足長神社:八雲ニ散ル花 愛瀰詩ノ王篇 23

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【手長神社】

諏訪湖の南東、本宮から北東に2km程の場所に桑原郷と呼ばれた場所があります。
その桑原郷はいつの頃か、上桑原と下桑原に分かれ、上桑原に足長神社、 下桑原に手長神社が祀られて今日に至ります。

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手長神社は諏訪湖を望む景勝地に鎮座していました。

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早朝の参拝ということもあり、一層厳かな神気に包まれます。

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社叢は自然保護地域になっていて、諏訪市天然記念物に指定されています。

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横に並ぶ小さな社にも全て4本の御柱が立っており、諏訪らしさを感じます。

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古来より武門領主や一般庶民の信仰が篤い当社。
諏訪湖中に高島の浮城が築かれてからは、その艮に位置するところから、当社は城中の守り神・鎮護の神として格別の崇敬をあつめたと云います。

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また庶民からは下桑原の産土神として古くから「手長さま」と親しまれ、家庭円満・子育ての神として崇敬されてきました。

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御祭神は「手摩乳命」(てなづちのみこと)。
『古事記』にあるヤマタノオロチ神話で、「櫛名田比売」(クシナダヒメ)の母親として登場する神です。
神話ではクシナダヒメとスサノオが結婚し、スサノオの子がオオクニヌシであり、オオクニヌシの子がタケミナカタだと設定されていますので、手摩乳命は諏訪大社祭神の建御名方命の祖先であるということになっています。

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しかし古代出雲王家の子孫「富家」の伝えるところでは、櫛名田比売とされる人物は、初代出雲国王「菅之八耳」の后であり、スサノオ「徐福」とは時代も合わず、まして后となることはありえないのです。
またタケミナカタは8代出雲主王オオクニヌシの息子ではなく、8代副王のコトシロヌシの息子でした。

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故に当社は本来、産土神を祀った聖地であったと思われますが、後に記紀に合わせて祭神の変更がなされたのでしょう。
社記によると、当初は上桑原にある「足長神社」に足長・手長両神が祀られていたそうですが、後に手長神は下桑原へ分祭され、今に至るのだそうです。
しかし分祭された当社社殿群は誠に立派な造りであり、なぜか社務所も当社に設置され、両社及び、このあと訪れる「八剣神社」の御朱印もこちらでいただけます。
下桑原は城下町で栄えたことと、元から当地は何らかの神跡であったことから、今のような位置付けになったものと思われます。

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【八剣神社】

手長神社の麓に「八剣神社」(やつるぎじんじゃ)があります。
元は、西に500m程の位置にあったが、秀吉による高島城築城の際に遷座したとあります。

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町に囲まれるようにひっそりとある当社を訪れたのは、手長神社で御朱印をいただいたからということもありますが、もう一つ別の理由がありました。

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諏訪七不思議のひとつ、冬に凍結した諏訪湖に走る氷脈「御神渡り」、これは上社の「建御名方神」が下社の「八坂刀売神」の元へ通われた道筋であると伝承されますが、それを観察し、氷脈の方向などによって吉凶を占うため、諏訪大社大祝に報告する役目を担ったのが当社であると云われています。
それは今も、当社の特殊神事「諏訪湖御神渡り拝観式」として受け継がれています。

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【足長神社】

「当初、ここには足長・手長両神が祀られていたが、いつしか手長神は下桑原へ分祭された。
当社は荻で屋根を葺いていたので、「荻の宮」と呼ばれた。」

– 社記による –

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古松・老杉に囲まれた桑原城跡の山腹に鎮座する、「足長神社」を参拝しました。
祭神は「足摩乳神」(あしなづちのみこと)で、古事記の「足名椎」を祀るとされますが、先の理由によりこれも後に書き換えられた祭神と思われます。

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大同年間(806年-810年)、「御表衣祝有員」(みそぎほうりありかず)が当社を崇敬し、広大な社殿を造営。
後に有員自らも近接地に居住したため、 その地は「御曾儀平」(みそぎだいら)と呼ばれ、そこに有員の廟墓もあると社記に記されています。

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諏訪盆地には、「古事記」とは別の、国譲り神話が言い伝えられています。
大和朝廷日本統一以前の話、出雲のタケミナカタ一軍がこの諏訪盆地へ到達した時、この地には「洩矢神」(もれやがみ)を長とする先住民族がいて、天竜川河口で争いとなりました。
タケミナカタは手に藤の蔓を、洩矢神は手に鉄の鑰(かぎ)を掲げて戦い、その結果、洩矢神は負けてしまいます。
これにより諏訪はタケミナカタ王国となるのですが、先住民族の洩矢族を、王は手厚く迎え入れました。
タケミナカタは稲作と製鉄の技術を諏訪にもたらし、洩矢族と共同生活圏を築くことによって、諏訪王国は稀に見る繁栄を迎えることになります。
やがてタケミナカタは諏訪大明神として祀られ、諏訪大社の始まりとなったということです。

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ある時、タケミナカタの子孫である諏訪氏の中から、「大祝」(おおほうり)という生神が即位することになります。
大祝は5,6歳の子供が即位し、その身に諏訪の神を降ろした御神体として社に仕え、15,6歳で退位したと云います。
これを支えるため「神長官」という筆頭神官を、洩矢神の子孫の「守矢氏」が受け継ぐことになりました。

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大祝に神を降ろしたり、上げたり、神の声を聞く力は神長官のみが持つとされ、これにより諏訪国の実権を守矢氏が永く持ち続けることになります。
征服者タケミナカタの血を、征服された側の守矢氏がうまく利用して実権を握ることになったのは、まことに皮肉な結果です。
さらに大祝に降ろした諏訪の神とは、どうやらタケミナカタではなく、別の神、あの洩矢神「ミシャグジ」だったと云います。

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有員は初代大祝でした。
有員の別の伝承に、前宮の地を大祝の住居としたとありますが、有員が大祝である間はその地で幽閉同然に囲われていたと考えられます。
彼は役目を終えた隠居先として、当地を選び、出雲の祖神を祀るために当社を造営したのではないでしょうか。
有員は確かにタケミナカタの血を受け継いでいて、それ故に終の地をここに求めた証とも言える磐座が、当社の少し上にあるということを、次のサイトが教えてくれました。

蘇竜聖園」-紫竜氏HP-

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