春日大社 後編:八雲ニ散ル花 72

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御蓋山の西麓、朱の楼門「南門」にたどり着きました。

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堂々たる風格。

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南門の手前に、玉垣に囲まれた地面から突き出た石がありますが、これは「神石」と呼ばれています。
神が降り立った「神籬・磐座」であると云います。
もしくは「額塚」(がくづか)と呼ばれていますが、大昔、掲げられていた「鹿嶋大明神」の神額が、落雷によりその額が砕け落ち、この場所に大きな穴が開いたそうです。
その穴に額を埋納し、穴を塞ぐために大きな石をかぶせましたが、その一片が地表に現れたと考えられています。

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中臣とは、神と人をつなぐ者と言う意味です。
その氏名は神功皇后の伝承でもみられ、「中臣烏賊津連」(なかとみのいかつむらじ)という「審神者」として現れます。
祖先は「天御中主命」(あめのみなかぬしのみこと)で天地ができた頃の最初の神の一柱です。
大阪の「枚岡神社」(ひらおかじんじゃ)で「天児屋根命」と「比売神」を祀る、古い氏族です。

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686年9月、天武天皇が没しました。
天武には多くの皇子がいましたが、没後、1ヶ月も過ぎぬ日に、政務の中心を担っていた大津皇子が讒言を受けて、逮捕されました。
逮捕の翌日には、すぐに皇子の刑死が決定されたと云います。
死を命じられた大津皇子は、舎屋の庭で自害して果てました。

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689年2月に藤原不比等は、中臣朝臣・臣麻呂らとともに刑部省の判事に任命されました。
刑部省とは、今でいう警察や刑務所に関する仕事で、皇后の承認と命令を受けこの職権を振るうと、どんな人の生殺与奪も可能となりました。
この人事の2か月後に、草壁皇子が急死しました。

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この天武の皇后「ササラ姫」の実の息子が草壁皇子でした。
皇后は重責を担う政権の中枢を、無能な息子に任せるより、能力の優れた藤原不比等に任せることを選んだのです。

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春日大社本殿が鎮座する玉垣敷地の外側に、目立たない小さな摂社「榎本神社」(えのもとじんじゃ)があります。
土地の人は、本殿へ参る前に、必ずこちらへ参拝すると云います。

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この榎本神社に祀られる神が、実は本来、春日の地に祀られていた神だと云います。
伝承によると、武甕槌命は春日野一帯に広大な神地を構えようと一計を案じ、地主である榎本の神に「この土地を地下三尺だけ譲ってほしい」と言いました。
榎本の神は耳が遠かったために「地下」という言葉が聞き取れず、「三尺くらいなら」と承諾してしまいます。
武甕槌命はすぐさま、榎本の神が所有する広大な土地に囲いをしました。
榎本の神が「話が違う」と抗議すると、武甕槌命は「私は地下三尺と言ったのに、あなたが聞き取れなかっただけです。
約束通り、境内の樹木は地下三尺より下へは延ばしません。
あなたは住む所がなくては困るでしょうから、私の近くに住んで下さい」と言ったので、榎本の神は今の場所に住むようになったと云います。

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この榎本神社に祀られるのは、今は「猿田彦命」だと云いますが、かつては「巨勢姫明神」という姫神で、「春日氏=和邇氏」が祭祀を司っていたそうです。
和邇は磯城・大和王朝最後の大王「彦道主」が都と定めていた場所でした。
榎本とは「柄の本」、航海の重要な目印である北斗七星の柄杓の柄をさしているという話も残されています。

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美しい廻廊に囲まれた境内の先に「幣殿」(へいでん)「舞殿」(ぶでん)があります。

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拝殿とは正確には違いますが、一般にはここで参拝します。

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拝殿が無く、幣殿から本殿を参拝する珍しい形式です。
そこは掃き清められていて、とても清浄な気を感じます。

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神拝所の左手に授与所、右手は本殿特別参拝の受付があり、ここで受付を行うと中門へ進んで参拝ができます。

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中へ進むと摂社がいくつかあり、

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竹から雫が垂れる手水舎があります。

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中門を前にした時の荘厳さには圧倒されます。

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また撮影はできませんが、そこから覗く四社の本殿は、煌びやかさに心奪われます。

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サララ皇后は即位し、正式に「持統天皇」となりました。
藤原不比等は、和国が東洋の一流国と見なされるためには、国史を持つことが重要だと、持統女帝に提案しました。
女帝は賛成しましたが、国史の中に前王朝を倒す権力闘争を書くことを嫌いました。
不比等は迷った挙句、万世一系の方式を提案します。
すなわち王朝の交替を誤魔化すことにしたのです。

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また不比等は異国の神話を真似て、日本創成から天孫降臨の話までを創り上げ、最初の王朝の始祖を神に祭り上げてることを提案しました。
不比等は、太安万侶や柿本人麿、忌部子人らを資人として雇い、小治田にある旧宮跡の建物(明日香の雷丘の西方)で、秘密裏に古事記を書かせ始めました。
不比等は記紀の編纂を成功させるため、完成までは製作のことを外部に洩らすことを禁じ、もしそれが破られた場合、身の安全を保証しない約束が交わされたと云います。

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編纂者の一人、歌聖「柿本人麿」は、出雲の綾部家の出身でした。
富家では人麿は、天武天皇の落とし子であると伝えられたと云います。
やがて人麿は都に行って、柿本家の養子になりました。
人麿は、古事記の仕事に就くと、「稗田阿礼」(ひえだのあれ)の名前を使うことになりました。
柿本人麿の執筆は、監禁生活で、外出も許されない苦しい生活でした。
やがて古事記が完成すると、濡れ衣を着せられて、人麿は石見国の渡津の村に監禁され、次には、上総国に流刑となったと云います。

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女帝は高天原の主を「天照大神」とし、月読ノ神は書かないよう指示しました。
女帝が月読ノ神を嫌ったので、伊勢の外宮では主神の名を、月読ノ神から「豊受ノ神」に変えさせました。
宇佐神宮では、主神だった月読ノ命を、姫大神と名を変えさせます。
日本で最も古い王国は、出雲王国でした。
だから古事記を、出雲王国史から書くべきだと、当初、藤原不比等は考えていたと云います。

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記紀の編集者の一人、忌部子人に、出雲国造穂日家の「果安」(ハタヤス)が近づきました。
穂日の子「武夷鳥」を神として「天鳥船ノ神」を古事記に書いてほしいと言うのです。
そして出雲王国の歴史を、記紀に記さないことを提案しました。
なぜならば出雲王国時代に起こした、穂日家の王・副王拉致事件を掘り起こされることを恐れたからです。
忌部子人は最初はこれに反対しましたが、中臣家への対抗心から、子人の指示で果安が「出雲国造の神賀詞」を女帝に奏上することを条件で約束しました。
それによって中臣家より忌部家が上位であること示そうとしたのです。

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果安の案は子人の熱心な説得により、左大臣や右大臣により認められることになりました。
出雲王国を消したために、記紀は神武大王から大泊瀬大王までの期間を、2倍に引き延ばすことにされました。
結果、寿命が100才以上になった大王が多くなりました。
かくて年代的にも内容的にも、大欠点を持つ歴史書「古事記」と「日本書紀」が生まれたのです。

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境内東部に、春日大社最大の聖域で禁足地である「御蓋山浮雲峰」の、遥拝所がありました。

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聖地の奥からは神聖な風が吹いていました。

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境内の摂社などを見て回ります。

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特別参拝の敷地内も、意外に広い事に驚きます。

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そして暗幕に閉ざされた「藤浪之屋」では、

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一面に光る灯籠の数々が、幻想の世界へ誘います。

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万灯籠の祭りを疑似体験させてくれる空間に、しばし佇みます。

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春日大社は1998年にユネスコの「世界遺産」(文化遺産)に「古都奈良の文化財」の1つとして登録されています。

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春日大社は世界に誇れる日本の聖地である事に違いはありません。

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境内には藤原氏を象徴するかのような、藤の木が多数あります。
季節になれば、美しく香しい花を一面に咲かせるのでしょう。

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可愛い鹿のおみくじは、お土産にもおすすめです。

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今風の焼き物のものと、伝統的な一刀彫りのものがあります。

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境内の片隅に、摂社の「本宮神社遥拝所」なるものを見つけました。

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その先にも、深淵な世界が広がります。

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過去の経緯はともかく、永く人々の祭祀を受けて来た場所というものは、厳かな霊気を宿すように思われます。

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この世の春を謳歌した藤原一族、その聖地は紛れもなく、今に続く聖域でした。

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