
松本市の里山辺に、八坂神社がある。
その参道を進むと、境内の右側に二本の大木があり、その間から鉢巻を締めたような男石がのぞいている。
…その横に妻神のホト石がひっそりと、寄り添っている。
この夫婦石神は大事にされ、大木には締め縄が張られ、それに大きなわらのシデが三束飾られている。
地元では、子宝を授ける神石として崇敬している。
- 谷戸貞彦 著『幸の神と竜』(サルタ彦大神と竜)


「お船祭りで有名な、前陛下も見られた松本市里山辺の須々岐水神社と、近くの谷戸先生が訪れた八阪神社辺りがおすすめ」だというので、narisawaさんにエスコートしてもらい、やってきました。

松本市の里山辺地区に鎮座する「八坂神社」(やさかじんじゃ)です。

創立年は不詳。
永年元年(1504年)、島立貞永が小笠原貞朝の命による深志城(後の松本城)築城にあたり、薄川(すすきがわ)が八坂宮の北方を流れていたのを、この川がもし氾濫すれば直接深志城に危害が及ぶとして川筋を八坂宮の南に移し替えたと伝えられます。
つまりそのころには、八坂宮があったということです。

祭神は「素戔男命」(すさのおのみこと)。
本殿の屋根は、立派な藁葺きです。

そして鬼の面。

旧町村地区を除いた松本市内の神社で、萱葺き屋根の本殿を保持しているのは、当社と入山辺南方の諏訪社の2件のみとのこと。
ことさら当社・八坂神社は、三間社で規模も大きく、この地方の神社建築史上で貴重なものとなっています。

さて、大元出版の谷戸貞彦先生は、著書『幸の神と竜』の中で、写真付きで当社のことを書いておられます。

それがこの、境内の御神木と裏の石。

そこには石英の筋が入った”はちまき石”と縦に溝が入った石がありました。

なるほど、僕はこれまで、はちまき石には”白蛇”の信仰があるのではないかと考えていましたが、このように見ると男根の象徴とも捉えることができます。
narisawaさんは「隣にお妾さんもいるみたい」と話していましたが、

おそらくこれは、小さな”はちまき石”の奥方だと思われ、いわば二世帯住宅的なサイノカミとして、ここに祀られているのではないでしょうか。

この夫婦石神は、地元では子宝を授ける神石として崇敬されているとのことですが、今も昔も、生まれくる命の健やかさを願う気持ちは変わらないものです。



八坂神社から須々岐水神社へ向かう途中、「針塚古墳」(はりづかこふん)に立ち寄りました。

当墓は平成元年度(1989年)から3次にわたって発掘調査が行われ、墳頂部に長さ約2m、幅約1mの竪穴式石室、東側の周溝内に長さ約2m、幅35cm、深さ33cmの竪穴式石室などが発見されました。
特に墳頂部の竪穴式石室内からは、内行花文鏡(ないこうかもんきょう)、鉄斧(てっぷ)、鉄鏃(てつぞく)、刀子(とうす 小刀)、ガラス小玉、滑石製紡錘車(かっせきせいぼうすいしゃ)などが発掘されています。

この里山辺地区は、美ヶ原山塊から流れ出る薄川が形成した扇状地となっています。
かつては一帯に同様の古墳が数基あったそうですが、土地開発で失われ、現在はこの針塚古墳が残るのみとなっています。
北アルプスの山並みを一望できる風光明媚な里山辺は、タケミナカタが美ヶ原方面から来たという、伝承の地域になっていると、narisawaさんは話してくれました。



車を少し進めると見えてくる、こんもりとした杜が須々岐水神社になりますが、

その少し手前に、元宮があるというので立ち寄ってみました。

元宮の傍には、道祖神と青面金剛の石碑があります。
narisawaさんと僕は、とある重要な場所に青面金剛が祀られているのを見ましたので、少々敏感になっています。

そしてこの”いかにも隠してます”という雰囲気の生垣の裏に、

元宮の小さなお社がありました。

社名は「薄宮古宮」(すすきのみやふるみや)となっています。

ここが古代神を招き、稲作の豊穣を祈願した旧社地と伝えられ、須々岐氏・薄川・薄町などの語源地とも云われています。

長野県松本市里山辺に鎮座の「須々岐水神社」(すすきがわじんじゃ)にやって来ました。

境内入口にある三階建くらいの高さの建物には、お船祭りで使用される「お船」(山車)が格納されているそうです。

お船祭りは江戸時代にはじまり、現在は毎年5月5日に行われる例祭です。
9つの町会がそれぞれもっている「お船」を境内まで曳く姿は、とても勇壮なのだそうです。

鬱蒼とした境内に足を踏み入れます。

鳥居の扁額には、「薄宮大神」の文字。

ホウ、シモスワウナギノ匂イ漂ワセシモノ、キタカ。

由緒によれば、当社は古来より「須々岐水神」と称され、創始は薄川流域に古代人が定着し農業が始められた頃と推定されています。
この地の開拓祖神として薄川の神を祀り、山家(やまべ)郷民の信仰を得て現在に及んでいるとのことでした。

『日本後紀』によれば、桓武天皇延暦18年(799年)12月に高句麗から渡来した信濃国人「卦婁真老」(けるのまおい)が朝廷より「須々岐」の姓を与えられたとあります。
この須々岐氏が、当社を奉斎することになりました。
唐が高句麗を滅ぼしたのは668年とされ、当時すで多くの遺民が信濃にも亡命していたことが窺えます。

中世鎌倉時代、諏訪上社系の神氏(みわうじ)が山家氏となり、山辺郷の地頭職となりました。
それに伴って、当社祭神を「建御名方命」と「素盞鳴命」に改めました。

では須々岐水神社の本来の神は誰だったのか。
それはやはり、narisawaさんが言う、美ヶ原方面から当地にやってきたタケミナカタだったのだろうと思われます。
諏訪における、タケミナカタ信仰の中でも、古いタイプのものだったのではないでしょうか。

須々岐水神社は山家氏はじめ松本歴代城主の崇敬厚かったといいますが、ネットで情報を調べてみても、多くはお船祭りのこと、あるいは御柱神事のことくらいしか出て来ません。
興味深いのは、当社の御柱には墨で”×”が描かれる、ということです。

このことはnarisawaさん情報、ナリ報によるものですが、彼はいくつかの神社で御柱に”×”が描かれているのを見たそうです。
残念なのは、”×”は彫られるのではなく墨書きで描かれるので、雨などですぐに消えてしまうようです。

僕が訪れた時も墨書きは完全に消えていましたが、ん?

少し離れてよく見てみると、うっすらと”×”印が浮き出ていました。
うん、あるね。

『信府統記』の「松本領諸社記」によれば、山奥の明神平に降りた神はススキの葉の船に乗り、薄川を下って薄畑にたどり着きました。
神はそこ(古宮)に社を設けたが、後に現在の社地(里宮)へ移った、とのことです。

神が乗ったススキの船は川底で擦れて片葉になり、その「片葉の薄」(ススキ)が今も、境内の隅に残されていました。

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