出雲阿国:八雲ニ散ル花 番外

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「出雲阿国」(いずものおくに)は、安土桃山時代の女性芸能者で、「ややこ踊り」を基にして「かぶき踊り」を創始したと伝えられる女性です。

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「ややこ踊り」とは、可愛らしい幼子のような踊りのことでしたが、阿国が各地を興行していく上で、世の人々が求めている踊りに変わっていきます。
その末に生まれた「かぶき踊り」は、女の阿国が武士に男装して、遊女のような茶屋の娘と戯れる様子を演じたものでした。
この「かぶき踊り」は、エロティックさを含んでおり、すぐに遊女屋にも取り入れられ世の男性の人気となるのです。

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しかし阿国の出生・生涯は謎も多く、はっきりとしたことがわかっていないと云います。
一般に阿国は、出雲国杵築中村の里の鍛冶「中村三右衛門」の娘といい、出雲大社の巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったと云われています。

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【連歌庵】
出雲大社のすぐそばに、出雲阿国ゆかりの地として「阿国寺 連歌庵」(西蓮寺)があります。

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歌舞伎の始祖として一世を風靡した出雲阿国は、晩年は大社に帰り、尼僧「智月」となり、読経と連歌に興じて静かに余生を過ごしたと云われています。
阿国の過ごした草庵は阿国寺「連歌庵」と呼ばれるようになりました。

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実は、この出雲阿国の正体は、旧出雲の豪族たちで創られた「散自出雲」のメンバーであったということです。

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【阿國塔】
奉納山の頂上に上る途中、「阿國塔」と呼ばれる、出雲阿国を顕彰した塔があります。
昭和11年、歌舞伎界の名門、中村、市川両家をはじめ、水谷八重子など当時の名優たちの寄付によって建てられました。
現在の塔は、昭和43年に再建されたものです。
出雲阿国は、かぶき踊りを創始したことから、歌舞伎の創始者とも言い伝えられています。

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イクメ王の時代、関東地方などに住み着いた出雲系の人々の多くが国造に任命されました。
相模を初めとして師長・武蔵・須恵・馬来田・上海上・伊甚・阿波・下海上などの国造家が出雲出身だったと云います。
そのあと、兵士の一部は故郷の出雲に帰りましたが、そこに彼らのの土地は残っていなかったそうです。
止む無く彼らは再び各国に散ることにしました。
そこで彼らは、お互いに協力するために、秘密結社を作ります。
出雲から散ったので、それを「散自出雲」と名づけました。

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旧東出雲王家「富家」は散自出雲に、日本の大事件の真相を探らせ、報告する仕事を頼みました。
つまり、その集団は旧出雲王家の情報機関となったのです。
記紀は時の権力者の都合で、勝者偏重の史書になりましたが、富家の歴史記録は公平で正確なものでした。
大元出版の本は、この記録により書かれており、また出雲内では、この記録を聞く講演会が、大社町で昭和時代まで続けて行われていたと云うことです。

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【出雲阿国の墓】
安芸の名君に「毛利元就」がいます。
彼は1555年の厳島合戦での勝利を機に、安芸と周防・長門・石見を支配する大名となり、さらに勢力を伸ばしました。
そして出雲国内の諸勢力を少しずつ味方に引き入れていったのです。

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出雲の山代郷(松江市山代町)の田を富家に寄進した文書に「毛利奉行人打渡坪付」があります。
それによると、富家は大社などの社家であったので、祭日の神楽の費用にするために免田とされています。
これら神楽田の合計は、1町7反に上るそうで、これだけの費用があれば、杵築大社の祭日だけでなく、美保神社や神魂神社、真名井神社、八重垣神社の祭日の神楽行事も行うことができました。

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また年貢を、神楽団のメンバーの生活費に当てたので、散自出雲メンバーであった一座の構成員を、出雲に住まわせることができました。
つまり毛利元就は、散自出雲を保護し、彼らが集める詳しい軍事情報を得ることができたのです。
散自出雲のメンバーは出雲の各地に住み、敵軍にも味方軍にも潜むことができました。
こうしてすべての重要情報が、元就の許に集まりました。

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時は流れ、戦乱の中、毛利側の備中・高松城が、信長側の豊臣秀吉に攻められました。
この時、本能寺の変がおこり、秀吉が新しく日本の覇者となります。
この激変に対して、毛利家は秀吉と近畿にいる諸大名の動きを知る必要に迫られました。
そこで毛利元就は、富家に彼らの情勢を調査するように頼みました。
富家は散自出雲のメンバーの中から、踊りの巧い女を集めて神楽団を組織しましたが、その中心となったのが、「出雲阿国」であったと云うことです。

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彼女らは京都に出かけ、神楽より普遍性のある地方の踊りを上演し、都で人気を得ます。
出雲阿国たちは、諸大名に取り入り、徳川側に付くか、毛利側に付くかを密かに探りました。

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やがて徳川幕府の時代になると、歌舞伎踊りの人気で、京都方面で遊芸生活をしていた出雲阿国は、情報収集も不必要になったので、故郷の出雲に帰りました。
彼女は尼となり、連歌を教えながら暮らしたと云います。
彼女の住んだ庵は、連歌寺と呼ばれ、そこで生涯を終えたと伝えられています。

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激動の時代に生きた阿国の墓は、彼女の実家のそばに、ひっそりと佇んでいました。

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