稲佐の浜:八雲ニ散ル花 13

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「このときから出雲の屈辱の歴史がはじまった」
「2千年前、ここで私の先祖が……私の先祖は、侵略者の目の前で抗議の自殺をしたんだ! ここでだ! ここで!」

日の沈む砂浜で男は呟いた。
旧暦の10月に神々が上陸すると云うそこは、「稲佐の浜」と呼ばれる。

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男はサンケイ新聞の編集長をしていた。
同僚に司馬遼太郎氏がいたと云う。
彼は新聞社を退職したあとに、京都の大学で国文学の講師をつとめた。
そのとき京都の出版社から、出雲の古代史の本を出したが、その本は書店に並んだ途端に消えてしまった。
出雲には過去を知られたくない旧家があり、その関係者がすべての本と原稿を買い取り、焼却したらしい。
この時、真の出雲史が明るみになることはなかった。

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男は1989年に病没した。
「真実の出雲史を普及させてくれ」と息子に遺言を残して。
彼の名は「富當雄」(とみまさお)氏という。
正式な名は「富上官出雲臣財當雄」(とみのじょうかんいずもじんたからまさお)。

「財」とは「宝石」(たから)の事で、祖神の魂の具象化である勾玉を指す。
これを付すことのできるのは真の王家のみであり、「財筋」と称されてきた。

富家は向家ともいい、出雲家ともいった。
今、出雲臣家といえば別の一族を指すが、富家こそが本来の出雲臣家であると云う。
彼こそは古代出雲王家の直系の子孫だった。

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彼は真の出雲古代史を語り継いで来た一族だったが、「語り部」と呼ばれることを好まなかった。
「向家はカタリベではないよ。カタリベとは身分が違うし、向家の伝承は、カタリベの話とは比較できぬほど正確なものだ」と言っていたそうだ。

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人の歴史の一面は、争いの歴史でもある。
滅ぼし、滅ぼされたには、時の事情がある。
万世一系の歴史が間違いだったとしても、僕の国の君主への、崇敬の念が僅かにも陰ることはない。
だが、一部の家柄の薄い尊厳を保つために、真実が捻じ曲げられ、消され、欺かれていることが残念でならない。
消えゆく歴史を偲う、深淵の旅に出る。

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出雲大社の西にある「稲佐の浜」に出かけると、あまりに不自然で、圧倒的な存在感を主張する「弁天島」に目を奪われます。

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稲佐の浜は、神在月に「八百万(やおよろず)の神々」が上陸してくる浜辺と云われています。
また、記紀などにある、オオクニヌシとタケミカヅチの「国譲り」の舞台となったのもここであり、小さな出雲の国に他の国を引き寄せて大きくした「国引き」神話の舞台となった場所でもあります。

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「国引き神話」は、出雲国に伝わる神話の一つで、「古事記」や「日本書紀」に記載はなく、「出雲国風土記」の冒頭に書かれている物語です。

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当初、作られた出雲国は小さく細長い、失敗作の土地だったと云います。
そこで「八束水臣津野命」(やつかみずおみつぬのみこと)は、遠く「志羅紀」「北門佐岐」「北門農波」「高志」の余った土地を裂いて、「三身の綱」でこれを引き寄せて出雲国に縫い合わせ、今の島根半島になったと云うことです。

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もちろん、国を引き寄せるなんてことができたわけもなく、これは古代の出雲が、西は九州北部、東は北陸の越国(こしのくに)、南は四国に到るまで支配下にあったことを物語っているようです。
それほど強大な支配力を持っていた出雲王国ですが、ある時、王と副王を同時に失った当国は、徐々に力を弱めていきます。

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神在月に稲佐の浜から上陸した神々は、出雲大社にまっすぐ伸びる「神迎の道」を通って大社に向かいます。
その途中に「上の宮」(かみのみや)と呼ばれる社があります。

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民家の中にそっとある神社ですが、ここ上の宮は「仮宮」とも呼ばれ、神在月には日本中の八百万の神様がこの小さな社殿に集まり協議を行います。
そう、実はここが「神議り」(かむはかり)がなされる場所なのです。

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祭神が「素盞嗚尊」となっています。
スサノオは穂日家の祖神で、本来の出雲家とは関係のない神です。
今に伝わる神迎神事も、今の出雲大社の箔づけに後付けで創作されたということでしょう。

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本来の神在月は、各地に散った出雲王家の分家が、古代出雲の祖母神である「幸姫」の墓参りに訪れる祭り事のことだったそうです。
幸姫はイザナミノミコトと表現さることもあります。

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また出雲では龍神を信仰してきましたが、その依代として「セグロウミヘビ」のミイラが使われました。
セグロウミヘビがちょうど神在月の頃、稲佐の浜に打ち上げられるので、そこが神々が上陸する浜と言い伝えられるようになったのでしょう。
稲佐の浜で行われる「神迎神事」は、夕刻7時、浜で御神火が焚かれ、注連縄が張り巡らされた斎場の中に神籬2本と、傍らに神々の先導役となる龍蛇神が海に向かって配置されます。
神事が終わると、神籬は両側を絹垣で覆われ、龍蛇神が先導となり、高張提灯が並び奏楽が奏でられる中、出雲大社へと行列が向かいます。

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神在月の神事が行われている間は、土地の人は歌舞を設けず、楽器を張らず、第宅(ていたく)を営まず(家を建築しない)、ひたすら静粛を保つと云います。
これは「御忌祭」(おいみさい)とも言われるそうですが、まさに祖母神の死を忌み慈しむということではないでしょうか。

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上の宮から稲佐の浜に寄ったところに、こじんまりと天照大神を祀った「下の宮」もあります。
記紀はアマテラスとスサノオを兄弟神と伝えているので、とりあえず建てた感じが否めません。

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さて、稲佐の浜に夕暮れが迫って来ました。
日の沈む稲佐の浜は絶景です。

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稲佐の浜を舞台にした、もう一つの神話に「国譲り神話」があります。

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高天原にいたアマテラスは、下界を覗き込み、唐突に「葦原中国を統治すべきは、天津神、とりわけ天照大御神の子孫だ」と言い出します。
そこで高木神と相談の上、何度か自分の子らを下界に遣わそうと試みました。

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アマテラスはまず、子の「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命」(あめのおしほみみ)に天降りを命じます。
しかし命は天の浮橋から下界を覗き、「葦原中国は大変騒がしく、手に負えない」と天降りを拒否しました。

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高木神(高御産巣日神)とアマテラスは天安河原に八百万の神々を集め、どの神を葦原中国に派遣すべきか問います。
「思金神」(おもいかね)と八百万の神が相談して「天菩比命」(あめのほひ)をオオクニヌシの元に派遣するのが良い」という結論になりました。
アメノホヒはオオクニヌシの元へ向かったが、オオクニヌシの家来となり、三年たっても高天原に戻らなかったと伝えています。

このアメノホヒは徐福とともに渡来した「穂日」のことだと云います。

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高木神とアマテラスが再び、どの神を派遣すべきかと問うと、八百万の神々と思金神が相談して「天若日子」(あめのわかひこ)を遣わすべきと答えました。
そこで、天若日子に「天之麻古弓」(あめのまかこゆみ)と「天之波波矢」(あめのははや)と与えて葦原中国に遣わしました。
しかし、天若日子は大国主の娘の「下照比賣」(したてるひめ)と結婚し、自分が葦原中国の王になろうとして八年たっても高天原に戻りませんでした。

高木神とアマテラスは天若日子が戻らないので「雉の鳴女」(きぎしのなきめ)に様子を見に向かわせました。
鳴女が天より降って、天若日子の家の木にとまり理由を問うと、「天佐具賣」(あまのさぐめ)が「この鳥は鳴き声が不吉だから射殺してしまえ」と天若日子をそそのかしました。
そこで彼は高木神から与えられた天之麻古弓と天之波波矢で鳴女の胸を射抜き、その矢は高天原の高木神の所まで飛んで行きます。

高木神は血が付いていたその矢を、天若日子に与えた天之波波矢であると諸神に示して、「もし天若日子に邪心あれば、この矢に当たれ」と言って、天之波波矢を下界に投げ返します。
矢は天若日子の胸を射抜き、彼は死んでしまったと云います。

ここに登場する下照比賣はオオクニヌシ「八千戈王」と八上姫との間に生まれた「下照姫」のことであり、また「木股姫」とも呼ばれる方です。
天若日子とは彼女の夫、「天稚彦」のことであり、「健葉槌」(たけはづち)と呼ばれる人のことを示しているようです。
健葉槌は「倭文神」(しとりのかみ)として各地で密かに人気があり、映画「君の名は」で出てくる宮水神社で祀られているのがこの神であるという設定です。

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天若日子の死を嘆く下照比賣の元に、「阿遅志貴高日子根神」(あじしきたかひこね)が弔いに訪れます。
彼は天若日子とよく似ていて、天若日子の父と母が「我が子は死なないで、生きていた」と言って阿遅志貴高日子根神に抱きつきました。
すると阿遅志貴高日子根神は「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、剣で喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまったと云います。

阿遅志貴高日子根神はオオクニヌシ「八千戈王」と宗像三女神の次女「タギツヒメ」との間に生まれた「味鋤高彦」(アジスキタカヒコ)のことです。
彼は西出雲王家「神門臣家」の人でした。

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天降った神々がことごとくオオクニヌシに取り込まれる中、ついにアマテラスと八百万の神々は、高天原の最終兵器を降臨させます。
それが「建御雷神」(たけみかづち)でした。

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建御雷神は十掬剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さまに立て、その切先にあぐらをかいて座り、大国主に「この国は我が御子が治めるべきだと天照大御神は仰せである。そなたの意向はどうか」と訊ねました。
この時、建御雷神と一緒に天降った神は「天鳥船神」(あめのとりふね)であると古事記は伝えています。
(日本書紀では經津主神が八百万の神によって選出されますが、これに建御雷神は「神何故、經津主神だけが立派で、私は立派ではないのか」と異議を唱え、經津主神に副えて建御雷神が葦原中國を平定したことになっています。)

建御雷神は古事記製作時において、藤原氏が祭祀する神であり、藤原鎌足、及び不比等は元は出雲王家に繋がる家柄だと斎木雲州氏は述べています。
とすると、この話は、出雲系の神が出雲の王に迫ったという、チンプンカンプンな話になります。
經津主神は九州から東征してきた物部氏が祭祀する神です。
そして天鳥船神とは穂日の息子「夷鳥」(ヒナドリ)のことであると云います。

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建御雷神の申し出に、オオクニヌシは、自分の前に息子の事代主神に訊ねるよう言いました。
釣りをしていた事代主神は「承知した」と答えると、船を踏み傾け、逆手を打って海を青柴垣に化え、その中に隠れました。

建御雷神が「事代主神は承知したが、他に意見を言う子はいるか」と大国主に訊ねると、大国主はもう一人の息子の建御名方神にも訊くよう言いました。
すると建御名方神がやって来て、「ここでひそひそ話すのは誰だ。それならば力競べをしようではないか」と建御雷神の手を鷲掴みました。
すると、建御雷神は手をつららに変化させ、さらに剣に変化させます。
逆に建御雷神が建御名方神の手を掴むと、葦の若葉を摘むように握りつぶして投げつけたので、建御名方神は逃げ出してしまいました。

建御雷神が建御名方神を諏訪湖まで追いつめた時、もう逃げきれないと思った建御名方神は、「この地から出ないし、大国主神や事代主神が言った通りだ。葦原の国は神子に奉るから殺さないでくれ」と懇願しました。

建御雷神は出雲に戻り、大国主神に再度訊ねます。
大国主神は「二人の息子が天津神に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げましょう。その代わり、私の住む所として、天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしい。私の百八十神たちは、事代主神に従って天津神に背かないだろう」と言い、隠り世へと鎮座しました。

ここに建御雷神は葦原中国平定をなし終え、高天原に復命していきました。

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ここで出てくる事代主とは、東出雲王国の副王、少名彦「八重波津身」(やえはつみ)のことです。
彼と大国主・八千戈王は、国譲り神話で最初に出雲に降った「穂日」とその子「夷鳥」によって孤島の洞窟に拉致幽閉され、枯死させられます。
これを神話に書き換え、史実をごまかしたのが、当の国譲り神話だと云います。
そして穂日の一族はその後も画策を繰り返し、やがて出雲の要職を得てきたそうです。
極秘とされている室町時代頃の古文書「出雲国造家文書」というものがありますが、当初の筆記者は言葉の意味を知らず、知り得た情報をそのまま「穂日は隠忠である」と
表記してしまったそうです。
隠忠(中)とはいわゆるスパイのことです。

また建御名方(タケミナカタ)は事代主と越の姫「沼川姫」の息子のことで、父親の死に際して母とともに、母の実家に移り住んで諏訪湖を中心とした一帯を開拓しましたが、記紀では故意に、尊厳を貶めるような表記がなされました。

奈良時代までは、出雲王朝の存在は皆が知るところだったと云います。
しかし記紀の創作により、真実が捻じ曲げられ、それを国史として取り扱って久しく、今ではその正確な記憶を残すものは、古くからある一族の伝承だけであるといえます。
記紀の物語、とりわけ古事記は情緒的で大好きなのですが、その裏には出雲と大和を取り巻く深く闇に葬られた歴史があることを知りました。
それを知ってか知らずか、稲佐の浜の夕景は、壮絶なまでに美しく、儚く、暗闇に消えていくのでした。

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