浮盃(ぶばい)にたどり着いた徐福が見上げると、その先には美しい円錐形をした金立山(きんりゅうさん)が見えていました。
徐福はこの山に、不老不死の霊薬を求めるようになります。
標高501.8mの金立山には、山頂から山麓にかけて「奥の院」「上宮」「中宮」「下宮」が鎮座しています。
【下宮】
長崎自動車道佐賀大和インターから10分ほどで「下宮」に到着しました。
どっしりと安定感のある「肥前鳥居」が印象的です。
辺りは住宅街になっています。
境内の横は幼稚園になっていました。
御祭神は
「保食神」(ウケモチノカミ・穀物の神)
「罔象売女命」(ミズハメノミコト・水の神)
「秦の徐福」
となっています。
地元では徐福が雨を降らせる神として信仰されています。
それはなぜか!?
地元では日照りが続くと、金立神社に祀られる徐福のご神体を乗せた神輿を港まで運びます。
そこから有明海に浮かぶ沖ノ島まで船で連れ出すそうです。
すると秦国へ連れ帰されると思った徐福は、雨を降らせて船が出ないようにするのだとか。
徐福、可愛すぎです。
境内の横に弁財天が祀られています。
「甲羅弁才天」と呼ばれ、徐福が不老不死の薬草を探しあぐねていた時、五色の雲と共に天女が静かに降りてきて徐福にフロフキの薬草を授けたそうです。
弁財天といえば宗像三女神の三女「市杵島姫命」と同一の神とされていますが、この市杵島姫は徐福の元に嫁いでいます。
甲羅弁才天の話とは関係ないのでしょうが、徐福と弁財天の因縁のようなものを感じます。
【中宮】
金立山の中腹、市立金立教育キャンプ場そばに中宮はあります。
ここはかつて荒れ果てていたと聞いていましたが、比較的新しい祠ができていました。
【上宮】
金立山はもちろん登山にも良い山ですが、車で山頂まで行くこともできます。
ただ、相応の酷道を走る心構えは必要です。
さて、林道突き当りに車の駐車スペースがありました。
ここから10分ほど下ると、金立神社上宮があると云います。
足場のあまり良くない山道を下ります。
と何やら人工物が見えてきました。
上宮です。
本殿はすべて石でできています。
創建時期は古く不明、「日本三代実録」に金立神は「清和天皇の貞観2年(861)3月、正六位上から従五位下に昇叙、光孝天皇の元慶8年(884)12月従五位下から従五位上に昇叙」の記録があります。
祭神は下宮と同じ3神となっています。
本殿の裏に回って見ると、
磐座「湧出御宝石」(わきでのおたからいし)があります。
見事にそそり立つ巨石。
周りは回廊のように石が積まれ、中央の巨石を回り見ることができます。
湧出御宝石の頂部には水が溜まっていると伝わります。
僕はそれを聞いて、大分の「猪群山環状列石」を連想しました。
当地の山頂にあるストーンサークルの中心「神体石」にも頂部に水が溜まっていて、金魚が棲んでいると云います。
この巨石は神仙思想に基づく「陽石」であると、徐福シンポジウムに参加した「梅原猛」(うめはらたけし)氏は説きます。
これが陽石ならば近くに「陰石」もあるはずと氏は探しました。
それは上宮から少々心細い山道を下ったところにありました。
まさにそれらしい造形の、巨大な陰石です。
岩の下まで行くと、清らかな水が流れています。
一口含むと、甘く柔らかな味がします。
水は岩の間から滲み出ていました。
少し離れたところには祠もあります。
おそらく徐福は、最初にこの陰石を見つけたのではないでしょうか。
そしてその上に陽石である湧出御宝石を立てさせ、そこで祭祀を取り行ったのかもしれません。
山中でこの自然の神秘を見た徐福は、ここが神宿る山であると感じたに違いありません。
僕も内からみなぎる力を得て、さて、降りてきた道を再び登らなくてはならないのです。
【奥ノ院】
駐車スペースまで戻ってくると、そこに奥の院へと続く鳥居があります。
少し登るだけなのですが、何気にきつい勾配です。
龍神を崇める出雲族は、蛇がとぐろを巻いた形に似た大きくずんぐりとした山を神奈備とします。
それに対し、徐福らが連れてきた渡来人は、小高い形の良い山を神奈備としたようです。
金立山もそうした山です。
山頂には石の祠が一つありました。
道教は星神を信仰します。
このような小高い山は、星を読むのに適していたのでしょう。
徐福も愛した景色。
そこからは美しい遠望が見え、涼しい風が吹き抜けていきました。