末の「市杵島姫」でした。

p9052283-2017-09-13-20-29.jpg

ちょっと疑問なのは、大山咋神の伝説によると、「丹波の開拓に尽力した」とあるので、大山咋神は徐福というよりは、その出雲での息子「五十猛」(いそたけ)のことであろうと思われます。
五十猛らは丹波に移り、海部家(あまべけ)の祖となって開拓します。
やがてその子孫たちが秦氏として、丹波から山代へ移住してきて、精錬、養蚕、醸造などの技術を太秦界隈にもたらし、やがて大きな力を持って松尾大社を建立したのでしょう。
とするなら、市杵島姫を祀るのではなく、母の高照姫、もしくは妻の大屋姫を祀るのが筋ではないでしょうか???
よくわかりません。

p9052288-2017-09-13-20-29.jpg

松尾大社の裏にある山中には古代から祭祀されてきた磐座があるそうです。
ただ有料であるのと、二人以上でなければ登山できないこと、撮影等はできないなどの理由で参拝は諦めました。

p9052286-2017-09-13-20-29.jpg

松尾大社といえば、「酒造の神様」です。
亀と鯉が神使であると云います。
残念ながら下戸な僕ですが、酒の神といえばどうでしょうか、三輪山の事代主の方が一枚上手なように、僕は感じます。

p9052285-2017-09-13-20-29.jpg

0212e69dbee5b0bee5a4a7e7a4be-2017-09-13-20-29.jpg

7件のコメント 追加

  1. narisawa110 より:

    大歳教団って、どんな位置付けの集団だったのでしょうね。

    新しい宗教に入信させて、大歳彦→カゴヤマになったときに出雲勢力とカゴヤマの間に絶交があり、大屋姫は遠ざけられたのか。
    元々出雲勢力はオミツヌの時代に丹波には入っていたと思われ、新田開発の為に出雲王家の方針で移転して行ったとも考えられます。
    少なくともカゴヤマが丹波に行った時には、①丹波先住の出雲族はその頃王家とは距離があったと考えて推論するのがいのか、②仲そのものは良くて親和性が高く、開発には障害が無かったと考えるのが良いのか。

    ②の場合は、カゴヤマに島根から左遷の様な印象を与えている可能性もあり、その後の物部氏と手を結んだ際に大屋姫と実質離縁となった流れを想像します。

    ①の場合は、島根王家による入植の方針が窺われる事になり、歴史評価や、伝承の伝えられ方には一石が投じられるべきと思います。

    物部との婚姻は、国譲り事件の手打ちのやり方であったとするのであれば、本当に戦略的で、政略的な婚姻関係です。
    まるで、大王を意図的に作り出そうとしていたかの様です。
    短期間にそのようなまとめ方が出来たとするのであれば不気味なほどの頭脳の持ち主がいたことになります。

    昔は、娘を差し出すことは、どういう意味があったのか、そこに収束する可能性がありますが、徐福も本当に短期間に無視できない勢力を九州に構築したことになります。

    話は変わりますが、たぬきさんのお話はすごいですよね。物部たぬき彦さんみたいw

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      僕は②の説が近いような気はしていますが、自信はありません。
      確かに王と副王を殺されておきながら、出雲族の人の良さには違和感を感じるところです。

      たぬきさんはもうコメントをくださってないのですが、また色々と教えていただきたいです。

      いいね

  2. れんげ より:

    私も飛鳥の独特の空気感にハマって以降、「京都は新しい」と感じるようになりました。飛鳥に初めて行った時、「ここは古代の空気が封じ込められている!」と感じ、そうしたら平城京すら新しく、ましてこの間まで都だった京都は現代につながっている新しいところ、という感覚になってしまいました。
    それが、最近は大神神社周辺や葛城、さらに出雲へとせっせと行くうちに、飛鳥も若干新しく感じるように。初めて訪れた頃と比べると整備が進み、当初感じた「神秘のベールに覆われた感」が減ってしまったのもあるかもしれません。でも変わらず大好きですが。世界遺産目指さなくていいよ〜。
    そんななので、京都駅に降り立ったことは数知れずなのに、そのほとんどで、即、奈良方面へ南下してしまうため、京都はご無沙汰になりがちでした。が、上賀茂神社と下鴨神社には行かねば、と昨年の春に少し京都を巡りまして、その際に松尾大社にも行ってまいりました。
    仰る通り、お酒と言えば大神神社!なのに、やはりお酒の神様としてあちこちで見られる松尾神社・大山咋神。誰???と思っていましたが、こちらの五十猛説、納得です。
    お酒は飲まれないのですね。私はビールやサワーは飲みますが、残念ながら日本酒は飲めません。日本酒が飲めたら、国内を旅行するのにもっと楽しみが増えたのに。葛城酒造の「風の森」とは、日本酒好きが飲んだらどんな感想を持つ味なのか…。残念です。以前、大神神社にたまたま11月14日の酒まつりの日に行き、枡でお酒が無料で振舞われていました。お猪口にほんの少しでいただけるなら是非試したかったですが、枡でなんて無理無理無理…。残念でした。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      大神神社の神酒なら是非いただきたいところですが、升は無理ですね、命に関わります(笑)
      明日からの第三月火の連休で、奈良のダンノダイラを訪ねたいと考えていましたが、コロナ急増で白紙にしました。
      もうずっとお預けで気が変になってしまいそうですが、接客業なので慎重になってしまいます。
      今、長野にも行きたい気持ちが高まっています。
      豊来入彦の足跡を、無性に辿りたいのです。

      世界遺産なんてろくなものではありませんね。
      史跡・聖蹟を保存するのにもお金はかかるでしょうが、そこを大切にしてくれる人だけに知ってほしいというのが本音です。

      いいね

    2. CHIRICO より:

      そういえば、「風の森神社」というちょっとマニアックな神社も葛城にありますよ。

      https://omouhana.com/2017/12/01/風の森神社/

      いいね

  3. たぬき より:

    徐福さまの第一次渡来時(西出雲~石見地方)には二千人を引率してきたそうです(第二次渡来(九州に上陸)の際には三千人)。
    大出雲王国の簒奪に失敗した徐福が母国に逃げ帰った際には
    そのほとんどが置き去りにされたとか。
    後、徐福(徐市)と出雲の富王家の高光姫(八重波津身の姉妹)の御子の五十猛/海カゴヤマは
    その取り残された秦国人を改めて糾合して母親の高光姫や大家姫(高光姫の姪?)らと共に丹波に入植して開発。

    勢力(大丹波国)を蓄え、丹波人(秦国人?)らを武装させ、
    出雲族らがそれに先立ち入植開発した大和地方に南下して入植(屯田?)させます。(山城国=京都市周辺はその経路(円山川~保津川?、、、桂川、、、淀川~木津川~古奈良湖)であり、補給場所/拠点だったか?)
    当時は京都盆地も広大な湖沼が広がっていたかもしれません。
    それゆえに高台?に拠点を構えたか(京都盆地の地下水量は現在も琵琶湖に匹敵すると言われる)

    父のカゴヤマから御子の海村雲に引き継がれて
    結局、都合一万人の丹波勢が大和地方に流入して威勢を張った
    (当時は奈良盆地の低地、平野部はほとんどが湖沼(古大和湖)だったようです)事から

    先住の出雲神族らを圧倒するに至り、彼らから大和の大王に推戴されて初代大王に即位
    、、、

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      奈良盆地が往古には湖沼であったという話は知っていましたが、京都盆地もその可能性があったとは、思い至りませんでした。
      そういえば、長野の諏訪湖も、かつては盆地を覆うほど水位が高かったと云います。
      各地に散った出雲族が、それぞれ大きな湖沼の高台に移住したというのは、面白い偶然ですね。

      ところで、なぜ徐福は、二度にわたって日本に渡来したのか。
      一度目の渡来で不老不死の妙薬を見つけられず秦国へ戻れば、始皇帝に殺される可能性もあったのに。
      そして当時の二度もの渡海そのものが、多分に危険をはらんでいたというのに。
      それは、彼の連れてきた計5000人の童男童女にヒントがあると思いました。
      彼は秦人ではありますが、それは始皇帝が統一を果たした後の事。
      元は秦が最後に滅ぼした斉国の人でした。
      つまり生き残った徐福の民も、始皇帝に殺される可能性があったのです。
      徐福が出雲王に成り代わろうとしたという説もあるようですが、それならば危険を冒して秦国に戻った理由が見つからず、
      彼は単に故郷の子供達を、平和な日本に連れ出そうとしたとすれば、この説明がつくように思われます。
      出雲を我が物にしようとしたのは、徐福ではなく、彼の威を借りた穂日らだったというのが、僕の見解です。

      いいね

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください