槵觸神社:八雲ニ散ル花 アララギ遺文篇 20

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アララギの村に秋の収穫の祭りがやってきた。
今年はそれに合わせて、里の新たな王の就任式も執り行われることとなった。
新たな王のために建てられた王宮は二つあり、それはタケミナカタが諏訪に建てた、春宮と秋宮を真似たものだった。
アララギでの春宮は高千穂宮、秋宮は槵觸宮と呼ばれた。
高千穂宮から槵觸宮へと向かう輿には、新たな王とその妻が乗っている。
御輿の行列を眺める里人は心から祝福し、子供たちは手を振った。

会知早雄は諏訪から草部にやってきて、豊家の家に世話になった。
高千穂や阿蘇では霜の害がひどく食物が不作となることが多かったが、諏訪はここよりも更に寒く霜の害を乗り越える知恵に長けていたので、会知早雄はそれを伝えた。
草部の屋敷で早雄を世話したのが豊家の娘・鵜之目姫であった。
二人が互いに惹かれあうのに、時間はかからなかった。
早雄は耕作・土地開拓の功を認められ、鵜之目姫を妃に貰い受け、王となる事が決まった。
彼は豊家の支配地のうちの阿蘇の南側から高千穂までの広大な土地を譲り受けた。
そこはアララギの里と呼ばれた。

「ご就任おめでとうございます。これは今年できた最高の酒にございます。王よ、ますます我らを豊かに導きくだされ。」
「いや、これも其方ら草部の民々のおかげ、こちらこそ礼を言いたい。」

秋の王宮に御輿が着くと、王と妃は並んで座った。
王宮の庭や広場は、多くの参列者であふれていた。

「ささ、酒を一杯」

勧められるままに酒を飲むアララギの王の顔は、赤く染まり始めていた。
すると、おおっ、と群衆の中から歓声があがる。
宴もたけなわになって、力自慢の大男が大きな石を担ぎ上げて見せていた。

「王もなかなかの力自慢と聞いております。どうでしょう、槵觸のご神前で力試しの相撲をひとつ、お願いできぬだろうか」
「よし、やろう」

気さくな新王は立ち上がって群衆の取り巻く中に進み歩いていく。

「姫よ、そなたの王は豪胆で大らかよの」
「まことにございます、母上」

鵜之目姫のそばに、母親が寄ってきた。
姫のお腹はふっくら丸みを帯び、王の子種を宿していた。

「わしの見立てでは腹の子は姫子のようじゃ」
「それは素敵なことです。私の娘はきっと両家の架け橋となることでしょう。
季節の春と秋を結ぶ祭りがあるように、夜の月と昼の太陽を結びつける、この大きな国の姫巫女として」

群衆の中でどっと笑い声が湧き上がった。
大男につき転がされた、肌の赤く染まった王の顔も、まるで子供のように笑っていた。

谷が八つ 峯が九つ 戸が一つ 鬼の住処はあららぎの里 。

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高千穂神社から天岩戸神社へ向かう途中に「槵觸神社」(くしふるじんじゃ)があります。

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高千穂にある「くしふる峰」は、古事記にある「筑紫の日向の高千穂のくしふる峰に天降り(あもり)まさしめき」と、天孫「瓊々杵尊」(ニニギノミコト)が天降った場所であると伝えられています。

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当社祭神は「天津日子番邇々杵命」(アマツヒコホノニニギノミコト)ですが、かつては祀る神を「高智保神」(高智保皇神 / タカチホスメガミ)としていた時期もあり、
この「高智保神(高知尾神)」は異伝として、「八幡宇佐宮御託宣集」に神武天皇の御子である神八井耳命の別名で、「阿蘇神」の兄神であると記され、「平家物語」では、豊後緒方氏の祖神であるとし、その神体は「大蛇」であると記されています。

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私はこの高智保神こそ、日下部吉見神社の日子八井耳「国龍命」(くにたつのみこと)であり、龍蛇信仰民族である出雲系諏訪族の「会知早雄」(おうぢはやお)であると思っています。
彼こそ、神話に悪名高き鬼八三千王だったのです。

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しっとりとした参道と長い階段の先にある槵觸神社。

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当社は本来、槵触山そのものを神体とし、直接山を拝する原始の祭祀が営まれていたようで、拝殿は後に造られました。

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しかし槵觸神社は古来より、高千穂神社が当年の豊作等を祈る春祭りを行うのに対し、豊作の感謝祭である秋祭りが行われてきました。
これは出雲の春秋の祭りを彷彿とさせます。

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また阿蘇・高千穂と同一的関連性のある諏訪において、諏訪大社下宮の春宮と秋宮は、タケミナカタが出雲の春秋の祭りを行ったのが創建であると富家の伝承は伝えます。

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確かに槵觸神社の現在地に社殿は無かったのでしょうが、もっと麓の場所に秋の宮の王宮があったのではないかと思い至り、ストーリーに仕立てました。

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高千穂神社や天岩戸神社の賑わいに比べて、人の少ない槵觸神社ではありますが、正月深夜に参拝した折は笙の音が響き、とても雅でした。
その思い出が冒頭のストーリーの祭りのシーンと重なります。

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例祭である秋の感謝祭は10月16日に行われ、年占の意味を込めた神事相撲が奉納されます。

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かつては九州一円から力士が集まり、高千穂方と来訪方に別れて技を競ったということです。

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社殿の裏側には、山の岩肌が露頭していました。

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参道の横を南側にそれる道があります。

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そこに「風土記・万葉の丘」という広場がありました。

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中央には天孫降臨に因む碑刻文が記されています。

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何ということはない広場ですが、それでも何故か神威を感じる場所です。

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更に先を進みます。

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しばらく進むと、

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玉垣に囲まれた、並々ならぬ雰囲気の場所が現れます。

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ここは「高天原遥拝所」(たかまがはらようはいしょ)、神々が高天原を遥拝した所と伝えられます。

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高天原とはなんぞや。
一般には神々が住む天界であるという認識ですが、たまにコメントをくださる出雲の血統を持つ「たぬき」さん曰く、それは古代の王都を示す言葉だそうです。

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ただ僕には、この高天原という言葉を好んで使うのは、物部族であろうと思い至っています。

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葛城の高天原も彼らが葛城族を制圧し、これ見よがしに高い場所に高皇産霊を祀っていました。
また周辺には、彼らが土蜘蛛と呼んだ者たちの塚「蜘蛛塚」が点在しています。

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阿蘇を制圧した「健磐龍」と高千穂を制圧した「三毛入野」は、果たして海部族だったのか物部族だったのか。
はたまた両者によって2度、当地は制圧されたのか。

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結局そこのところははっきりしないままです。
が、彼らが大和王朝系の一族であったことは想像に難くありません。

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ともかくもこの高天原遥拝所はいつ訪れても清清しい場所で、今も心地よい風が僕の中を吹き抜けたのでした。

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更に進み抜けると、「四皇子峰」(しおうじがみね)という場所に行き着きます。

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四皇子峰は神武天皇とその兄弟である五瀬命、稲飯命、三毛入野命が降誕した場所と伝えられるもので、また神功皇后が三韓征伐に際して、7日7夜の戦捷を祈願した場所であるとも伝えられています。

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しかし、いずれの伝承も実際には違うものと思われます。
僕が感じたのは、宗像大社の「高宮斎場」に似た空気。
出雲の神籬に近い場所だったのではないかと考えています。

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鬼八の伝承を追っていくと、その神跡は阿蘇の南側から高千穂に至る広範囲に点在していることに驚きます。
それはそのまま彼の統治域であり、王としての偉大さを物語っています。
しかし彼の神跡はすべて、何某かに制圧され、殺されたものばかりでした。

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比べて鵜之目姫側の豊玉姫系の一族は、阿蘇津姫や若比咩という名で後の時代も祭祀を続け、日下部氏や蒲池氏が健磐龍系阿蘇氏よりも実質的に祭祀を支配してきた傾向が窺い知れます。

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したたかさを兼ね備えていた豊系氏族に対して、鬼八のアララギ族は純粋であったのでしょう。
それゆえに多くは殺されてしまったものと思われますが、かすかに生き残った末裔が興梠姓の一族として今も血筋を守って来られたのです。

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阿蘇も高千穂も、訪れるたびに思います。
何と素晴らしい場所なのか。

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僕はそのことを、血を流した古代の人々に感謝申し上げるのです。

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