「朝雨に傘要らず」
久しぶりに誰にも邪魔されず氏神さまと語り合いたい、そう思い立ち、早朝の太宰府天満宮を訪れました。
少し肩を湿らせましたが、朝の雨はすぐにあがるというので、傘は車の中へ。
朝7時前、さすがにひと気はなく、たまに出勤の方や、散歩する人の姿を見かける程度。
もう2時間もすれば、国内外の観光客で参道は溢れ、とても神と語らうなどという空気にはなりません。
参道沿いの人気のスタバも、写真取り放題。
昔から、日本各地の参拝客で年中賑わう稀な神社でしたが、いつの頃からかアジア系観光客の吹き溜まりとなりました。
聞いた話によると、太宰府天満宮は、宗教法人として会社化しており、他の神社に比べマーケティング戦略に長けているのだとか。
美術館のような洒落た社務所・授与所や、求人サイトを覗いてみても、確かにその片鱗は窺えます。
ここ最近は行列ができている御神牛の像も、この時間なら独り占め。
他にも御神牛の像はいくつかありますが、この像だけが大人気。
どこかの海外サイトで紹介されているのでしょうか。
参道を突き当たったところにあるのは「延寿王院」。
元は天満官を保護する寺院でしたが、明治維新の廃仏毀釈で廃寺となり、現在は天満官宮司の西高辻家の屋敷となっています。
このつきあたりを左に曲がれば、天満宮本殿へと続く太鼓橋がありますが、反対に右に曲がってみます。
そこにあるのは「浮殿」(うきどの)。
かつては心字池にあったため、その名がついたようです。
菅公歴史館にあった、神仏習合時代の境内図を見ると、そこには池に浮かぶ浮殿の姿も見えます。
秋の神幸式では、行宮する御神輿がここで一休みするのだそうです。
堂の中をのぞいてみると、何やらモダンアートのようなものが置いてありました。
さて、本殿を目指します。
雨に濡れた美しい太鼓橋。
心字池に架かる、3連の美しい橋を渡るときには、注意が必要です。
この橋は、手前から過去・現在・未来を具現しているのだそうです。
故に、橋を渡る際には、守らなくてはならないルールがあります。
一番目の、「過去の橋」を渡る時は、絶対に後ろを振り返ってはなりません。
二番目の平坦な「現在の橋」を渡る時は、立ち止まってはなりません。
この二番目のルールは何気に厳しいです。
正月などは人の列ができ、止まらずに進むことなどできないからです。
景色に見とれつつ、立ち止まらずに足を進めます。
最後に一番大事な三つ目の橋、「未来の橋」は、決してつまずいてはなりません。
決してと言われると、逆に意識がいき過ぎて、つまづきそうになります。
またこの橋を逆走して帰る人がたくさんいらっしゃいますが、この「三つの橋は逆に渡ってはいけない」と云われています。
さらには、太宰府天満宮は道真さんの嫉妬により「縁切り」との話も昔からあります。
僕は学生の頃二度、デートでこの橋を渡り、二度ともデート直後に振られました。。
もうこの先が社殿になりますが、少し寄り道して右手に進みます。
そこに「如水の井戸」というものがあります。
黒田官兵衛(如水)は、福岡城内の居館が完成するまでの間、太宰府天満宮境内に仮住まいしていて、その時、この井戸の水を茶の湯などに使ったと云われています。
如水の天神様への信仰は深かったと云うことです。
その先にあるのは「曲水の庭」。
この割とこじんまりとした庭で、3月に曲水の宴が執り行われます。
小野好古(おののよしふる)が九州に下向した際、道真公を偲んで、京都の官中行事であった「曲水の宴」と「残菊の宴」を、太宰府天満宮の行事として取りこみ、定着させたと伝わります。
この行事は、太宰府天満宮では週末に行われるので、僕がレポートするのは難しいです。
ので、菅公歴史館にあった模型でご紹介。
庭園をゆるゆると曲がって流れてている小川に歌人がすわり、上流から流れてくる盃が自分の前を通りすぎないうちに一首詠み、盃をとりあげて酒を飲むといった雅な行事です。
残菊の宴も、咲きのこった菊を賞翫し、歌を詠みあい、酒を酌み交わす宴の行事です。
楼門前に戻ってきました。
いつもは人が並ぶ手水舎もガラガラです。
改めてゆっくり覗くと、手水の水底に亀が彫られていました。
楼門の先は、やはり幽玄です。
太宰府天満宮が幽玄である理由、
それはここが、菅原道真の墓所だからです。
境内の一角に、建物の屋根を突き破る楠があります。
これは本殿境内を拡張するとき、そこにある楠をあえて切り倒さず、建物内に取り込んだ結果。
神社には、たいてい年を経た巨木があるものですが、太宰府天満宮のそれは並ではありません。
そう、ここは天満宮ができる以前は、楠の巨木の森だったのです。
菅原道真の門人に「味酒安行」(うまさけやすゆき)という人がいました。
彼は壱岐真根子の娘「豊子姫」の子であったと云われています。
彼は道真の大宰府左遷にも随行し、公の南館での厳しい暮らしを世話したと云います。
晩年、死期を悟った道真は遺言を残しました。
「我が遺体を京都に送ってはならぬ」
当時、偉人の遺骨は故郷にもどすのが常でした。
しかし道真は、生前は帰京することをあれほど切望していたのに、死後は大宰府に眠りたいと願ったのです。
延喜3年(903年)2月25日、菅原道真は大宰府の南館で59年の生涯を閉じました。
遺言を承った味酒安行は、当初は道真の遺骸を宝満山に運ぼうとしたのかもしれません。
大宰府が西の京であるなら、宝満山は西の比叡山でした。
大宰府の鬼門にあって府を守護する霊地です。
当時、宝満山には竃門神社の他に宝仲寺や宝塔院など権威ある寺院もあり、道真の葬儀を行うのに適していたと思われます。
味酒安行とわずかな従者は、道真の遺骸を牛車にのせ、南館から宝満山に向けて出立しました。
順調に進んでいた一行でしたが、御笠郡の四堂というところに来たとき、突然牛が動かなくなります。
困った一行が押せども引けども、牛は脚をふんばり動こうとしません。
この事態に安行は、これは道真公が、牛を通じてこの場所に眠りたいと告げているのではないか、と感じ取りました。
そこで安行は道真の遺骸をこの地に埋葬させ、墓を造って安楽寺とし、墓守となって生涯道真を見守り続けたのです。
安楽寺はやがて「天満大自在天神」と称した道真を祀る太宰府天満宮となります。
つまり太宰府天満宮は道真の墓所であるので、当然遺骸をおさめた棺があるとのことです。
「その棺は長さ三間、横一間半、高さ四尺ぐらいの石畳に囲まれて、上は粘土と石灰で漆喰にかためた中に鎮まっている」と云われています。
天満宮本殿の裏側には、境内社群があります。
その中でもひときわ大きな老松神社は、道真の父「菅原是善」と母を祀っています。
菅原是善は「野見宿禰」の子孫です。
そして野見宿禰は、れっきとした旧出雲王家の当主でした。
また、道真の実の母も、出雲族の首長の娘です。
つまり、道真は生粋の出雲人だったと思われます。
日本中の神社を巡ってみて、古来より祀られる神の姿を見てみると、そこに特定の条件があることに気がつきます。
もともとは日本人の信仰は、自然崇拝でした。
自然に対する畏怖、山、大樹、滝、巨岩、また猛威を振るう自然現象、そうしたものが擬人化され、祀られた場所も少なくありません。
そして日本人は次第に、偉大な功績を残した先祖を神として崇拝するようになります。
しかし実在する人物が神になるには、条件としてその血筋が重要なのだということが分かってきます。
全国に祀られる、いわゆる国津神系と呼ばれる神は、出雲王家の血を引く実在の祖先であり、天津神系のそれは、多くは秦氏と呼ばれる徐福が連れてきた海部族・物部族の祖先になります。
他には宇佐神宮を発祥とする親魏倭王の女王、いわゆる邪馬台国の卑弥呼「豊玉姫」と、別の渡来人でアメノヒボコの末裔「神功皇后」らが全国最多の神社群「八幡宮」として祀られています。
一部にこれとは関係のない、戦国武将やミステリアスな安倍晴明などが祀られた神社はありますが、彼らの信仰は極限的であり、本来の神としての信仰とは別物と感じられます。
そのような、日本の神社情勢において、実在性の高い人物で、広く国民に親しまれ、神と崇められる菅原道真は、まさに稀なケースであると言えます。
実際に道真を祀る天満・天神系社の数は全国第3位、その数約1万2千社だと云われています。
なぜそこまで道真公は神として浸透できたのか。
一つは彼が出雲王家の血を引く人物だったからだと思われます。
また道真をして神名となるのが「天満大自在天人」となります。
この道真公が『天満天神』となる以前は、実は出雲王家の事代主が、『手間天神』として全国で祀られていたのだと、事情通の「たぬきさん」から教えていただきました。
太宰府天満宮にはひっそりと、事代主、いわゆる恵比須さんが彫られた石像が置かれています。
東出雲王家の事代主は孤島の洞穴に幽閉され、枯死させられました。
その子孫である道真もまた、有らぬ罪をきせられて、大宰府のあばら家に幽閉され、病気が元で亡くなります。
当時、京都を中心に各地に散らばっていた出雲王家の子孫たちは、この不遇の二人を結びつけて考えたのかもしれません。
やがて各地の手間天神社を天満天神として祀るようになったのでしょう。
日本第3位のシェアを誇る天満・天神社は、偉大なる事代主のお力添えもあったのです。
とはいえ、藤原一色に染まりつつあった都に一石を投じた存在の道真公、その胸がすくような出世ぶりと人柄が、敬意として多くの人々の記憶に深く残り続けたことは間違いありません。
さて、朝8時30分ごろ、拝殿前に戻ってみれば、毎朝の行事「朝拝」が行われていました。
祝詞奏上の後、拝殿前にいる人たちは、お祓いを受けられます。
朝拝が終われば、太宰府天満宮も本格的に営業開始です。
授与所を覗くと、鬼すべの大うちわを模った「福うちわ」なるものを発見。
福豆とともに、買い求めました。
最終日15日はは、太宰府天満宮と吉野ヶ里遺跡に行きました。
この神社、面白いですよね。
拝殿があって、本来の本殿のあたりのはずの位置に摂社末社がそのまま外に出てるんです
本来なら囲われてあるはずのところが外に出てる印象なんです
妙に真裏の神社だけ大きいんですよね
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太宰府天満宮の造りは道真の怨霊封じであるという人もいますね。
本殿の中には道真の墓があるという話です。
真裏はたしかお父さんが祀られていたんじゃないですかね。
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小学校の時から中学まで春日市にいて、1970-1980年頃の大宰府にはよく行きました。恥ずかしながら梅ケ枝餅のことしか覚えていませんでした。チリコさんのブログを読み始めてから、物部氏のこと、出雲族のことに興味が起き始めました。道真公が物部氏の子孫だったとは!学校で習う日本史より面白いです。
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道真公は出雲王国滅亡後の東出雲王家「富家」の当主「野見宿禰」の子孫と伝わります。
https://omouhana.com/2018/03/08/菅原天満宮:八雲ニ散花%E3%80%8054/
大元出版の書籍に出会ってから、僕の神話観・歴史観は一変、かなりショッキングなことも多くありました。
古代日本は出雲族・海部族・物部族を中心に、日矛族、宇佐族他らが混在して成り立っていたようです。
当ブログにコメントを寄せてくださっているnokananさんは、道端の花にも美しさを感じ取れる日本人の繊細な感覚は、春に出る芽を愛でた出雲人のDNAの要素が大きいのではないかとおっしゃっておられましたが、全く同感です。
神々の素性を調べていると、大きな力を持つ神の条件として、出雲王家の血を引いていること、非業の死を遂げていること、などがあることに気がつきます。
よっちゃんさんは春日市にお住まいであったご経験があるのですね。
いろいろと共通点があって嬉しいです♪
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最近の大宰府の投稿を拝見して、ますます行きたくなってます(^.^)
朝は人がいなくてよさそうですね。
菅原道真には興味がありましたので、勉強になってます。
資料館でしたっけ?模型や人形があるのもいいですね(*^^)v
トップの写真、素敵です(^_-)-☆
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太宰府は天満宮以外にも観世音寺など、風情もあって素敵なところが多く、のんびり散策して楽しめる場所です。
梅や桜、また紅葉の季節もオススメです。
京都というよりは、奈良に近い感じでしょうか。
ただ、日中の天満宮は、例に漏れずアジア系の団体客で溢れていて、騒がしくなってしまいました。
ここ最近の反日報道もあって、気分の良いものではありません。
天満宮は朝イチで行って、午後は観世音寺から政庁跡あたりをのんびり散策するのがよいかも。
僕は今月末、沖縄に行きます。
天気だと良いのですが。
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そうですね~。朝のが空気もきれいだし、人も少なければのんびりできますね。
日中はやはり騒がしいのですね…”(-“”-)”
沖縄、いいですね~。また、ブログ楽しみににしてます(*^^)v
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早朝の太宰府天満宮ステキ‼️
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ありがとうございます!
神社は朝の参拝が空気も新鮮で、気持ちが良いです。
僕のカメラは防水ではありませんので気を使いますが、雨の風景も撮っていて楽しいシチュエーションです♪
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