田道間守は、東出雲にある丘の上に立っていた。
そこには焼け落ちた神殿の跡と、おびただしい数の人の死があるだけだった。
「徹底的に破壊しろ」
深い怨念にも似た、執念深さで命令を下したのは田道間守その人だった。
宗教王国の出雲を滅ぼすためには田和山の神殿を壊すのが有効である、と彼は考え、その建物も、人も、徹底的に破壊したのだ。
田道間守は、辰韓(新羅)から渡来したヒボコの子孫であった。
ヒボコは辰韓の王の長男でありながら、王位を弟が継ぐことになったため、国から見捨てられた王子だった。
ヒボコとその従者は激しい海を渡り、出雲の海にたどり着く。
しかし出雲王は彼らの上陸を許可しなかった。
それは出雲の「八重書き」という法律を守ることをヒボコが拒否したことが理由だった。
ヒボコらは海を東に上り、但馬の九山川上流に行ったが、そこでも上陸を拒否され、しばらく海上を漂う生活を強いられた。
やがてヒボコは、但馬の沼地に目をつけ、そこを開拓し、ようやく自分たちが住まう土地を得た。
開拓の労は並々ならぬものであった。
そしてそんな境遇の全ての恨みを出雲王に向けていた。
積年の恨みを受け継いだ田道間守は、物部イクメ王の命令を好都合と考え、大勢の但馬兵と共に、出雲の田和山を攻撃し破壊した。
「出雲王とその親族を皆殺しにする」とまで宣言していた田道間守だった。
が、廃墟と化した無残な田和山に立った彼の心には、虚しさだけが残った。
「もうよい、大和へ向かうぞ」
田道間守は側近に指示し、血塗られた丘を降りていった。
松江市田和山町に「田和山遺跡」と呼ばれる丘があります。
そこは古代の遺跡が残る場所です。
東出雲王家「富家」は吉備王国の侵略戦争である第1次出雲戦争の後、宮殿が目立たないようにするため、出雲王国の霊時(祭りの庭)を田和山に移しました。
それがここ、田和山遺跡になります。
そこは宍道湖の東南岸の丘で、見晴らしの良い所でした。
「タワ」とは方言で「峠」を意味するそうです。
田和山では初め、「峠の神」と言われるサイノカミ3神が祭られていました。
出雲王国後期には、田和山の霊時で大祭が行われました。
その祭りは、出雲形銅剣が木に付けられ、参加した各地の豪族にも、銅鐸ではなく、出雲型銅剣が授与されたと云います。
ただ、豪族の中には「ウメガイ」(鉄の短刀)を好み持ち帰る人が多かったので、銅剣は余った、と伝承されているそうです。
のちの発掘で、山頂に柱列の跡が発見されました。
「建物の形状については諸説あるらしいので、とりあえず柱だけを復元した」と記してあります。
この九本柱の形は、山陰地方に多く、この形に壁と屋根と床が付いて社に発展したものが、出雲の大社造り本殿形式だと考えられます。
大社造りでは、心御柱を特に大くして、尊重されました。
心御柱は後に、大黒柱に発展します。
毎年の田和山大祭の時で各地の代表が集まった時、彼らが各地の出来事を報告する仕来りがありました。
それを記録したのが、向家です。
それは豊後国の由布岳で作られた紙に墨汁で書かれたそうです。
田和山の東側に「松江市民病院」があります。
この病院はもともとこの遺跡に建つ予定だったものを、松江市長の英断で 遺跡を保存し、病院建設地を東へ移動したということです。
田和山神殿のある丘は、敵の攻撃から守るために、三重の堀が巡らされていました。
しかし、丘の上の東出雲守備兵の数は多くありませんでした。
田道間守は船で日本海を東へ進み、故郷の但馬で軍勢を集めた後、宍道湖畔から上陸し、東出雲王国に侵攻しました。
攻め上がる敵兵に向かって出雲兵は矢を射かけ、つぶて石を投げて防衛します。
激戦が続いたと云うことですが、多勢に無勢、出雲兵は全員討ち死にしました。
その結果、田和山の神殿は完全に破壊され、三重の堀の中にはつぶて石と矢尻がたくさん残っていたそうです。
神殿を守って討ち死にした者の中に、富王家の「飯入根」がいました。
飯入根の遺体は、田和山の東北側の友田に埋葬されました。
当時の東出雲王は、少名彦の富家「大田彦」でした。
田道間守はイクメ王の本隊よりも先に大和に侵攻する計画を持っていたので、すぐに軍を返して大和ヘと向かいます。
その後、物部「十千根」の軍が伯耆国から大量に侵入し、大田彦は降伏しました。
このときも、攻略しやすい道を穂日家のウカツクヌが手引きしたと云います。
大田彦は王宮を物部十千根に明け渡しました。
その王宮を十千根はそのまま神殿として残します。
それが今の「神魂神社」です。
十千根の子孫は、後に秋上家を名乗り、神魂神社の宮司となっています。
大田彦と親族は松江市八雲町の「熊野」に移り住み、そこに斉の神を祀ります。
それが今の熊野大社です。
東出雲王国は降伏に際し、出雲王の代理として穂日家の日狭が講和条約をむすびました。
日狭には王官跡近くに屋敷が与えられ、秋上家に仕えることになったと云います。