岡山県真庭市西茅部、蒜山(ひるぜん)高原と呼ばれるその一角に鎮座する「茅部神社」(かやべじんじゃ)を訪ねました。
一之鳥居は長閑な山村の脇に建っています。
この石大鳥居は高さ13.18mあり、安政7年(1860年)から3年の年月を経て文久3年(1863年)に東茅部村石賀理左エ門、西茅部村友金古平の両氏が発起人となり建立されたもので、石鳥居としては日本一の大きさを誇ります。
この頃の日本の出来事としては江戸幕府の大老・井伊直弼や老中・間部詮勝らが、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また将軍継嗣を徳川家茂に決定、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件「安政の大獄」がありました。
江戸末期の日本激動の最中、石材は神体山である磐座山より花崗岩が搬出され、1万両の費用をかけて石工の横山直三郎並びに米倉鉄造によって造られたと伝えられています。
鳥居の両端に鎮座する高さ4m、獅子身の高さ130cmの銅製唐獅子は明治32年に建てられたものです。
当地は郷原(ごうばら)と呼ばれ、かつては大山参詣や牛馬市へ向かう人々が盛んに行き交った「大山道」の宿場町でした。
一之鳥居から桜並木の参道が茅部神社に向かって伸びています。
その道のなんと美しく心地よいことか。
この桜を見るために、春に再訪したくなります。
茅部神社の神門が見えてきました。
駐車スペースの横に展望台のような建物があり、
辺りは長閑な景色が広がります。
茅部神社は辺鄙な山奥にある神社ですが、知る人ぞ知る聖域、パワースポットなのだそうです。
その理由の一つが、当地に伝わる「高天原伝説」にあるようで。
高天原・・・高天原ですか。。
和む僕の背中を、何者かがざわりと撫でていく感覚を覚えます。
当地、蒜山川上村には神代聖蹟や古事記に関係のある地名が多く残り、因幡と美作との国境にある那岐山は伊邪那岐命が天降られた地であると伝えられます。
また蒜山高原一帯には豊栄、祝詞、野土路や神退、神集、神代など古代にちなんだ地名が目立ち、また岩倉山(磐座山)の山中にある巨岩は、昔から天の岩戸と呼ばれていました。
また磐座の近くには、手力男命の遺跡や大蛇退治の伝承地もあり、それゆえにこの西茅部郷原が真の「高天原」であると信じる向きもあるのです。
高天原、なんとも甘い響きです。
神々の棲まう天界・高天原。
当地こそが高天原であると謳う場所は日本に数箇所あり、また天の岩戸に至っては無数に存在していることを、僕は自身の旅で確認してきました。
だから思い至る一つの真実があります。
高天原と呼ばれるところには、暗く哀しい歴史もまた隠されていると。
当社の祭神は 「天照大神」「御年神」他二十一柱。
のちに合祀されまくった他二十一柱はとりあえず置いておき、主祭神の二柱は出雲の神です。
当地は北西に出雲族最大の神奈備である大山を望み、大山道の宿場町でした。
古代にも出雲族が住み着き、祭祀を行っていた聖域である可能性はかなり濃厚です。
拝殿の横にはちょっと変わった狛犬があります。
いえ、これは狛犬ではなく狛狼でしょう。
狼といえば大神、出雲の狼神社や奈良の大神神社、埼玉の三峯神社などと関連があります。
いや、尻尾を見ると狐かな??
境内社に「足王神社」があり、「足名槌命」「手名槌命」「天兒屋根命」「倉稲魂命」が祀られます。
手、足の守護神として遠く村外山陰地方から多数の参拝者があるという社ですが、記紀でクシナダヒメの両親とされるアシナヅチ・テナヅチは埼玉の氷川神社では出雲系の神アラハバキ神と称されていました。
足王神社はこの先の天の岩戸までの登山参道を安全に参拝するための社でもあります。
横に続く道が天の岩戸までの参道。
ここから岩戸までは30分くらいの登山となります。
しかしその天の岩戸を遥拝する「臨空館」と言う建物が、老朽化のため立ち入り禁止になっています。
つまり現在、苦労して山を登っても磐座を拝することはできないのです。
その注意書きが置かれておらず、結構登り進まなければその事実を知ることができません。
足王神社の案内書きを見ても、まるで岩戸まで行けるように勘違いしてしまいます。
臨空館は随分前から立ち入り禁止になっており、復旧する様子はないので、ずっとこのままなのかもしれません。
僕はあらかじめその情報を得ていましたが、せっかくなので少し歩いてみることにしました。
が、この参道が素晴らしく清々しい。
聖域の氣が流れ込んでいるようです。
蒜山は上蒜山・中蒜山・下蒜山の総称とされますが、擬宝珠山・二俣山を含む蒜山火山群に属しています。
蒜山火山群は、約100万年前から約40万年前に噴出したデイサイト~安山岩質の溶岩からなる成層火山群で、噴出した溶岩の岩質や形成時期は、北隣の大山火山の古期のものと類似するため、広義の大山火山に含むものとされています。
火山のエネルギーが創り出した聖域。
この先にある磐座・天の岩戸は戸の形をしていると言われますが、ネットに残る写真を見る限り、中央が縦にえぐれた岩のように見えます。
これは各地にある天の岩戸によく見られる形で、出雲族のサイノカミ信仰における女神の岩に似ています。
近隣に残る神話由来の地名などは、残念ながら『古事記』に則り、後に付けられたものと思われます。
なぜならそこには、創作された話も多くあるからです。
それでも当地が古代に連なる歴史を持つ聖域であることに変わりはありません。
確かに、古代出雲族による磐座祭祀が、ここでは行われていたのです。
だいぶ歩いてきましたが、ここに至っても天の岩戸の案内板に立ち入り禁止の注意書きはありません。
さらに歩き進んで
ようやく注意書きの貼り紙がありました。
情報を知らないと、ここまでやってきて愕然とすることになります。
この橋は「天の浮き橋」と名付けられ、
そこには「真名井の滝」もありました。
僕が茅部神社を訪ねようと思ったのは、ここ最近複数の方からこの神社のことを聞いたからでした。
人によってはそれを「呼ばれている」と表現するのかもしれませんが、僕はそんなスピリチュアルな発想には及びません。
年間200社以上参拝する僕ですから、茅部神社もその流れでたまたま旅の行程にあっただけのことです。
また天の岩戸の姿を直接見られなかったのは残念ですが、それで良いと思います。
禁足地が次々と解かれる昨今、御岩神社などのように新たに禁足地が生まれるのは良い傾向です。
人は無闇に聖域に近づき、そしてベタベタと馴れ馴れしくしすぎるのです。まあ、僕が言うのも、なんですけどね。
先は勾配がきつくなるようなので、ここで引き返したいと思います。
がそこにあった板状の岩こそ、岩戸の戸ではないのか、と思いました。
茅部神社は延宝5年(1672年)の建立といわれています。
近世に入り十二社権現、岩倉宮、岩倉十二社権現と称し文久元年(1861年)11月17日旧社、大社の旨を以て神号許可綸書を受け、「天磐座大神宮」と称したとされます。
大神宮とは伊勢神宮より直接「御分霊」を賜り奉祀すること。
あの石の大鳥居が神体山から切り出された石で造られたのは、とあるお告げがあったからという逸話がありますが、その工事が始まった翌年に神体の磐座が国家によって正式に神体として認められたことを天磐座大神宮の名は意味します。
しかし明治42年になると氏子東茅部、西茅部、本茅部地内の摂末社を合祀し茅部神社と改称して現在に至ります。
かつてこの辺境の聖地を国家が認め、お告げに従い多大な費用を用いて日本一の石の鳥居まで築き、盛大に祭祀を行ったであろう茅部神社が、なぜ今は人知れず真庭の蒜山に埋もれているのか不思議です。
しかし気になるのが当地に高天原であると伝承されているそのこと。
日本に数ヶ所、高天原を謳う聖地がありますが、その代表といえば宮崎の高千穂と奈良の葛城です。
その両者には滅せられた一族の裏歴史が隠されていました。
『偲フ花』にコメントいただく出雲通の「たぬき」さん曰く、高天原とは当時の首都の呼び名だとのことでしたが、高千穂では出雲系と思われるアララギの王「鬼八」(きはち)が物部族によって殺され、葛城でも出雲系大和族がツチグモと称され物部族に殺された形跡がありました。
僕は地主の王を滅ぼし首都を乗っ取った物部族が好んだ呼び名が高天原ではなかったか、と考えています。
茅部神社にも本殿に睨みを効かせるように鎮座する「荒魂神社」があり、物部の祖「素戔嗚命」が祀られています。
つまり出雲戦争の時、物部族、あるいは物部族と手を組み出雲に根深い因縁を抱いていたヒボコ族が当地に分け入り、ここの出雲族を惨殺したのではないかと思い至りました。
境内に植樹された背の低い木の裏側には、
葛城の一言主神社などにある蜘蛛塚によく似た石が置かれていました。
大陸・半島由来の物部・ヒボコ族は、敵の遺体の一部を切り取り、土に埋めて塚を築く習わしがあります。
この高天原に関する考察はあくまで個人的なものですが、磐座へ向かう道の心地よさに対し、境内に残る微かな違和感を僕は感じ取ったのでした。
素晴らしい考察です!!
わたしは、茅部神社周辺で育ちました。天岩戸は、遊び場の一つでした。
この記事を読んでとても懐かしく、久々に帰りたいな、と思っています。子供時分は、普通に生活圏内で当たり前に思っていましたが、大人になってからふと、八岐大蛇の大蛇と読むのをまわりの人がわからなく、そういえば、大蛇て地名があったな、と、天岩戸を思い出しました。とても良い記事を見つけて嬉しく、コメントしてしまいました。失礼しました。
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が、ダメっ!さん、コメントありがとうございます♪
返信が遅くなり失礼しました。
茅部神社に至るまでののどかな景色はとても心がなごみますね。昔から変わらぬ景色なのではないでしょうか。記述している僕の考察は不穏なものですが、今調べている越智家と茅野姫に関連がある可能性があり、茅部という名称もまた越智に繋がるのではないかと少しワクワクしているところです。そうであれば、天岩戸伝承・高天原の見方も変わってきます。ただうんちくはさておき、茅部神社が素晴らしいことに変わりはないのです。
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いつも楽しく拝見しています。
私も数年前にこのあたりを訪ねたことがあります。そのとき「蒜山高天原伝説」という地元発行のお土産書籍みたいのを購入しました。
内容は八岐大蛇プッシュの内容でした。
蒜山の先には孝霊天皇伝説の神社がいっぱいですので高天原とは一時的な行幸地だったのではないでしょうか?
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ブサイク王さん、こちらこそいつも貴重な情報をありがとうございます。
おっしゃる通り、高天原と呼ばれる地区で、長期にわたって政権が執り行われた形跡は薄いように思われます。
なんらかの制圧拠点であり、一時的な行幸地であったと考えるのがしっくりきます。
吉備津彦らは樂樂福神社から斐伊川沿いに西王家に侵攻したと富氏は語っておられますが、伯耆国を攻める別働隊が蒜山地区を侵攻したのではないでしょうか。蒜山高原の八岐大蛇伝説もまた、出雲族殺害の歴史であろうと思われます。
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CHIRICO様
おはようございます。蒜山にいらっしゃったのですね。しかも茅部神社とは・・・。もう本当にびっくりしました。
私の母の実家が真庭郡八束村中福田(今の真庭市蒜山中福田)なのです。ですから子供の頃、夏休みになると毎年のように遊びに行っていました。蒜山の神社といえば中福田の福田神社(大宮さん)が有名ですよね。国指定重要無形民俗文化財の大宮踊りがある神社ですが、その境内が私たちの遊び場になっていました。茅部と言えば当時田舎の中の田舎といった感じだったように記憶しています。何年か前、伴侶と茅部を訪れたのですが、目的は蒜山三座の雄大な景色を眺めるため。今はなくなっていますが昔は山陽休暇村という施設があり、そこからの眺望が素晴らしかったからです。その折、高天原なるものの存在を初めて知り、そんな伝説もあったんだとびっくりしたものです。
今回、CHIRICO様のブログを拝見し、蒜山地方の歴史を改めて見直すことが出来たように思います。
それにしてもCHIRICO様ってすごい! まさかと思われるような所まで行っていらっしゃるんですもの・・・。
私も福田神社など蒜山についてのブログは何回かあげたのですが、茅部神社とは・・・。おっと、このフレーズ2回目ですね。それだけ驚いたと言うことです。本当に参りました。勉強不足をひしひしと実感しております。
先年、可愛がってくれていた叔母が亡くなり、足が遠のいていた蒜山ですが、また行ってみたくなりました。
asamoyosi
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asamoyosi様、こんにちは。
そうでしたか、お母様のご実家とは。
私も初めて、真庭蒜山方面に伺いましたが、とても素敵な景色で驚きました。
一泊すれば、きっと星空もきれいなことでしょうね。
福田神社は知りませんでした。茅部神社の桜並木が素晴らしかったので、春に合わせて訪れたいと思いますが、福田神社の方は秋の紅葉が素晴らしそうですね。悩みます。
この日は実は、鳥取の投入堂に行ってみたのですが、もちろん一人では参拝できず、おひとりさまを待てども来ずで諦めて、それで向かったのが茅部神社でした。
投入堂は絶対行きたいと言うほどではないのですが、そのうちパートナーでも募って行けたらいいかなと思っています。
結果的に心地よい時間が過ごせたので良かったです。
岡山は未訪問地がたくさん残っているので、コロナが落ち着き次第巡りたいです♪
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