神功皇后は橿日の宮を過ぎ、福津の宮地嶽山の麓に来ていた。
先ほど山頂では天神地祇を祭祀したばかりである。
麓の社では皇后の知る二人が祀られていた。
「姫様、もう日が暮れます。そろそろ宮へお戻りください。」
武内宿禰が皇后のそばまでやってきて言う。
しかし皇后は社の前で佇むばかりだった。
「私はこれまで、大切な多くの者を失ってしまった。
ここに眠る兄弟もそうだ。」
そこには「阿部高麿・助麿」の兄弟が眠っている。
弓の名手と謳われ、一族の英雄たちだった。
しかし下関「豊浦宮」に大王・皇后滞在の折、新羅の「塵輪」の襲来から皇后らを守り、戦死している。
「磯良はもう王家の顔も見たくないと思っておるのだろうか。」
安曇磯良は安曇族の長で、新羅までの航海に欠かせない人物だ。
しかし王族と安曇族の歴史には複雑な経緯もあり、磯良は必ずしも王族へ良い感情を持ってはいないという。
そして阿部の兄弟は安曇族の英雄だった。
「姫様、風も冷えてきましたのでお体に障ります。
私めがもう一度、磯良を説得してまいりましょう。
さあ、宮へ戻りましょう。」
武内宿禰が手に寄せた皇后の肩は、すっかり冷え切っていた。
【松尾宮】
筑紫野市の集落の中に「永岡八幡宮」があります。
境内はさして広いわけでもなく、こじんまりとした印象です。
しかしそこにある巨大な楠には、思わず目を奪われました。
本殿を取り囲むように小さな祠が諸々あります。
そのひとつが「松尾宮」。
ここの伝承で、「神功皇后が熊襲征伐の時、ここで腹痛がしたので、この神に祈られて癒えた」とあります。
神功皇后の伝承に残るような腹痛といえば、僕はご懐妊の陣痛がすぐに思い浮かびました。
しかし陣痛には時期的に早すぎると思われますので、その兆しのようなものだったのではないでしょうか。
【若杉山】
神功皇后は篠栗にある「若杉山」(わかすぎやま)に登ります。
途中、皇后が手を置いた石というのがあります。
手を合わせてみると、ほんのり温もりが伝わるようです。
やがて「大和の森」という遊歩道に入っていきます。
山頂付近まで車で行けますが、あえてこの森を歩きます。
その理由たる目的地が見えてきました。
「綾杉」です。
若杉山の山頂にイザナギノミコトを祀った「太祖宮」があります。
神功皇后は臨月の身でこの山を登り、太祖宮にて祭祀の際にそのご神木の杉の枝を折り、
鎧に差してお守りとし、三韓征伐に臨まれたそうです。
無事凱旋の後、この杉の枝を植えたのが「香椎宮」の「綾杉」です。
さらに後に皇后は香椎の綾杉を分け植えたのがこの杉であるということです。
「杉を分け植えた」ことから「分杉山」と呼ばれ、今の「若杉山」となりました。
「綾杉」の名を持つ杉は北九州の「高倉神社」にもありました。
同じように凱旋の礼に植えられたと伝わります。
こちらは「トウダの二又杉」と呼ばれています。
このような名のある杉が多数、森の中にはあります。
途中で折れたようになっている「ジャレ杉」
「七又杉」などあります。
まさに若杉生い茂る山道を進むと
忽然と、急斜面の階段が見えてきました。
この先に見える社が「太祖宮」です。
とにかく登ります。
太祖宮の神殿が見えてきました。
近くに神功皇后の像があります。
太ましい。
近くにしめ縄のかけられた石と
ご神木がありました。
綾杉の親でしょうか。
さて、若杉山には「袖摺岩」(そですりいわ)と言われる迷所があります。
別名「はさみ岩」。
太祖宮の先に上から覆いかぶさるように突き出た大岩がありました。
すごい迫力ですが、これがはさみ岩というわけではなさそうです。
非常に険しい道を進みます。
と、見えてきました。
「はさみ岩」です。
悪心あるものは通ることができないと言われています。
良心者の僕は、無事通ることができました。
さらに奥には「若杉山奥之院」があり、弘法大師をご本尊として祀っています。
【宮地嶽神社】
近年「光の道」で全国的に有名になった神社があります。
「宮地嶽神社」(みやじだけじんじゃ)がそれです。
海岸から境内まで続く直線の参道は、春と秋の特定の日に、日没の太陽と重なります。
夕日が一直線に伸びた道に差し込み、赤銅色の道に染まります。
長い石段を登りきると、古都跡があります。
太古にはここに本殿があったのでしょう。
斜め左手にきれいな円錐状の宮地嶽山が鎮座しています。
そして斜めに折れて進むと、とても見事な楼門が見えてきます。
威厳を感じます。
楼門の先には
これまた日本一を誇る「大しめ縄」がかかる拝殿へと続きます。
御祭神は「神功皇后」の他に、「勝村大神」「勝瀬大神」の兄弟神となっています。
勝村・勝瀬の兄弟は、宮地嶽神社の裏にある古墳の被葬者として祀られていて「筑紫君・磐井」の孫で「筑紫君・葛子」の子であると伝わります。
しかし本来、宮地嶽神社に祀られていた兄弟神は「阿部高麿・助麿」(あべのたかまろ・すけまろ)であったとされ、
後に「勝村・勝瀬」の神に置き換えられたようです。
阿部高麿・助麿は弓の名手でしたが、下関で塵輪の襲撃を受けた際、戦死してしまいます。
仲哀天皇・神功皇后は彼らの里で、手厚く葬り祀ったことでしょう。
拝殿の左横にご神水があり、
そこから見事な黄金の本殿が垣間見えます。
阿部氏は志賀島に本拠を置く「安曇」(あずみ)の一族でした。
安曇は「綿津見」(わだつみ)の神を祭祀する、海人族です。
その一族の神(生き神)として束ねていた者が「安曇磯良」(あずみのいそら)でした。
宮地嶽神社の境内はとても広く、菖蒲園や古民家村、そして動物園まであります。
動物園には神馬になるのでしょうか、馬がたくさんいます。
そして本殿の裏には
様々な社が立ち並ぶ「八社巡り」があります。
この辺りは確かに強いエネルギーに満ちているようです。
しかし何と言っても、その一番の見所は最奧にある「奥之宮」になるでしょう。
「奥之宮」は先ほど述べた「勝村・勝頼」のものとされる古墳がそのまま社殿となっています。
中はとてもひんやりとして、静謐です。
ここからは数多くの、古代の貢物が掘り出され、「地下の正倉院」と呼ばれるほどだったと云います。
菖蒲園では花の季節に「菖蒲祭り」が執り行われます。
祝詞奏上の後、
神前に捧げる花が刈られ、
うるわしい巫女の舞が奉納されます。
その姿は正に菖蒲の精霊のようです。
安曇の聖地は、何処も麗しさに包まれていました。
さて、宮地嶽神社最大のイベント「光の道」です。
2月と10月の一定の日、好天に恵まれた日にだけ訪れるイベント、それを見ようと多くの人が訪れます。
大人気のイベントですが、参道の好位置に座れる人数は限られています。
やがて日が沈む頃、黄金の光が参道に続く道路に差し込み、光の道が現れます。
その先には安曇族の聖地、相島の積石塚群と志賀海神社の沖津宮を結ぶ道が見えていました。
若杉山奥之院/宮地嶽神社
五条先生と、私の間で異なるのが「阿部高麿・助麿」がどちらかの一族なのかと言う事であります
私は大彦の後裔説(ソラフルさんもたしかこの説)でありまして、後の磐井の乱で、同じ釜の飯を食った仲てはないかの話に繋がると考えています
神功皇后の征伐時代には多くの一族が馳せ参じたとあり、阿部氏なども一族の安寧を確保する為に参加する風潮になったりしたのではないかと思います
元々、太臣家の地盤の近くであるとするのであれば阿部氏は本来は親戚
布勢神社はうっすらとながら瀬戸内海にもあるので、九州に逃げ込んだ安倍氏もあったのではないかと思っています
出雲伝承は、富士林先生の本が出るまで、倭の五王と、九州の伝承が弱いイメージであり、その中でも典型的な話が安曇磯良と、卑弥呼とは違う金印や、高良玉垂命ですよね
この手の話は未だに九州の地元の方の伝承が圧倒的ではないでしょうか
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宮地嶽神社で有名な光の道の先は相島に繋がっており、その行き着く浜は石積みの墳墓群が広がっています。さらにその先は志賀島へ。
参道も社殿も日の沈む方向を向いており特殊なのですが、その石積みの墳墓を遥拝しているのならなるほどと思いました。
安曇の最大聖域である対馬には、独特な石積みの祭祀が残されています。
神功皇后の伝承を追っていたときは富家を知らない時期でしたが、今でも宮地嶽神社は安曇族の影響を大きく残しているように思います。大彦系の影響を残すなら、社殿の向きを太陽の昇る方へ変えるのではないでしょうか。背後の神奈備に昇る朝日を遥拝するにしても、少々近すぎる気がします。
安曇族は豊系の分家であると思われますが、出雲よりは物部の影響が強いと感じます。それは綿津見の神を祭祀していることや住吉神に関連することからもそう思われます。
阿部高麿・助麿は確かに大彦系阿部氏の血を引いている可能性が高いと思われますが、安曇と習合、というより、どちらかといえば取り込まれた印象を受けます。もちろん磐井の君とのうんぬんということはあり得たと思います。
松浦党などは、この安曇と阿部氏が習合した末裔なのではないでしょうか。
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