山ノ神遺跡の反対側、第二の鳥見山霊畤と直線で結んだ三輪山の8合目付近にある出雲族の聖地「ダンノダイラ」を訪ねました。
三輪山の南側麓に「十二柱神社」(じゅうにはしらじんじゃ)が鎮座します。
ここは桜井市の出雲地区のほぼ中央にあたります。
地名にあるように、ここはかつて、出雲族が居住した地域なのです。
祭神は神代七代の神として
「国常立神」「国狹槌神」「豐斟渟神」「泥土煮神」「沙土煮神」「大戸之道神」「大苫辺神」「伊邪諾神」「伊邪冊神」「面足神」「惶根神」
地神五代の神として
「天照大神」「天忍穂耳尊」「瓊瓊杵尊」「彦火火出見尊」「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊」が祀られています。
なんのこっちゃ。
さすがに最初から、こんな破茶滅茶な祭神ではなかったことでしょう。
凛々しい狛犬の足元を見れば、
縁の下の力持ち、お相撲さんが踏ん張って支えています。
ちなみに写真、撮り忘れました。
先の全景を拡大しております。
当地、出雲集落は「当麻蹴速」(たいまのけはや)と「野見宿禰」(のみのすくね)を祖としており、穴師の相撲神社とならんで相撲発祥の地として知られているのだそうです。
しかし当麻蹴速は違うでしょう。
奴はめっさ出雲人を殺しています。
境内には野見宿禰の五輪塔というものも鎮座しています。
高さ2.85mの鎌倉時代初期の五輪塔で、もとはここから約350m南東の狛川のほとりの塔ノ本にあったそうです。
4側面に梵字が彫られ、地輪には一字一石経が納められているとのこと。
野見宿禰の五輪塔とのことですが、野見宿禰大田彦はここで亡くなったわけではありません。
彼は大和で田道間守を制圧したのち、出雲に帰る途中に寄った「たつの」の屋敷で毒殺されました。
当社は、武烈天皇の泊瀬列城宮跡ともされています。
武烈帝は富家の彦太殿がオホド大王となる前の大王です。
オホド以前の平群王朝時代は国が荒れ、評判は良くなかったようです。
武烈帝の後は、大和で揉め事が収まらず、困った豪族たちは、越国の蘇我氏に養子に入っていた出雲の王族・彦太殿に政権運営を依頼しました。
しかし大和の戦乱は落ち着かず、オホド大王が大和入りしたのは、その11年後になってからのことでした。
nokananさんに教えていただきましたが、この十二柱神社は昔は拝殿も無くダンノダイラの遥拝場だったそうです。
もちろんここから登拝するのが正式な参拝ルートなのだと思いますが、僕はズルして翌日最短ルートでダンノダイラを目指しました。
早朝、三輪山と巻向山の間の細道を車を走らせ、奥不動まで向かいます。
この道、険し。
写真はまだかなーり穏やかな道です。
この先身の危険を感じるほどの酷道となります。
写真を撮ってる余裕はありません。
奥不動に到着。
生きた心地がしませんでした。
まずはここまでたどり着けたことに対する感謝と、駐車場をお借りするお詫びのためにお参りをさせていただきます。
節分星供の文字から、ん?物部系かと思いましたが、
おや?
こ、これはもしや!?
さて、ダンノダイラへ向かいます。
最短ルートとはいえ酷道を乗り越えた後、さらに山道を10分ほど登っていくことになります。
以前、ダンノダイラは山ノ神遺跡から道が繋がっていたそうです。
その道は今は禁足地となっています。
出雲屋敷で暮らしていた出雲族・登美家の人たちは豊彦軍に攻められ、大和笠縫邑を明け渡しました。
彼らはこの道を抜けて、ダンノダイラに逃げ住んだのかもしれません。
禁足地の先からは、行き交う彼らの足音とともに神の息吹が吹き抜けていきました。
再び尾根道を歩いていきます。
朝一ということもあり、蜘蛛の巣が激しく絡んできます。
森のくまさんに襲われないか、ドキドキしながら歩いていきます。
道はあるけど、これで合ってんのー?と不安になりかけた頃、
案内板のようなものが見えてきました。
どうやらここがダンノダイラのようです。
ダンノダイラとは「段の平」。
5段の円丘状になっている平地であると言いますが、僕には緩やかな坂にしか見えません。
その斜面を登っていくと、小石が積まれた場所が。
これが「天壇」跡のようです。
間違いなく祭祀場の跡でしょうが、よくこれを残したものです。
そしてこれは「白石の神域」によく似ています。
ダンノダイラと白石の神域(ゲシノダイラ)は尾根道で繋がっていますので、両地とも元は出雲族の聖地だったのでしょう。
ゲシノダイラは豊彦軍に占拠されたのだと思われます。
小川跡というものもありました。
今はだた溝があるだけですが、かつては山頂方面に湧水地があり、少ないながらも水が流れていたといいます。
ダンノダイラには一部の出雲族が定住し暮らしたのだと聞きました。
こんな山奥に本当に人が住んだだろうか、と僕は懐疑的でしたが、水があるならその可能性もありうると思い直します。
しかしやはり、それはほんの一部の人たちだったでしょう。
特別な祭祀の一族が、聖域を守るために当地に住んだのではないでしょうか。
それを確信させるものがこの先にありました。
見えてきました、
巨大な磐座です。
そのサイズ、約20㎥。
磐座は三段になっていました。
一つだけ離れて、しめ縄のかけられた石があります。
ここが聖域への入口、結界であると言わんばかりに。
恐る恐る近づいてみます。
すごい威圧感。
この先は真の聖域、足を踏み込むことを躊躇いましたが、靴を脱ぎ裸足にて失礼します。
三輪山周辺にはたくさんの磐座が存在してるそうです。
山頂にも無数の磐座群があり、それはそれで圧巻でした。
しかしそれらはおそらく、人の手で運び込まれたものでしょう。
このダンノダイラの磐座は、人類の生まれる遥か昔からここに鎮座する、太古の神。
どことなく熊野のゴトビキ岩を彷彿とさせます。
ここには古代の出雲式に倣って、王家の遺体が葬られてきた可能性を感じ取りました。
僕は聖域では、あまり余計なことをしないことにしていますが、少しだけ目を閉じ、往古に思いを馳せる時間をいただきました。
そして足を踏み込み、写真を撮りまくってごめんなさい。
とても美しい。
聖域をパワースポットと呼んでしまうことは、あまりに軽々しくて僕は好きになれません。
その呼び名だと、訪れると何か特別な力を得られるような勘違いをする人たちもいます。
特別な力など得られないし、そんなものは必要ありません。
ただただ、シンプルな美しさが、そこにあるだけです。
明治の初め頃まで、出雲の全村民が「ダンノダイラ」へ登って出雲の先祖を祀り偲び、一日中相撲をしたり、食べたりしたのだそうです。
聖域とは正にそうしたもの。
古いご先祖に今日の生を感謝し、偲ぶべき処なのです。
この心の故郷がこれから先も清らかにあり続けますよう、切にお祈り申し上げた次第です。
賢見神社の神紋とまず同じと言っていいのが奥不動院のこれですよね
賢見神社奥社にはお不動様が鎮座するので、もしかしたら仏具のシンボルなのかもしれません
しかし、この交差紋に関わる情報が皆無なのも気になりますね
交差紋に関しては本当に情報が少なく、編集長の家のお盆とこのホームページが出るくらいで、あとはダイコンの紋様のみ
うーむ
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賢見神社では不詳だが剣山と同じ神紋だと、剣山では安徳帝が剣を奉納したからだという説があると説明を受けました。
仏具ならそう説明されるのではないでしょうか。
富神社でさえ大根に変えさせられた交差紋を奥不動院のようにひっそりと掲げるでなし、堂々とこれ見よがしに掲げる剣山、その背後に何があるのか。
他に交差紋を見かけたのはヤマタノオロチ伝承のある佐賀の櫛田宮と福岡県京都郡苅田町の国崎八幡神社の御朱印。国崎八幡の鎮座地は、古くは白川と呼ばれていました。
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櫛田の宮ももちろん先生の過去記事を確認しました。
どうも私は細かいのか、柄の部分が気になって仕方がないのです。
あり得ない話ですが、フトニの新型の平型銅剣なのかと思ったりもしました。
柄のところまで似てるのがここ奥不動院と思います。
あと、奥不動院は、皇室の出家した方も入ってきてる所らしいです
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富家の家紋がいつの頃、あの形になったのか興味ありますが、少なくとも銅剣をモチーフにしていますね。柄の形が違うことは僕も気にしています。
皇室の出家した方が入るような寺に剣の交差紋がある、というのもむしろ僕の考えを推し進める要素となります。ちょっと怖くなってきているんですよね、実は。
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実は奥不動院は、三輪山の神宮寺の一つであり、大三輪寺の奥の院になっています。
古代の参詣道もあるらしく、例の白岩の奥の白山に続くと考えられる、白山道の石がどこかに立っています。
また、比較的きた人に時間を割いてくださる傾向が強く、お話を聞く分には非常に適した環境があります。
どうやら日本で最古級の不動院の様です。
https://ameblo.jp/ooharaekotoba/entry-12156412735.html
他にも巻向山不動寺で検索するとわずかながらヒットします
ダンノダイラと出雲族の話を知ってる様子もありますが一番詳しそうな方は今では100歳超えてる感じなので、お亡くなりになってるかもしれません
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そうでした、あそこにも白山がありますね。
また行ってみようかな。
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神宮寺の件について調べてみました。
現在では若宮社となっている様で、大神神社の若宮社で調べたら、大直禰子神社(若宮社)と考えられます。
大直禰子は、太田太根彦の事らしいです。
建物はお寺の形式に近いですね。
境内には御誕生所社があり、ミラヒメが祀られています
本殿はなく、磐座をご神体とするそうです
本殿の一部は奈良時代のものからあり、国宝の十一面観音があった所らしいです
編集長は、墨坂神社の太田家を本家筋かの様な考え方をなさっておいでと思いますが、太田氏の重要拠点にここがあり、奥不動寺はここと一体と言うことが分かりました。
マジですかww
私が訪問した時にはまるで隠されているかの様でほとんど情報なかったんですが、先生が絡むとすんなりとここまで調べれたんですがw
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ふっふっふ、十二神社ときたら新潟県ですよ〜。
Googleマップするとそこそこの密度である事が分かります。
かつての海岸線から洪水などによる沼地の展開、稲作に適した地形に十二神社が展開しています。
ミシャクジに相対する様に天白があると論じられるように、新潟においては十二神社(じゅうにそう)が誰かの一族の相方では無いかと考えていましたが
なるほど、福島の飯豊山には豊姫伝承がありますから福島側から展開していた可能性に関してはちょうど抜け落ちていました。
新潟における大彦の弥彦の領域を完全にカバーする配置になっています
そして群馬と栃木にはポツンと十二神社
なんかこの配置ヤバくないですかww
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六所神社や八所宮などは近辺の諸々をあつめて祀ったのでその名がついている場合が多いですよね。
つまり総社的な意味合いかと思っていましたが、十二柱神社もそれに類するのとは違うのでしょうか。
十二所(神代七代地神五代)の他にも別の意味合いがあると。
一部地域に集中して展開しているというのはそういうことなのでしょうかね。豊か大彦?
「この山は豊受比売神の神域であった。(履中天皇の皇女である)飯豊青皇女が物部氏を遣わして豊受比売神に御幣を奉納した。それでこの山を飯豊と呼ぶようになった」
飯豊山も気になりますね。
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十二神社ってちゃんと九州にもあるんですね。
九州から瀬戸内海、奈良から東海
そして、新潟から上州ww
阿部と豊家に重なるような気がするんですよ〜
もちろんフィルターかかってるとは自覚してますがw
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古代史に興味を持って拝見させてもらいました。ダンノダイラは祭祀していた場所で三輪山が拝まれる以前の本当の聖なる地だったのかなーと思ってます。私もこの大磐座を拝んできましたが、奥不動寺から右に登って、ダンノダイラへ行く下の道とポツンと磐座があってその奥には大王の墓!?のような磐座がある上の道があります。本当に国譲りは出雲の地で行われたのでしょうかね。ここも出雲。謎が深まるばかりです。
https://ameblo.jp/kazanushi/entry-12277037827.html
墓のような磐座をブログに上げてる方を発見しました。もしかしたら、権力者の墓かもしれませんね。
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天穂赤熟さん、ようこそ『偲フ花』にお越しくださいました♪
そして貴重な情報ありがとうございます。
あのあたりは磐座だらけなので、まだまだ探すと出てきそうですね😊
さて、僕は古代出雲の王家・富家の伝承を元に全国を旅しております。古代史に関しては、様々な伝承・考察がありますが、今のところ富家の伝承が最も理にかなっていると感じております。
その富家のご子孫の話では、三輪山の祭祀はかなり古い時代から行われていたようです。
八重波津身・事代主の息子、天日
方奇日方が、父の死後葛城に移住し、三輪山に父の御霊を祀ったのが始まりのようです。その後、三輪山に昇る朝日を信仰するようになったと。
さらに後年、三輪山の遥拝地として、南にある鳥見山に祭りの庭が設けられました。が、大和に進出した筑紫の物部族に鳥見山を奪われ、三輪山の西側に霊時(祭りの庭)が移されました。
この時の祭祀の場の一つがダンノダイラではないかと僕は考えています。
出雲族は山中の磐座に王族の遺体を埋め、麓には遥拝のための拝み墓・磐座を置きました。
なので天穂赤熟さんが見つけられた磐座が大王の墓ではないかというご推察は的を得ているように思います。またダンノダイラは埋め墓である可能性が高いと考えます。
国譲り神話ですが、これはホヒ族(現出雲大社宮司家の先祖)が、出雲王である大国主と副王の事代主を殺害した事件と、出雲王国滅亡となった第二次物部東征の事件を合わせた話となっています。
そこへ記紀の編纂者である藤原不比等の祭祀する神が英雄神として加えられています。
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十二柱神社と言えば、わたしがよく行く神社で、十二神社というのがあります。詳しいことはわからないのですが、やはり十二の神様がまつられているようです。それから、神奈川県には十二柱神社というのが三ヶ所あるようです。
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WILDSUMさん、コメントありがとうございます。
なぜ12なのでしょうか、通常は主祭神として一〜三柱が祀られ、その他諸々の神は配祀神として祀られるのですが、十二社では十二柱が同列に祀られます。
困った時のWikiさんによると、
「古くからの十二様と称する土着の山の神を祀ったものと、熊野神社の系列のものとがある。前者の信仰は射日儀礼を含む「十二講」の習俗を伴い、北関東・甲信越を中心にして東日本の山間部に分布する。後者は十二所権現社などと呼ばれる熊野三山の神(熊野権現)を勧請して祀ったものである。それらの中には明治の神仏分離によって祭神を「天神七代・地神五代」としている所もある。」
とのことです。
天神七柱・地祇五柱という一定のパターンがあるということなのでしょう。
しかし天神七柱というのは道教の聖数であり、物部氏、及び海部氏に由来する数字の可能性が高いです。
彼らの祖先は星神を信仰しており、北斗七星からその数字が導き出されたものと推察されます。
この十二柱神社の祭神を見る限り、本来は出雲族の聖地だったはずですが、後から来た物部・豊族によって祭神か書き換えられてきた可能性が濃厚です。
ただ普通なら天神系とする物部の神を地神としているあたりが面白いと思いました。
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詳しいご説明、ありがとうございます。神奈川県の十二柱神社も、そのうち行ってみたいと思います。
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