出雲市多伎町、そこにあると云う「多伎都姫」(タギツヒメ)の古宮を訪ねてみました。
海抜45mと表示された境内に鎮座するのは「多伎神社」(たきじんじゃ)です。
御祭神は「阿陀加夜努志多伎吉比賣命」(アダカヤヌシタキキヒメノミコト)であり、配祀神として「大己貴命」を祀っています。
立派な狛犬が参拝者を歓迎しています。
阿陀加夜努志多伎吉比賣命は記紀に名が見えない神であることから様々な疑問をもたれていたようですが、多伎吉比賣の類音から多伎都毘賣命を祀るようになったものであろうと推察されているようです。
また意宇郡の「阿太加夜神社」と祭神が同名であることから、神名は「出雲郷」(アダカヤ)の守護神であったのを、後にこの多伎に来て鎮まられた神の意であろうと考えられています。
もとは、外半場元宮という地に鎮座していましたが、延享二年、現在地に遷座したとあります。
富家の話によると多伎神社は、宗像から八千戈・大国主の元へ嫁いできた多伎都姫が住んだ屋敷だったと云います。
しかし大国主が不慮の死を遂げると、多伎都姫は姉の田心姫の住まう出雲郷(アダカヤ)の屋敷に移り住みました。
そこが阿太加夜神社です。
姉、田心姫も息子の八重波津身・事代主を亡くしていますので、姉妹はしばらくそこで暮らしたそうです。
やがて田心姫は住まいを東に移し、米子市の「宗形神社」の場所で暮らしたと云います。
過去に遷座したとありますので、ここが多伎都姫の屋敷跡だというわけではないと思います。
しかし幸せな頃を過ごした、姫の気配が残っているようでした。
境内の左奥に稲荷社がありました。
大国主と多伎都姫の間には、3人の子宝に恵まれます。
その子ら、「高照姫」は火明・徐福が妻にと求め、これに応じました。
「美良姫」は葛城に移住したクシヒカタに嫁ぎます。
そして「アジスキタカヒコ」は出雲に残り、神門臣家の当主として当家を守り続けました。
彼は地位的にも9代少名彦となって、同大名持の富家「鳥鳴海」とともに、出雲王家を受け継いだのではないでしょうか。
稲荷社の下には、数個のだるまが奉納されていました。
境内の再奥に丘を登る階段がひっそりとあります。
どうやら池があるようです。
そこは鬱蒼とした杜に囲まれた、神秘的な池がありました。
まるで命がそこから生まれる場所であるかのような、美しさに満ちていました。
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